わたしのいう「制度」 / 内田樹『日本習合論』

雨。
 
昨日『日本の歪み』を読んでいて、「自由意志」が存在するかというので、三人とも存在するわけないじゃん、で一致していた(ただし、見かけ上存在するというふうに扱われねばならない、とも)。自由意志の存在は現代哲学でも大きな論点のひとつではないかと思う。でも、僕は、「自由意志」という言葉で、何が指されているのか、その指示対象がまったくわからない。「自由意志」って、いったい何? だから、それが存在するかどうか、というのもよくわからない。ついでにいうと、「自由」や「意志」って言葉も、よくわからないでテキトーに使っている。バカで困るぜ。
 ちなみに、「自由」ってのはよくわからないが、我々の生が「概念」、そしてそれによって作り出される「制度」(わたしはこれを少し特殊な意味で使っている。ラカンのいう「法」「父の名」*1といってもいいかも知れない)によって、がんじがらめに拘束されていることは、わかっているつもりである。
 
わたしのいう「制度」は、外部に存在する具体的な構築物のことというよりは、むしろ、概念によって頭の中に(内的に)構築されているものである。我々はどんな社会に生きたって、なんらかの具体的な社会制度の中で生きるしかない。例えば現代日本なら、学校制度や、資本主義の要請に従った会社制度。これらには、(ふつうは)どうしたって誰だって、従わざるを得ない。しかし、我々を縛っているのは、むしろその学校制度や会社制度の基盤となっている、わたしたちの頭の中の「思い込み」である。わたしのいう「制度」は、むしろそちらのことだ。
 かかる頭の中の「制度」は、頭の中でできるだけ「解体」した方がいい。具体的な社会制度からは逃れられないが、それが頭の中で「解体」されていれば、多少は「柔軟な」生き方ができるんじゃないかと、わたしは考えている。所詮、我々のできることはそれくらいだが、そんなことでもめちゃくちゃむずかしい。頭の中の「労働観」(「人生観」でもあるだろう。人生観も強力な「制度」である)という「制度」を、解体できて労働している人はなかなかいないし、恥ずかしながら、わたしだってそれができてはいないのである。
 

 
昼。
図書館から借りてきた、内田樹『日本習合論』(2020)読了。ところどころ飛ばし読みしながら(特に第三章は飛ばした)、一気に最後まで読む。

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。■クセナキスの「テトラ」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NML)。リゲティの室内協奏曲(NMLCD)。
 
【第168回】アイヌ民族差別の背景には何がある?|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
こういうことをピックアップする斎藤美奈子は、本当に勉強になる。いまアイヌ民族差別がそんなに盛り上がっている(?)ことをわたしは知らなかったし、かつてのアイヌ民族差別が主に「無知から来る偏見」によるものだったのとちがって、現在のは「限りなく歴史修正主義に近い」というのも知らなかった。わたしはニュースに疎いので、知らぬうちに無知にハマっているなと思う。しかし、日本人、なさけないな、ガックリくる。
 
 
夜。
『彼女がフラグをおられたら』(2014)第3話まで観る。本当に下らんアニメだな。こういうの、結構好きだ笑。原作はラノベか。

*1:ただ、「父の名」というのは、ラカン化されたエディプス・コンプレックスの理論と結びつき、言葉の響きとしてあまりにも性的なニュアンスが強い。とても西洋社会的であるが、世界的な「西洋社会化」(日本ももちろんそうである)からすれば、この語を使ってもいいかも知れない。