文明と反文明の中間点と日本

深夜起床。
まだ外が真っ暗な中、PC の画面を眺めてぼーっとする。
 
NML で音楽を聴く。■シェーンベルクの「浄められた夜」 op.4 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット、ヴィオラはウラディミール・ブカチ、チェロはペトルプラウセ(NML)。シェーンベルクよ、この貧しい時代を切り裂け!

■ブルーノ・マントヴァーニの「パウル・クレーのための五つの小品」で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。
 
日本が文明的に先進国から転げ落ちつつあるというのが徐々に我々に明らかになってきているが、それがもし日本人の無意識が志向しているところだとすると、興味深いと思う。いまの先端的文明(中国を始めとするアジア、また中東、アフリカの各最先端都市を見よ)の高度な超都市化は、あまりにも行き過ぎているという、それはバランス感覚なのか。もしかしたら、日本人は「文明と反文明の中間点」を無意識的に見出そうとしているのかも知れないが、そうだとすれば、それはまだ世界史において何者も試みたことのない、極めて重要な企てである。もっともそれは、あまりにも日本人を買いかぶりすぎであり、たんに最先端文明に追いつこうとして、能力的に不可能である、というだけのことかも知れないのだけれど。(6:55)
 
タルコフスキーは1972年に『惑星ソラリス』において東京を「未来都市」として撮ったが、それを思うと、ヴィム・ヴェンダースが2023年に『PERFECT DAYS』で東京を「禅的」に描いたのが、意義あることに思えてくるではないか。って、わたしのこじつけだけどね笑。
 

 
薄曇り。
モーツァルト弦楽四重奏曲第十七番 K.458 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。クイケン四重奏団のこのハイドン・セットは、わたしに個人的にとても可能性がある。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はクイケン四重奏団NML)。以前だったらこの演奏が凄いってことが、わたしにわかったか、疑問だな。クイケン四重奏団って、とんでもないの、見つけちゃったな。NML にあまりないのだけが残念。モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。クリスティアン・ツァハリアスはよく知らない、と思ったら、過去にけっこう聴いているらしい。わからないもんだな。マリー=ルイーズ・ヒンリクスについては何も知らない。

■上のツァハリアスとヒンリクスの K.448 をもう一度聴く(NML)。■ツァハリアスのピアノにデイヴィッド・ジンマンの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第二十番 K.466 の冒頭を聴いてみたが、ピアノも指揮も平凡というしかない(NML)。続けて聴く気がせず。
 
 
昼飯に焼きそばを作る。
 
YouTube でセルゲイ・ババヤンのスカルラッティの続きを聴く。悪くない。K.491 っていい曲だな。
スカルラッティソナタ K.491 をアンジェラ・ヒューイットのピアノで聴く(NML)。ヒューイットは音がちょっと汚いな。よさそうな演奏を NML でつまみ食いしながら探してみたが、思ったようなのがなかった。やっぱりババヤンのがいいかな。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 斎藤幸平さんの『マルクス解体』の続きを読む。コーヒーを二度おかわりして、がんばって第三章から第五章まで、第二部までを読了。承前。わたしの知識と能力の足りてないのは明らかで、それでもと敢ていうが、じつにおもしろい。以下、わたしごときの貧しい感想をちょっと書いておこう。
 恥をさらすが、前にも書いたとおり、勉強不足で、「社会」という語のデノテーション(語の指している対象)がわからない。しかし本書を読んでいて、「自然と社会」が二項対立概念として扱われているところで、なるほどと思った。世界Wの中に自然Nは包含される(N⊂W)が、社会Sは、Nの補集合(S=W-N)として理解できる、ということである。そして敢ていえば、社会Sは「人間に関する領域」であり、そこから自然Nは「非人間的」であるというコノテーションをもつ。
 と、とりあえず理解したのであるが、第三章でルカーチが丁寧に読み込まれる中で、「自然と社会」という二項対立をもつルカーチへの批判(それはマルクスへの批判でもある)が再批判される。例えばラトゥールなどは一元論者として「自然と社会」をぴったり重ね合わせ、そこからルカーチの二元論を批判できるが、著者は、そのような二元論はもともと世界がそのように二元論的であるゆえに、「方法論的二元論」として敢て保持されねばならないというのだ。
 これはわたしには非常におもしろかった。確かに例えば現代の主流経済学では自然は「外部性」として領域の外へ放逐されているが、一元論ではそのような主流経済学(それは資本主義を当然ながら肯定する)を批判できない。いや、わたし自身ラトゥールに似た一元論的なところがあるが、それでは「肯定」しか生まれず、「社会批判」(資本主義批判)が可能でなくなるのだ。
 以上の議論は第四章、第五章でさらに深められている。
 とりあえずここまでにしておこう。本書はわたしの知識と能力を超えているが、著者のマルクスの読みを(よたよたと)たどると、マルクス(わたしは文庫本でそれなりに目を通したが、ほとんど何も理解しなかった)が非常によく世界が見えていたことを痛感する。いまさらだが、さすがに「1000年に一人の思想家」だと実感するのだ。また、それを読む著者も、じつに骨太の思想家だとわかる。最近の若い人たちの中で、よく見えている人だなって印象を受けるのである。
 
 
夜、深夜までかけていちおうやれるところまで貫く。