未明起床。
極薄い雲が空を覆っている。晴れというべきか。
早く起きたせいか朝食を取ったら眠くなったので、しばらく朝寝(?)する。
自分(たち)の所有しているお金は、自分(たち)が所有しているんだけれど、じつは自分(たち)のものではない、というのが、資本主義下におけるコミュニズムの思想であるべきである。金は天下の廻りもの、っていうだろう?
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昼。
県営プール。家で水着や水泳帽がバッグに入っているか確認したときに、水泳帽を落としていったらしい。古いのがバッグに入っていたので、それを使う。
すべてのレーンが埋まるくらい人が来ていたな。
鵜飼い大橋から北に望む山々が、赤や黄の斑(まだら)に染まって美しい。
細野晴臣『NAGA』(1995)を聴く。現代のための音楽が書かれねばならない。最新の既に死んだ音楽ばかりが、流通し消費されている。これなんか、30年も前の試みがひどく新鮮だ、まあ、古典だから当たり前だけれどね。
富の再分配、他人を受け入れること
未明起床。
やわらかそうな(?)白い雲で空が覆われている。
やはり、富の再分配を積極的に行っていくしかないように思える。それも、一国の内部だけでなく、世界的な規模で。経済的なリベラリズム(あるいは、いわゆる新自由主義)は、「放っておけば格差は拡大する」という資本主義の問題点、大きな欠点を放置することになる。格差の拡大は、既に実際に社会不安、社会の不安定性を招くまでに至っている。それを容認するということは、「下層民」を暴力で弾圧することに繋がっていくだろう。
あとは、精神面では、概念以前の、「他人の存在」を受け入れていくこと。他者とひとつの場所を共有し、同じ人間であることを受け入れること。とりあえず、想像力とか、他人の身になってみる、なんてことは措いておく、それはつまるところ「概念」「知性」の問題だからで、そんなことはあとでいいのだ。
「富の再分配」に際して問題になるのは、「自分には能力があるのだ。そういう人間が自由に能力を発揮し、富を独占して、何が悪いのだ」というリベラリズムの思想である。これはきわめて古くからあるひとつの思想のタイプで、根本的に論破することは実際にはむずかしい。原始的ないわゆる人間の自己中心的な「エゴ」であるが(リベラリズムはエゴイズムに親和性が高い)、この二十一世紀になっても、このようなプリミティブな感情(=思想)がますます噴出し、世界を覆っている。また、悪いことに、国家と資本主義はかかる貧しい感情(=思想)を助長・強化する。
日本なんかでは、「稼げる人間は偉い」という考え方が強いしな。
でも、日本人の「他人との間の壁が薄い」というのには、可能性がある。日本人の間の「ATフィールド」は弱い。それはいってみれば西洋的自我が弱いということだから、個人としては苦しいし、心の病の元ともなるが、やはり、まともな人間(?)にはそういうところが(本当は)必要なのではないか。それが、他人を受け入れる、ということである。もちろんそれは、自分を出さない、消してしまうことではない。
概念という「ATフィールド」で保護された西洋的自我を、いわばメルトダウンさせること。
しかし、問題は経済的格差だけでなく、「知的・文化的格差」もある。でなければ、大金持ちの新自由主義者を、「下層民」が熱狂的に支持した例えばアメリカ大統領選の結果を、説明できない。
「知的・文化的格差」ねえ。嫌な言葉だな。何で「知的・文化的に優秀である」ということが、こんなに重視されるのか。皆んな、バカでいいじゃないか、バカになるべきなんだよ。その意味では、「かしこいインテリ、むかつく」という「下層民」の直感は、正しすぎるほど正しい。かしこい人間の心が貧しいというのは、別にふつうのことである。感情が、貧しい。
でも、インテリだけじゃなくて、我々「下層民」の感情も貧しかったりする。結局、「下層民」もじつはインテリ化していたりして、とにかく「他者を受け入れ」られなかったりするんだよ。問題は、そこだな。惻隠の情、これがなくなったら、人間はどこへ行くのか?
インテリ化した我々大衆という、この世の地獄。
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隣の川、一昨日撮ったもの。
家事で使う水が痛いほど冷たくなったな。
昼。いい天気、風は強めだが。
老母の病院での検査が時間がかかりそうということで、老父と丸亀製麺イオンタウン各務原にて昼食。肉玉ブッカケうどん+いか天960円。前は丸亀製麺、うまいと思っていたけれど、肉がいまいちだし、汁もあとで味が舌に残る。所詮は安もの。でもまあ、この程度で満足できないことはないし、それに、待たされないしな。
インスタントコーヒーを飲みながら、長時間ぼーっとネットを見たり、いろいろ考えたり。時間のムダかも知れないが、そんなことをいったら、わたしの人生そのものがムダかも知れない。もっとも、ネットでイヤな思いをしない場所は限られていて、しかたがないから、無意味に自分のブログを読んだりする。
「本はねころんで」さんとか「一朴洞日記」さんとかいった、畏怖すべき年配の方々のブログに、勇気を頂いたりしている。あと、無名の二十代の若い人たちの極一部にも、よい感覚の萌芽が見られて、このまますくすくと伸びていってくれないかなとか、わたしごときが何様なことを思ったり。自分も含めて、概して四十代、五十代はちょっと希望がもてなさそうかな。
窓に日差しがあたって、レースのカーテンが明るく光っている。
稲沢市荻須記念美術館にて「安野光雅展」
晴。いい天気。
よく寝た。
ガソリンスタンド、1Lで163円。今回の燃費は 22.8 km/L だった。
雪虫飛ぶ。スーパー。オリーブオイルが高価だ。おせちの予約はお済みですか、ここは警察の方に巡回して頂いています、なんて放送が入る。
近くに並ぶ低山が色づいてきれいだ。毎年より色が濃いような気がする。
昼。
愛知県の稲沢市荻須記念美術館へひとりで行ってきました。
まずはローソン各務原三井店にて温かいお茶を買う。上は、その駐車場から「各務原台地」を望んだもの。小高くなっているでしょう、過去の木曽川の氾濫によるものだったと思う。
国道21号から国道22号へ入り、いつもの西尾張中央道ではなく、カーナビのいうとおり、尾張一宮駅の東に出、くるくると一宮市街を細かく経て、50分くらいで美術館に到着。知らない道で、結構おもしろかった。
荻須記念美術館に到着、「安野光雅展」を観に来ました。一般1000円。
安野光雅(1926-2020)さんの絵について、特にいうことはないですね。基本的にヨーロッパの古風な町を、童話っぽく品よく描いたという感じ。イラストレーターとして長く活躍されたので、誰でも知っているのではなかろうか。作品はそんなにたくさんはなかったですが、お客さんは多かったです(駐車場もほぼ満杯でした)。
わたしにとって安野光雅さんというと、森毅先生と仲がよかったことが思い出されるかな。対談本があったと思う(読んだかは覚えていない)。それから(持っていないけれど)「ちくま文学の森」の表紙。あと、いまはなき岐阜の老舗書店・自由書房のオリジナル・ブックカバーが、安野さんの絵だったのがなつかしく思い出されます。これについてはかつてちょっと言及したことがありました。
常設の荻須高徳も拝見、こちらは前にも観ています。小学生が引率されて、20人くらい来ていました。
建物の中はこんな感じ。小さな美術館ですね。
すぐ近くのコメダ珈琲店稲沢大塚店へ寄っていきます。コーヒーを飲みながら、かつて「ブ」で買った小沼丹の文庫本を開く。短篇「バルセロナの書盗」「白い機影」を読んだ。隣の席のじいさんが、「そんなことをやっていないでさっさと持ってこい!」と店員に喰ってかかっていた。それからも唸ったりしていたり。
まったく同じ道で帰宅。往復で 50km くらいでした。
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夜。
●「国ガチャ」の時代に | 国籍・国境・格差 | 武井彩佳 | WEBみすず
『10年ぶりに暮らしたヨーロッパは、ウクライナ戦争の影響もありエネルギー不足が深刻で、物価がとにかく高く、加えて円安の三重苦だった。卵4個(2.5ユーロ、380円!)を買うにも売り場で5分逡巡し、これほどの貧乏感を味わったのも大学時代以来であったが、何よりもショックだったのは、日本が発展途上国レベルにまで「安い」国になってしまったという事実だった。経済的にだけでなく、日本の政治的な存在感は極めて薄く、アジアというと中国か、近年ヨーロッパへの移民が多いインドかといったところで、日本がフランスでアニメとラーメンに集約されてしまっているのは、もはや屈辱であった。』
『最近、アメリカの著名な投資家が日本人に対して、「あなたが10歳なら、はやく日本を出た方がいい」と提言したという。なんとなく心がざわつく。少子化で経済規模の縮小が避けられない中、日本も国ガチャのハズレと見なされるときが来るということか。』
●メリトクラシー | 国籍・国境・格差 | 武井彩佳 | WEBみすず
『実は先のサンデルの本でもっとも考えさせられたのは、何を隠そう、人種やジェンダーによる差別が認められない世の中にあって、学歴差別は容認されているという指摘であった。サンデルは、「人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見」と書いている。肌の色や性別など、自分のせいではない事柄で差別され排除されるのは不当だが、学歴のような、事後的に獲得可能なものについては、自己責任であるというわけだ。これは、自分の境遇に対する自身の責任を問う考えと結びついている。だから学歴のない人が成功せず、底辺でもがいていたとしても、人種差別に苦しむ人のようには助けてもらえない。アファーマティブ・アクションのような措置を求める声は上がらない。』
『やはり能力主義(meritocracy)の最大の問題は、個人の能力を評価することで不平等や貧困を解決すると言いながらも、むしろ格差が世代を超えて継承される要因を作っていることだと思われる。格差の継承は、経済的な要素のみならず、読書の習慣や芸術への嗜好など、言語・文化も媒介とするということは、社会学ではおなじみの考えである。日本でも東大卒の親を持つ子どもがやはり東大に進むことが多いのは知られているし、それは塾に通わせることができるといった経済的要因のみならず、勉学への姿勢や、さらに言えば、親が東大なのだからその子どもは勉強ができるはずだという、周りからの期待による「予言の自己成就」が作動するためでもある。そうするとその子どもは実際によく勉強するし、親の期待にそって東大に進学する。こうして再生産されたメリトクラシーのなかで、子どもは自分が良い大学と一流企業に入れたのは自分に能力があり、また努力したからだと錯覚する。対してアンダークラスの「能力のなさ」は、彼らの境遇がその証拠であると解釈する。』
『こうした社会において富の配分が均一でない以上、親は自分の子どもに能力が足りていないことを恐れる。いわゆる「能力不安」である。自分がいま享受する社会的地位を何としても子どもに継承させたいと願い、子どもの将来の進路をおもんぱかって初等教育の早い段階から学校の選択を決定するという傾向が強まる。むしろ親の富や願望が、子どもの進路を決定してゆくということである。これを、メリトクラシーの社会が生む「ペアレントクラシー(parentcracy)」と呼ぶ。』
気持ち的に元気が出なくて、早寝。
内田樹&石川康弘『甦る「資本論」』
晴。
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第五番 K.175 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデル、指揮はネヴィル・マリナー、アカデミー室内管弦楽団(NML)。マリナーの導入が溌溂としていてすばらしく、聴くのを決める。ブレンデルも小ぎれいなよい音のピアノで悪くない。
●ドビュッシー/交響詩「海」|パスカル・ロフェ - NHK交響楽団 | YouTube
9.9 のライブ録音。
『中村哲 思索と行動(上)1983-2001』の続き。「人間は常に意味と説明を求めるものである。しかし、数百万人の犠牲を前に、大袈裟な論評を軽々しく語るのはためらいがある。人の知恵も言葉も余りにも貧しい。また、無数の病人たちをさしおいて『僅か数千人』のらい患者のケアをすることの意味は何か。空理空論を展開するのも余りに空しい。歯の浮くような修辞や美辞で自己正当化するには、現実は余りに圧倒的である。」(p.177-178, 1990)
「きらびやかで喧(かまびす)しい割に中身の少ない過剰包装時代、汗水流して働く事を厭(いと)う一億総貴族時代、カネと効率主義で頭のいかれた一億総白痴時代、こざかしい評論ばかりで実のない口先時代、タガが緩んでビジョンを失った無気力時代。心理学者が言わずとも、適応障害の一つも起こりましょう。」(p.187, 1990)
花の終った筈の石蕗(ツワブキ)に留まるキチョウ。いい天気だ、暖かい。ピントが合わないのでダメ元で近寄っても、ちっとも逃げない。まるで、わたしが撮り終えるのを待ってくれているかのよう。花を離れると、わたしの周りを飛び回る。
昼。
シリアで反政府勢力がアレッポを掌握、と。わたしはニュースを見ないので、全然知らなかった。また中東か。シリアではアサド政権をロシアやイランなどが、反政府勢力をアメリカやトルコなどが支援しているという。まあ、各国の思惑があり、それぞれの「正義」とやらに基づいているのであろうが、それにしても「正義」(=言葉)は人を殺す。パワー・ポリティクスも理屈はわかるし、それも「正義」に必要なんだろうが、死ぬのは民衆である。つい、バカバカしいといいたくなる。「正義」は大事かも知れないが、それで大国が自分の都合で「(軍事)支援」などするから、たくさんの人が死ぬのだ。そういう側面は否めない。
ガザでは食料支援をしている国際NGO のスタッフ数人をイスラエル軍が殺害したという。ハマスに協力していたと、いつもの言い草である。食料支援に殺到するガザ市民の映像が流れていたが、お鍋などを必死に突き出す子どもたちなど、痛ましすぎて見るに堪えない。その NGO職員を攻撃する、イスラエル軍とは何様なのか。
珈琲工房ひぐち北一色店。
内田樹&石川康弘『甦る「資本論」』の「本論」を読み終える(残りは補遺みたいなもの)。「若者よ、マルクスを読もう」のシリーズも四巻目、これで最終巻で、15年も続いたんだってさ。わたしは全然「若者」どころか、もう老年が見えている後期おっさんであるが、本シリーズを読んでつくづくよかったと思う。本書の内容もよかったが(わたしごときにはむずかしかったけれど)、なにより志(こころざし)の高い本で、こういう本がいま払底しているのだ。まあ、志の低い連中が幅を利かせるのが世の常であるからね、勇気づけられる文章に飢えているわたしである。
それにしても、内田樹、ほんとバカにされているよね。今日もたまたま有名な(あるいは、かつて有名だった)あるブログを読んでいたら、内田が揶揄され嗤われていた。ま、かしこい人たちはそんなものであろう。
いちょう通りに並ぶいちょうが落日に映えて、じつに美しかった。この通りのいちょうは紅葉の季節になると葉が落とされてしまって、毛を刈ったあとのプードルみたいなみすぼらしい姿になるのであるが、わたしの住むあたりでは家がほとんどなく、苦情をいう人間がいないので、刈られないで見事なままなのである。運転しながらなので、カメラに収められないのが残念。
図書館から借りてきた、内田樹&石川康弘『甦る「資本論」』(2023)読了。副題「若者よ、マルクスを読もう 最終巻」。結局、資本主義において、資本(家)が労働者を搾取する(例えば、できるだけ低賃金で長時間働かせる)ことは決して已むことがない(それは残念ながら、日々明白である)。資本主義が終わることが不可能というなら、資本主義に対する「批判」は、常に、これからのどのような時代にあっても必須である。それこそが(資本主義下における)我々の生をよくしてくれる。どうも、わたしごときには、そんな風に思われるようになった。その助けのひとつになるのが、マルクス(主義)である、本書を読んだことはそういう思いを助長させた。そのわたしの感覚が、正しいかどうかはわからないが。
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夜。
そういや、数日前に「二槽式洗濯機が壊れた」と書いたが、昼過ぎにサポートの方が来て見てもらったところ、壊れているんじゃなかったらしい。なんか、排水の先で糸屑が塊になって詰まっていたとのこと。まあ、買い替えなくて済んでよかったよ。
U-NEXT で『幻夢戦記レダ』(1985)を観る。いやー、いのまたむつみかー。なつかしすぎる。これ、高校生のときに(岐阜)柳ヶ瀬の映画館で観た可能性が高いんだが、話はまったく記憶に残っていない。でも、このキャラデザは明確に覚えている。
当時だから完全なセル画アニメだが、結構なめらかによく動いているし、絵の質も高い。しかし、何もかもがまったくの八十年代、恥ずかしいなあ。昭和ですよ。もう、いまからすると異世界みたいなもんだな。実在したことが疑われるレヴェル。69分。いろいろ検索していたら、いのまたむつみさんが今年の三月に亡くなっていたのを知った。急逝だったという。六十三歳か、早かったなあ。
「恋愛フロップス」(2022)を観る
日曜日。昧爽起床。晴。
十二月か、今年ももう一月。
NML で音楽を聴く。■ライヒの「マリンバ・フェイズ」「ナゴヤ・マリンバ」「クラッピング・ミュージック」、平義久(1937-2005)の「トリクロミー」、フィリップ・ユレル(1955-)の「典礼トリオ」で、演奏はトリオ・クセナキス(NML、CD)。これでアルバム一枚聴き終えた。
自宅庭にて、11.29 撮影。
昼食は昨日のキムチ鍋の残りで作った雑炊と、味噌汁。うまい。
飯を食いながら東京発の食番組を観ていたのだが、スタジオでうまいーっていってましたけれど、その食材を作っているのは、東京の人たちがバカにする田舎のひとなんですよ。いま、日本の農業は後継者不足で瀕死の状態になりつつあるけれど、その事実を皆んなもっと認識してくださいな、ホント、マジで。田舎の若者は大ざっぱにいって農業なんてやりたくなくて、都会へ出ていきたいんですよ。まずは、日本全体の田舎蔑視の構造を変えないとね。「田舎で暮らすとか、何の罰ゲーム?」ってやつ。
昼寝。
アーモンドクッキーとインスタントコーヒー。
来年の一月から愛知県美術館で「パウル・クレー展」がやるんだな。
『中村哲 思索と行動(上)1983-2001』の続きを読む。「この無秩序なペシャワールという町に何か魅力をおこさせるものがあるとすれば、極めて幼稚かつ陽気に、人間の持っている弱点と欠点が大手をふって歩いていることもその一つである。」(p.73, 1987)
「金と力がわがもの顔に横行するこの極端な社会の中で、われわれの使命は単に小さな、何かの明りを守り続けること以上のものではないことを身を以って感じた。しかし、この何かの明りこそ、日本でもペシャワールでも同様に人の心を暖くする共通のものであった、と私は信じている。」(p.94-95, 1987)
「とは言え、理解されぬ事も少なからず、異常な忙しさと管理体制で、人々は自分のことで忙しく、寂しい思いをしないでもなかった。美しい国・日本は、次第に思い出の中に夢のように描かれて、帰国する毎(ごと)に『こんな筈ではなかった』という感じを拭(ぬぐ)い去ることが出来なかった。それが何だったのか自分でも釈然としないが、故郷は遠くでこそ美しかった。」(p.123-124, 1988)
「肝心の『人間』が置き去りにされた援助によって、アフガニスタンはまるで、大国のおもちゃのようになり、ずたずたに引き裂かれたと思えます。すべてとは言いませんが、多くの欧米のボランタリー団体の行うこれらの偽善的行為を、私はアフガンやパキスタンの同胞とともに忘れないでしょう。/日本の対応は、金を出すことだけでした。金を出すことが決して悪いことではありません。しかし、その金がいかに使われたかを知るべきでした。日本にとっては小遣い程度の金であっても、額によっては一国の命運を左右し得るのです。」(p.126, 1988)
「欧米とアラブの殆どの国のNGOが顔を並べているが、中にはアフリカのスーダンの団体もあった。スーダン自身が難民と貧困であえいでいる国である。『自分の国のことで精一杯ではないのか』と問うと、『とんでもない。我々自身が難民と政治干渉で苦しんだからこそ来たのだ。ひとごととは考えられないからだ』と当然のように述べた。経済大国日本の事を思えば赤面する思いに耐えられなかった。」(p.147, 1989)
マンデビラ・サンデリ。11.29 撮影。
夜。
『恋愛フロップス』(2022)第12話(最終話)まで観る。あー、第7話から急展開、一気に物語の真相が見えてくる。なるほど、だから「フロップス」なのね。FLOPS はコンピュータの演算処理速度をあらわす単位だ。しかし、第11話、第12話は悲しすぎて、泣いてしまった、まさかこんなシリアスな展開になるとは。前半が、幸せで能天気なような話だからな(それが伏線なんだが)。ギャップがありすぎる。
この作品、あんまり話題になった記憶がないし、最初の方で切った人も少なくないだろうな。わたしには予想外の進み方だった。なお、絵の色づかいが独特できれいだってのは、既に書いたよね。
『柄谷行人 政治を語る』
未明起床。雨、しばらくして上がる。
NML で音楽を聴く。■スカルラッティのソナタ K.1, 7, 27, 87, 96, 98, 101, 108 で、ピアノはマリア・クレメンティ(NML)。まったく無名のピアニスト。
時雨れる、外気8℃。
マックスバリュ。鍋料理用のいわし団子パック×4。
スーパー。三倍ポイントの日。プリペイドカードにチャージする。買い物は思ったより安く済んだ。
昼食は三日と空けぬ半田めん、食後にインスタントコーヒー。
『中村哲 思索と行動(上)1983-2001』(2023)を読み始める。副題「『ペシャワール会報』現地活動報告集成」。わたしごときが中村医師を評するのは不遜で犯罪に近いが、敢ていえば、中村さんは聖人というより、サムライであるように(わたしには)思える。しかし、大部で読みづらい本書を、わたしなどが読み切れるものだろうか。
しばらくうとうとする。
図書館から借りてきた、『柄谷行人 政治を語る』(2009)読了。
■スカルラッティのソナタ K.135, 188, 197, 260, 319, 380, 487 で、ピアノはマリア・クレメンティ(NML)。これでアルバム一枚聴き終えた。なかなかよいスカルラッティだったと思う。■クセナキスの「オコ」、ピエール・ジョドロフスキ(1971-)の「二十四のループ」で、演奏はトリオ・クセナキス(NML)。打楽器。おもしろい。■ピエール・ジョドロフスキの「セリー・ブランシェ」で、ピアノはマウゴルザタ・ヴァレンティノヴィチ、電子楽器はピエール・ジョドロフスキ(NML)。
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夕飯はこの冬初めてのキムチ鍋。うまいなあ。
『恋愛フロップス』第6話まで観る。ただ舞台が近未来というだけで、よくある学園ラブコメかと思っていたら、女の子が殺し屋とか、魔法少女?(笑) なんか予想外で笑える。あと、特定のシーンで女の子の目に吸い込まれていく(?)、あれはまだ謎だな。
栗原康『アナキズム』
晴。
朝のみかんジュースがめっちゃおいしい。
NML で音楽を聴く。■ショパンの二十四の前奏曲 op.28 で、ピアノはアブデル・ラーマン・エル=バシャ(NML、CD)。この一週間くらい、ショパンの「二十四の前奏曲」が頭の中をぐるぐる廻っている。エル=バシャの演奏は先日見つけたもので、再聴しても感心させられる、魅力的な演奏だ。■シューベルトの即興曲集 op.142 D935 で、ピアノはアブデル・ラーマン・エル=バシャ(NML、CD)。この曲、ひさしぶりに聴いたけれど、特に第三楽章の変奏曲とか、こんなにいい曲だったかと思った。■ショパンのスケルツォ第一番 op.20、第二番 op.31 で、ピアノはアブデル・ラーマン・エル=バシャ(NML)。エル=バシャのショパンを聴いていると、ショパンってこんな巨大だったんだなって思わされる。
昼。曇。
日立の二槽式洗濯機が壊れた。買ってまだ四年ということで、近頃の日本製品はダメになったと老母はおかんむりである。
で、サポートに修理を依頼したのだが、老父のスマホにきたショートメールへの対応がよくわからず、老父が苦戦する。老母のひと言でうまくいった(?)らしいが、八十の年寄りが時代に適応していくのはホントむずかしい。って、わたしなんかガラケーもスマホももったことがないという、さらに時代遅れ極まりない人間で、田舎でもスマホなしだとヤバくなってきたのをこの頃思う。
イオンのブラックフライデーでネット注文した日本酒セットを老父が取りにいくというので、一緒にイオンモール各務原まで行く。いったん帰宅。
時雨れる、再びイオンモール。薄っすらとした虹が出ている。ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ハニーディップ+ブレンドコーヒー462円。読書に興奮してコーヒーを二度おかわりし、むさぼり読む。
図書館から借りてきた、栗原康『アナキズム』(2018)読了。承前。クソワロタ。いや、笑っただけじゃない、第四章アナルコ・フェミニズムの章には感動して、マジ泣きそうになった。エマ・ゴールドマン(1869-1940)、ぶっとんでやがる。頭でっかちな、クソみたいに窮屈なフェミニズムなんか、吹き飛ばせ! 伊藤野枝(1895-1923)もなかなかキテるぜ。これこそが自由なフェミニズムだ!
これはオレたちクズのための本だぜ。なんてったって、「はたらかないで、たらふく食べたい。腐った労働はいますぐやめろ」(p.119)だからな。無責任極まりない。オレなんか、アナキストが蛇蝎のごとく嫌う、権威主義者というクズだからな。さらなるクズとして、感動した。オレは腐ったロックなど聴かないが、これがロックだっていったっていい。
近年の岩波新書では、爆発的な名著だろう。なあ、お前もクズだったら、この本を読むといいぜ、おじさんとの約束だよ。なんたって、はたらかないで、たらふく食べたい、なんだぜ。
『柄谷行人 政治を語る』(2009)を読み始める。
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夕飯に田舎者たるわたしの大好きなけんちん汁。まあ、こんなに喜ぶのはわたしだけなんだが、年に数回は作ってくれる。人参、大根、牛蒡(ゴボウ)、椎茸、油揚げ、豆腐、鶏肉など、いろんな旨味が汁に出て、それが好きなんだ。けんちん汁なんて、わざわざ外で食べるようなものじゃないよね、作ってもらわないと食べられない。
デザートは王林(リンゴ)、酸っぱくない上品な甘さでおいしい。
『君は冥土様。』第8話まで観る。うん、結構おもしろい。雪さんギャップ萌え? それから、やっぱり ED いいな。
『恋愛フロップス』(2022)第2話まで観る。うまい導入、また、絵がちょっと独特できれい。