齋藤純一『公共性』

薄曇り。のち雨。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームス弦楽四重奏曲第一番 op.51-1 で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NML)。朝から人生がしんどい(?)のでこの曲を聴く。

シューベルトの「楽興の時」 D780 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリスNMLCD)。ピリスは過剰な感傷に陥らないし、かといって無味乾燥にも堕さない。黄金の中庸。この演奏も、構造はかっちりとしながら、シューベルトの音楽の悲しさがよく感じられる。
 
昼。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー451円。
図書館から借りてきた、齋藤純一『公共性』(2000)読了。20年以上前の、ちょっと昔の本。100ページあまりの薄い入門書だと思うのだが、抽象的すぎて結局何がいいたいのか、全然わからなかった。高度な学術書ならともかく、とりあえず教科書的なつもりで読んだのに、これではかなわんなあ。わたしは飛び抜けて優秀というわけではないが、ふつうに教科書くらい理解を期待していい程度の能力は、もってるつもりなんだけどね。ちがうか笑。つまるところわたしは、「自由な意思」も「アイデンティティ」もハーバーマス的な「討議」も「公共空間」も「政治」もよくわからない。アーレントの有名な「行為 action」と「労働 labor」と「製作 work」の区別も全然納得していない。「他者」を「応答される可能性」で定義するのも、どうもよくわからない(言葉でコミュニケーション不可能な「他者」だっているだろう)。わたしが(自分勝手に)理解しているのは「公共性は言葉だ」ということであり、さらにいえば、人間は言葉と論理だけでは理解し合えないことが多い、ということである。それは、基本的に言葉と論理だけでコミュニケーションしていくインターネットが、自由で生産的な討議空間ではあり得なかったという事実が証明している。その意味で、公共性は容易でないと思っている。
 本書では「人間的な、感情的な共感」などということはまったく、これっぽっちも問題にされていないが、はたして相手に対する「人間的な、感情的な共感」なしに充分なコミュニケーションなど可能であるのか? わたしは知らない。
 
しかし、学者(とか、ネット上の利発な人たち)はかしこすぎて、我々バカのことがよくわかっていないし、わかる見込みもないな。ほんと、むなしくて落ち込んでくる。これぞコミュニケーションの失敗。
 

 
夜。
本日玄侑さんの新刊『華厳という見方』(ケイオス出版)落掌、読み始める。第二章まで読んだ。このところ玄侑さんの新刊が出ていなかったので、待望の末である。講演録に手を入れたもののようだ。さて、薄い本なので一気に読み切ることも可能だが、どうしようか。
 あとは中沢さんの『精神の考古学』であるが、一年待っても本が出ない…。中沢さんの意に満たなかったのか、加筆訂正しているのか。
 
トニカクカワイイ(シーズン2)』(2023)第3話まで観る。安定のおもしろさ。俺ってアホだなあ。