池川玲子『ヌードと愛国』

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ヴィヴァルディのフルート協奏曲 ニ長調 op.10-3 で、フルートはパトリック・ガロワ、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■ドビュッシーの「映像」第二集、「版画」、他で、ピアノはイヴァン・モラヴェッツ(NMLMP3 DL)。めったにないレヴェルのドビュッシー。何よりつつましくて、美しい。こんなピアニストがいたのだな、無知だった。■メンデルスゾーン交響曲第三番 op.56 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団NMLCD)。これいい。パーヴォ・ヤルヴィ、きっちり聴かせてくれる。
 
朝食まで一時間うとうとする。
曇。
 
ハイドンのピアノ・ソナタ第十五番 Hob.XVI:13 で、ピアノはラルス・フォークトNML)。
 
晴れる。スーパー。ゴールデンウィークの谷間のせいか、客が少ない。
駐車場の上の電線でツバメが鳴いている。きれいな声。嘴(くちばし)でしきりと身を繕っている。もう一羽来て隣に留まる。
自分の部屋という暗い窖(あなぐら)へ帰ってくると、こんなところに閉じ籠っているとマジ(精神の)不健康だなと思う。
 
昼。
蜘蛛が天井から静かにつーっと降りてきた。いま、机の上を歩いている。見ていると何か不思議な感じ。
 
ひさしぶりに珈琲工房ひぐち北一色店。
ナボコフの『ディフェンス』を読み始める。若島正訳。ナボコフは小説がうますぎて、というか、わたしのレヴェルを超えていて苦手なのだが、これはなかなかおもしろい。
外気23℃で家の中だとまだ涼しいくらいだが、陽射しは強くなった。
 
庭。


キスゲ ヒメカンゾウのよう。
 
図書館から借りてきた、池川玲子『ヌードと愛国』(2014)一時間ほどで読了。近代日本という国家(あるいはナショナリズム)と(主に女性)ヌードを絡み合わせて論じた本。フェミニズムの視点が強く入っており、知的でなかなかおもしろかった。こういう本を読むと、性的に古くさい時代遅れの自分を感じずにはいない(悪しき昭和の男性である)。例えばインターネットに氾濫する大量の女性ヌード画像に、わたしはきわめてナイーブな観点しかもっていない。自分の視線を解体、相対化していないといえるだろう。さて、若い世代の男性は、そのような視線を解体できているのだろうか。
 略歴を見ると、著者は若桑みどり先生に師事しているのだな。なるほど、と納得させられるところがある。

 
夕方、六時を過ぎてもまだ明るいな。
 
夜。
『僕の心のヤバイやつ 第2期』(2024)第19話(1期からの連番)まで観る。原作の感じがよく出てる。ここは原作でもいちばんいいところだからね。やっぱり第18話の卒業式の送辞のシーン、そのあとの、山田が気持ちを口にするところは感動的だった。
 たぶん、2期の最後は修学旅行の例のエピソードだろうな。原作はそのあともかなり健闘してたけれど、さすがに最近はダレてきて、惰性で読んでいるというのが正直なところ。さすがの『僕ヤバ』もあれがピークだったか。とにかく、2期はいいところなんだよ。
 
どうでもいいが、その送辞を読む前のシーン、市川が「自分で自分のことを好きになる」それって原作者が確かいっていたけれど、これめっちゃ今風だと思った。自分をなかなか好きになれないとか、若い人がよくいうよね。わかる、わかるんだけれど、「自分」なんて存在しない、関係性しか存在しないんだから、自分を好きとか無意味だろって、思わないでもない。まあ、理論的にはだけれど。

こともなし

昧爽起床。雨。
 
昼から雨の中、県営プール。外気が暖かくなってきたので、水温が低めにしてあった。

白いブラウスの女子高生が傘もささずに自転車を漕いでいた。降るという予報じゃなかったしな。
日野から抜ける井ノ口トンネルの上の山が、ツブラジイの黄金色の華に染まって美しい。
帰りに肉屋へ寄る。豚かたまり肉×3 など。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NMLCD)。
 
精神のなめらかさ。
 
夜。風呂を出てすぐ寝てしまう。

中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』

未明起床。暗い中で静かな雨の音を聞く。
瀧口修造のラディカルなシュルレアリスム詩を読んだせいだろう、なかなか消化し切れなくてしんどい。まあ、『まほあこ』のせいもないとはいえないが笑。
もう四時台から明るくなり始めるのだな。
七時まで二度寝する。
 
なんとなく Amazonコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)を見ていたのだが、全体的にめっちゃ高くなったねー。わたしのもっている Canon PowerShot SX620 HS は 2018年に 2万円ほどで買ったのだが、同じクラスのだといまは 6~8万円くらいする。もちろんスマホが普及して、多くの人がスマホの高画質なカメラで撮影するようになったからだろうな。コンデジが売れなくなった。わたしのコンデジも画質ではスマホに敵わないが、高倍率光学ズームなど、使い勝手は悪くない。しかし、ものには買い時ってのがあるなー。
 

 
中沢さんの『構造の奥 レヴィ=ストロース論』(2024)第三章「構造の奥」を読む。驚くべき発想と、創造性。
『人が他の人と結びつくためには、お互いの心理のうちでこの互酬性が働いていなければならない。そうしなければ、人間はこの宇宙でたった一人、孤独のまま生きなければならない。この宇宙でなにかのつながりをつくりたいと思ったら、相手が人間であろうと動物であろうとかまわないが、相手にまずなにかを贈与しなければならない。すると贈り物をもらった相手は、互酬性の原理に基づいて、なにかのお返しをする(相手が動物なら好意を見せるようになるだろう)。』(p.125)
『…ここで互酬性の原理を重力の作用に比定するレヴィ=ストロースの喩えは、まことに正確で深い。互酬性には引力に似た力を発生させる原理がひそんでいる。引力は物質同士を引きつけ合わせるが、互酬性は人間同士を引きつけ、交換を発生させ、社会をつくりだす。天文学は重力の理論によって盤石な基礎が据えられている。それならば、人間科学の盤石な基礎は互酬性の理論の上に築かれることになるのではないか。私たちの求めている「構造の奥」は、この互酬性の内部に潜んでいるに違いない。』(p.127)
 もし、わたしが孤独にして誰とも結びついていかないとすれば、「社会」というものがなかなか理解できないとすれば、それはわたしに「贈与」が欠けているからかも知れない。わたしはまず、他人に何かを贈らねばならないのだ。では、わたしは何を「贈与」すればよいのか。それは、はっきりとわかっている(すべての人間がもっているものだ)。いずれにせよ、(現代社会でも)人と人の結びつきの底に(「重力作用」として)互酬性 reciprocity がある、というのは、まさに的を射抜いている感じがする。
 
『現代の天体物理学はきわめて高度なトポロジー数学を用いて、その特異点の中身を調べている最中である。それに比べれば私たちの人間科学が心の構造を調べるのに用いているトポロジーはあまりに素朴なものでしかなく、しかもそのモデルを提供してくれているのは、崩壊直前にあった双分制のような先住民社会からもたらされた、いわば人類最後の情報なのである。しかしその情報から、人間科学は心的宇宙の特異点の構造に踏み込んで行くことも可能である。それをもとにして、人類は行き先のまったく見えなくなってしまった未来への航行図を描いて行くことができるかも知れない。』(p.156-157)
 まことに、「行き先のまったく見えなくなってしまった未来」。残り時間は限られている。自分がまったく不十分なことを、痛感して已まない。
 なお、本論文では人類学の贈与論と(物理学の)重力理論の深い対比がおこなわれている、というか、そこにインスピレーションが発火しているが、元(ひよっ子の)物理学徒の目から見て、中沢さんの重力理論の理解は、きわめて正確であることをいちおう付記しておこう。
 

セージ。

芍薬
 
昼。雨あがる、曇。
 
国際情勢知ったかぶり。
 アメリカやイギリスがハマスに対して停戦条件を飲むように圧力をかけているが、この紛争以前の状態、すなわち、イスラエルによるパレスチナ人のいわゆる「漸進的ジェノサイド」と、国際社会におけるその「無視」――という状態に戻るのなら、ハマスにとっては何の意味もないことを、理解していないな。確かに「停戦」は大事だ、もうジェノサイドはやめにしなくてはならない。でも、それが「漸進的ジェノサイド」に代わるだけなら、何も変わりはない。あるいは、パレスチナ人の絶望はもっと深くなるかも知れない。
 もっとも、ハマスがもう、譲歩して、あるいは、あきらめて停戦条件を飲まないとはいえないし、そうなったらそれでまた悲劇を生むだろう(「オスロ合意」が茶番だったことがちょっと思い出される)。こういう考え方は、人命の軽視だろうか? しかし、イスラエルによる「漸進的ジェノサイド」を長年放置してきた国際社会の人間(わたしも含む)とは、いったいなんなのか?
 
 
中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』(2024)読了。第四章「仮面の道の彼方へ」を読んだ。わたしは日本についてすら、あまりにも無知だな。
 中沢さんは、本書を「レヴィ=ストロースの主題による四つの変奏曲」といっている。中沢さんの理解するレヴィ=ストロースが、世間で流通しているそれとあまりにちがうので、本書は、編集者の働きかけがなければ、別に書かれなくてよかった、心に秘めておいてよかったというのは、恐ろしい話だ。書いてみて、著者自身にすら、「四つの変奏曲」はどれも、新鮮な革新力に満ちていると、感じられているという。ほんと、とてつもない独創性をもっていると、わたしも思うのだ。さて、わたしごときが、本書からどれくらいの宝物を、得ることができるのだろうか。

 

 
夜。
魔法少女にあこがれて』(2024)第13話(最終話)まで観る。いやー、冬アニメでいちばん話題になった作品だが…、まーはっきりいって H すぎる変態アニメだよね笑。魔法少女にあこがれるうてなちゃんは悪の組織の女幹部・マジアベーゼになってしまい、魔法少女たちに変態行為をしまくるという――しかしよく地上波放送できましたね。でも、凛としたマジアアズールが「闇堕ち」しそうになるところから、話がちょっと変わっていく。単純な「善」と「悪」の話じゃなくなるんだな(クソバカバカしくも変態的なのにはちがいないが)。水着回である最終話は、ハッピーエンドといってもいいくらい。やー、おもしろかった。でも、この作品が冬アニメの覇権作でいいの?笑
 OP、ED もよくて、毎回楽しみだった。曲、ふつうにいいし。

こともなし

祝日(昭和の日)。昧爽起床。薄曇り。
庭。次々に古い花がダメになっていき、代わりに新しい花が咲く。季節はうつろい、無常である。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのディヴェルティメント K.254 で、ヴァイオリンはヴィルモーシュ・サバディ、チェロはチャバ・オンツァイ、ピアノはマルタ・グヤーシュ(NMLCD)。軽くていい曲だな。■ショーソンピアノ三重奏曲 ト短調 op.3 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NML)。

 
昨日の話だが、UUID を変更してしまったら、/etc/fstabファイルをいじればいいのかな。ちょっと検索力が足りなかったか。
fstabについて - Qiita
 
スーパー。よくこのあたりを歩いている、ピカチュウやキティちゃんの帽子をかぶったコスプレ的(?)おじいさんがいるのであるが、スーパーで御一緒した。今日はピカチュウだった。
 
神社のお祭りで、町内の子供神輿が練り歩いている、チンチンという鉦の音が遠くでする。わっしょいという声。

 
昼寝。
だらだら過ごす。
ちょっとだけ外へ出たら、たちまち蚊に喰われる。老母のいっていたとおり。まだ四月ですよ。
たまたま2019年のブログ記事を読み返していたら、11.13 の写真がおもしろかった。11.5~7 は沖縄へ家族旅行。
 
『コレクション瀧口修造11 戦前・戦中篇1 1926-1936』の続きを読む。
 
ごろごろする。雨。
 
夜。
僕は YouTubeiPad miniSafari で観ることが多いのだが、最近かなりひどいバグが出ている。サムネイルに表示される動画の長さが明らかにちがっていたり、動画のアップローダーの名前がちがっていたり。YouTube は安定したサイトだと思っていたが、何があったのかな。Safari のバグではないと思う。
 
魔法少女にあこがれて』第8話まで観る。

(複数の)Linuxディストリビューションを選択的に別ディスクへクローンする

日曜日。晴。
 
昨晩からの続き。何をやろうとしていたかというと、昔使っていた Linux Mint の入っていたパーティションから、home 以下を HDD に保存しておきたい。
 というので保存用HDD の NTFSパーティションにコピーしようとしたわけだが…、よく考えたら Windows用の NTFSパーティションではうまくいく筈がなかった。眠っている間のコピーは失敗。
 今度は保存用HDD のパーティションを切り直し、保存用の ext4パーティションを作って、そこに権限を与えた Nemo の「コピー」で home 以下をコピーする。しかし、半分くらいコピーしたところで止まってしまう。Nemo ではダメなんだな。強制中断。(後記。どうも、そのまま続けておけばよかった気がする。しかし、rsync の方がいい。)
 というので、rsync コマンドでコピー(というより同期だが)の続きをやる。
 いちおう終了したのだが、一部がコピーされていない。ははあ、home 以下にアクセス権限がないディレクトリがあるのか(初心者だなあ)。
 というわけで、「chmod -R」で home 以下に再帰的にアクセス権限を与え、あとはまた rsync で同期し直す。
 さらに多少の問題(同期先の一部ディレクトリが、read-only になっていた)のあと、最終的な rsync で home 以下をすべてコピーし終えた。(12:41)
 

フランス菊とネモフィラ

芍薬

紫蘭(シラン)。
 
昼。
米屋。餃子の王将。外気29℃で、もうほとんど真夏日だ。
 
さて、ここまでで SSD に入っていた home 以下をバックアップし、SSD が丸ごと空いた。自分はサブ機の外付けHDD に複数のパーティションを切って、いろんな Linuxディストリビューションをインストールしているのだが、今回、これを整理して、外付けディスクを SSD に替えたい。
 パーティションのコピーは簡単で、GParted でやればよい。これは外出している間にやらせておいた。全部で 3つの OS をクローンした。
 これで本来はおしまいである。あとは「sudo os-prober」「sudo update-grub」で完了の筈。
 しかし、ぐぐっているうちにクローン先の UUID を変更しなければいけないように思って、それを実行したのがトラブルの元だった。UUID を変更したパーティションを、(よく考えたら当たり前だが) Grub が認識してくれない。だから、ブートしない。
 ブートの問題なので、Ubuntu のイメージをダウンロードして LiveUSB を作り、USB 上の Ubuntu から Boot-Repair をインストールして使う。しかし、Boot-Repair でもダメだった。
 ということで、もう一度 GParted で(SSDへの) OS のクローンをやり直す。これがいちばん手っ取り早かったようだ。今度は UUID の変更など行わず、おとなしく「sudo os-prober」「sudo update-grub」をして再起動。これですべての OS (5つ)が完全に起動するようになった。やれやれ。(17:56)
 

 
夜。
NIAGARA TRIANGLE 「A面で恋をして」Music Video (40th Anniversary Version) - YouTube
大滝詠一 夢で逢えたら - YouTube
 
 
図書館から借りてきた、藤津亮太『ぼくらがアニメを見る理由』(2019、副題「2010年代アニメ時評」)を読み始めるも、すぐに「これは読めない」とわかってしまう。わたしはマジメないわゆる「アニメ論」「アニメ批評」が苦手で、本書はそれであるといえるだろう。
 僕は下らないアニメをこよなく愛する人間だが、それはアニメをバカにしている態度になるのか。何も考えずバカ(=私)が下らないものをただ喜んで楽しんでしまっているわけだが、一方でアニメに密かなリスペクトを抱いていることは人後に落ちないつもりである。「こんな下らないものが作れるなんて」ってのは、僕には誉め言葉以外の何物でもない。実際、世界史において現代日本の深夜アニメほど下らないものは存在しなく、それは「日本スゴイ」の、極致ではないかとすらわたしは思うのだ。
 しかし、話は変わるが、深夜アニメも、もしかしたらその「頂点」は過ぎたのかも知れない、と思うことがある。深夜アニメの全盛期は、2011~12年あたりを中心とした、十年間あまり(テキトーだが)ではないかと、思わないでもない。その頃の作品は、作画や商品としての完成度などはいまより落ちるかも知れないが、好き勝手やっていて、オリジナリティがあって、アナーキーな印象がある。もっとも、断言できるほどアニメを観ているわけではないし、ただその頃の深夜アニメが好きというだけのことかも。もちろん、現在おもしろいアニメが作られていないというわけではない。ただの、印象である。
 ちなみに、どうでもいいが、マンガはもうとっくにピークが過ぎたとわたしは感じている。一作一作のクオリティ、おもしろさは昔より高くなっているが、作品の質は高くとも、(これも)全体的な熱気とアナーキーさが足りない感じ。いまのマンガは、オリジナリティが減って、消費のための商品という側面が強くなったといったら、いいすぎだろうか。いや、ま、そんなことはほんとどうでもいいのだが。
 
マンガは U-NEXT で充分大量に無料で読めるのだが、あまりそのサービスを利用していないな。

こともなし

昧爽起床。曇。
 
『東京ミドル期シングルの衝撃』(宮本みち子、大江守之編著、東洋経済新報社) - 内田樹の研究室
『本書では「ハンカーダウン(hunker down)」という言葉が使われているが、これは人々が「より私的な空間に閉じこもり、他者への信頼度が下がり、なるべくかかわらないようにしている」状態を意味するのだそうである。「引きこもり」である。地域コミュニティにコミットしない/できない状態のことである。』
 これ、まさにわたくしである。わたしもミドル期シングルで、私的な空間に閉じこもり、他人や地域コミュニティとなるべく関わらないようにして生きている。ただ、家族(老両親)がいるぶん、まだマシなだけだ。
 このエントリの文章は、とても納得がいくものだった。そして、わたしは田舎者だが、わたしのような人間が既にマジョリティになっているのが、現代東京の現実なのである。
 また、田舎の女性は都会へ出る、という事実も、田舎に住んでいるとよく実感される。女性は田舎を好まない。田舎の消滅は必至である。しかし、こうなると、日本の食料生産は誰が担うんだろう。
 
NML で音楽を聴く。■ヴィヴァルディのフルート協奏曲 ト短調 op.10-2 で、フルートはパトリック・ガロワ、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■シェーンベルクの室内交響曲第一番 op.9 (ウェーベルン編)で、ピアノはヤロミール・クレパーチ、プラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。■リゲティのヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリンはカン・ヘスン、指揮はピエール・ブルーズ、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(NMLCD)。
 
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。
 
昼。
メイン機の Linux Mint を 21.3 Virginia にアップグレードする。
 
うとうとする。
肉屋。よさそうな牛肉が半額だったので、牛丼用に買ってきた笑。
 
ドビュッシーの「映像」第一集で、ピアノはイヴァン・モラヴェッツ(NML)。イヴァン・モラヴェッツ(1930-2015)は84歳で亡くなったチェコの名ピアニスト、だそうだが、これを聴くまで全然知らなかった。録音は NML にたくさんある。

シューマン交響曲第三番 op.97 で、指揮はエリアフ・インバル、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団NML)。インバル三十代の録音という。フレッシュで、好ましい。
シューマン:交響曲全集

シューマン:交響曲全集

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ラフマニノフ組曲第一番「幻想的絵画」 op.7 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、アレクサンドル・ラビノヴィチ(NML)。目の覚めるような魔術的演奏。唖然とさせられる。

 
夜。
ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI:50 で、ピアノはラルス・フォークトNML)。なかなかのハイドン。軽くて洒落たところがある。ラルス・フォークト2023.3.17 にまとめて聴いている。既に51歳で亡くなった。

ブラームスの 六つのピアノ曲 op.118 で、ピアノはエレーヌ・グリモーNML)。

■バッハの 二声のインヴェンション BWV772-786 で、ピアノはクリストフ・エッシェンバッハNML)。ピアノの初学者向けのお手本として、エッシェンバッハが録音したものだが、ふつうに聴くに値するし。 
iPad mini でフー・ツォンのスカルラッティを BGM として聴く(NML)。
一周してもう一度聴く。演奏はいいし、好きな曲が多い。
 
 
Ubuntu の GParted を使って HDD の NTFS パーティションをリサイズしようとしたところ、エラーが出る。なので、Windows を立ち上げて、コマンドプロンプトchkdsk /f を実行する。
 再度リサイズを実行、成功する。しかし、今度は HDD がマウントできなくなった。もう一度 Windowschkdsk /f を実行。
 マウント成功。別の SSD から、容量を増やしたパーティションに必要データをコピーする。時間がかかるので、眠っている間に実行させる。

ロバート&エドワード・スキデルスキー『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』 / 「トモちゃんは女の子!」(2023)を観る

昧爽起床。薄曇り。
朝食後、またベッドに潜ってうとうとする。さすがに中沢さんは、簡単に消化されてくれない。
 
スーパー。明日が五倍ポイントの日のせいか、客が少ない。出来合いの惣菜のコーナーなども、商品が少なくてガラ空きである。
 
昼。
思想の言葉:ガザは甦る 岡 真理【『思想』2024年5月号】 | web岩波
再掲。「人間性の喪失」こそが現代において普遍的になりつつあるように、わたしには思える。もはや我々は、その感情の貧しさゆえに、「人間性」とは何かが、わからなくなってきている。つまり、記号の独裁、「生命への共感可能性の喪失」に我々が見舞われているということだ。
イスラエル世論調査によれば、ユダヤ系市民の九割以上が、ガザに対する現在の攻撃に賛同し、うち四割がこれを“insufficient”(手ぬるい)と考えているという。「人間性の喪失」こそ、人間にとって真の敗北にほかならないとすれば、イスラエルはたとえハマースに軍事的な勝利を収めたとしても、人間の歴史にすでに、その敗北を深く刻んでいる。』
現在のパレスチナ紛争はその意味で世界の現実の象徴でもあり、例えば現代日本はその現実の凄惨さによってガザであり、またその「敗北」ぶりからしイスラエルであるともいえる。
 

 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ハニーディップブレンドコーヒー451円。
 ロバート&エドワード・スキデルスキー『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(文庫版2022)を読み始める。副題「理念なき資本主義の末路」。我々は既に充分豊かな筈だ。ケインズは1930年に、我々は将来ずっと豊かになり、週15時間の労働で満足いく暮らしが、(百年後の)2030年には実現するだろうと説いた(「孫の世代の経済的可能性」)。さて、いまは2024年、ケインズの予言した年に充分近くなったが、果たしてケインズの予言は的中したか。明らかに否である。ならば、それはどうしてなのか。
 第二章まで読んだ。著者らの問いは、確かに共感できるものである。しかし、著者らのアプローチはどうだろう。例えば、我々の虚栄心、欲望、貪欲は限りがない、なんてことをいう。そういうアプローチは、まあよくわかるが、それで資本主義的価値観が解体されるだろうか。ここまではあまりにも陳腐な、アプローチに(わたしには)見えてしまう。我々は本質的に「悪」だといったところで、資本の回転や、我々大衆の欲望をムリヤリにでも開発していくことは止められないし、経済成長の必要性を崩すこともできない。わたしにはそんな風に、これまでの部分では、思えるのだが。
 我々は、既に資本主義という現状に投げ入れられてしまっていて、生まれてからずっと、その中で生きること、(将来も)生きていくことを強制されているのである。いってみれば資本主義の奴隷だ。その中でその価値観を解体するのは、心理的・倫理的に、まったく容易でないわけだ。
 さて、我々日本人は30年間にわたる「成長なき資本主義」を強いられて体験したわけだが、いまから見ると、これは(意図せざる)貴重な経験だったと思わないでもない。我々は、ここから何かポジティブに得るものも、あるのではないか?
 
中身を見てみたい新書本があったので、イオンモール 3Fの未来屋書店に寄ってみたが、あらず。適当に何か新書本をと思ったが、棚を見るとあいかわらず気が滅入る。
 
夜。
ロバート&エドワード・スキデルスキー『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』読了。途中から、マジメに読む意欲を失ってしまった。幸福の追求は論理的にいってまちがっている、地球温暖化の主張は科学的でない、天然資源の枯渇はない、芸術は大事である、意義ある余暇を過ごせ、エコロジーはクソである(とまではいっていないか笑)、とか、まあいろいろいっているし、それは別に好きにすればいいんだが、結局、本書は何がいいたいんだか、わたしにはよくわからなかった。著者はエリート主義といわれるのは本望でないらしいが、わたしが乱暴に要約すれば、「愚民どもよ、エリートのわたしのように、『徳』を備え、足るを知って生きよ」といっているようにしか、本書は聞こえない。それができれば、苦労しないのである。そして、資本主義の中で生きながらも、(経済)成長は必要ない、という。そんな資本主義が、可能なのか?
 残念ながら、わたしごときに読み取れた(誤読できた)のはそんな程度である。かしこい人たちは、本書を読んでいろいろ正しいことをいうがよい。わたしは、あまり興味がない。

もう少しわかりやすく書いておこうか。著者らはいろいろいっているが、結局我々愚民に対して、一片の共感もない。ただ、自分のもっている「正解」を、お前たちの役に立つのだぞ、悔い改めよと、我々に高所から押し付けてくるだけである。それがたとえいくら「正解」であったところで、そういう思想が真に人を動かすことはない。著者らが半分バカにしている例えばルソーやマルクスは、そういう思想家ではなかった。
 
 
『トモちゃんは女の子!』(2023)第13話(最終話)まで観る。トモちゃんとみすずとキャロル、いい友情物語だった。で、ラブストーリーも最後とってもうまく収まったし、満足。陳腐な話のように見えて、見応えがあったな。しかし、みすずもキャロルもクセが強くて、よく話が破綻しなかったと思う。トモちゃんと淳一郎の恋も、特にみすずがいないとうまくいかなかったんじゃないかな。陰キャで高圧的で考えすぎくらいに考える子だったけれど、いいキャラだった。