小林信彦『日本橋に生まれて』

曇。

夕方、肉屋。

老母の Linux MintAndroid を接続して、写真を PC に転送しようと思ったのだが、USBケーブルで繋いでもそのままでは認識されないのだな。簡単にやる方法はないみたいだ。ネットワーク経由で転送することはできるが、これも結構めんどうくさい。まあ、スマホのストレージ容量は充分あるので、ブログ用の写真などはそのまま Android からブログにアップロードした方がよいみたい。

夜。
図書館から借りてきた、小林信彦日本橋に生まれて』読了。これで二十年以上続いた連載は終わる。小林信彦ほどの人が、日本の没落を記してとは、さみしい終わりだ。小林さんはどうやらネットはやらずにしまったのかな。

「下町の人間の<眼>をすてられないのが、私の小さい長所だと思っている」(p.195)と小林さんは書いておられるが、確かに。小林さんは「下町」の人間で、その眼を持ち続けたが、しかし、「大衆」ではなかったように思える。小林さんがかつて著書のどこかに同じ下町の人間として吉本さんの名前を挙げておられたのを覚えているけれども、吉本さんは「大衆」だったろう。と区別することに、何か意味があろうとも思われないが。


吉本隆明全集20』(1983-1986)を拾い読みする。ほんとにおもしろいし、感銘を受ける。この巻に来ると、ついにわたしの同時代人(?)の吉本さんという感じがして、懐かしいというか、わたしのかつて呼吸していた時代を、吉本さんが語っている!という感じになる。ここからあとの巻は、すべて読んでみたくなるな。
 これを読んでいると、マジ元気が出るし、勇気が湧くな。吉本さんは、比べものにならない孤独の中で、やれる限りのことをやった。わたしごときが、嫌になって鬱々していてどうするんだと思う。
 吉本さんはやっぱり全集を読むのがいいですよ。読んだことのなかった短い文章が、とってもいい。まとまった大文章もいいけれど、短い文章に現れた吉本さんの肉声が、自分を鼓舞してくれる。

こともなし

日曜日。晴。夏の暑さ。

午前中、って何をしてたっけ…。たぶんごろごろしていた。

昼。
老母が「県民割」の公的補助を使ってどこかへ行こうというので、システムがよくわからぬから専門家に頼もうとイオンモールJTB を訪れるも、相談するのにもネット予約が必要とのこと。店内は客でいっぱいで、コロナ禍で観光業が沈滞していたのも、状況が変わってきたのだなと実感する。
 帰宅して仕方がないのでネットでやってみようとするも、クーポンのシステムがなかなかにややこしい。どこの旅行サイトでも同様の条件ってわけではないことに気づかず、時間を大いにムダにする。そしてクーポンもいろいろな種類があって、それも初めはまちがったものを選択していて、また時間をムダにする。気づいたら夕方。ようやく何とかクーポンを適用できる宿のプランを予約できて、いやあ、疲れました。

夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。

小林信彦日本橋に生まれて』の続き。本書の内容はほとんどわたしにはわからないが、どうも遺言というか、最後だから敢て語っておこうという印象を受けてしまう。わたしのまったく知らない世界。

遅くまで「着せ恋」を読む。

こともなし

曇。蒸し暑い。

スーパー。包丁を研いでもらう。

買い物に行った日の昼食はたいてい半田めん。細めのうどん、太めのそうめんだ。それに、出来あいのちくわ天とエビ天を買って添える。

 
昼寝。
二時頃、驟雨沛然。雷。

ツイッターを見ていて嫌になってごろごろしながら何時間もぼーっとする。ツイッター民、どいつもこいつも俺TUEEEだな…。

暗い部屋、PCのモニタの明かりだけの中で、インスタントコーヒーを啜っている。


NML で音楽を聴く。■メシアンの「クロノクロミー」で、指揮はピエール・ブーレーズクリーヴランド管弦楽団NML)。全然メシアンらしくない演奏で草。メシアンが、構造と音響効果だけに還元されていて、その野太さみたいなのがまるで聴こえない。ブーレーズは、師メシアンから、自分に都合のよいところだけを学んだのだと、いや、よい師弟関係とはそういうものなのだろう。いっておくが、しかし、これがメシアンでないとはいえないのである。メシアンにも、こういう美しいところはあるわけだ。それが、ブーレーズの異常なまでの耳の繊細さで強調されていて、おもしろいという他ない。何というか、さわやかで目の覚めるような演奏だ。

Conductors & Orchestras

Conductors & Orchestras

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ラヴェルの「クープランの墓」で、指揮はピエール・ブーレーズクリーヴランド管弦楽団NML)。夢のような演奏。色彩感豊かで、最高度に洗練されたスイーツみたいなラヴェルだ。美しい。

夜、雨。
マーラー交響曲第四番で、ソプラノはユリアーネ・バンゼ、指揮はピエール・ブーレーズクリーヴランド管弦楽団NML)。■尹伊桑のオーボエ協奏曲で、オーボエと指揮はハインツ・ホリガーブレーメン・ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団NML)。

徒労

曇。
昨晩は頭が興奮していてなかなか寝付けなかったので、眠い。

ネットの世界(だけではない、いまやコミュニケーション空間全体)は、底の浅い人工物が無数の鏡に無限に反射し合っていて、まったく意義というものを消失している。それが現在における「幼稚」ということだ。我々は、鏡を割り、原初的世界(=リアル)を取り戻さねばならないのだが、しかしそういうわたしの考えと試みもまた、無限に反射して無意味化していくだけである。まったくの徒労。この袋小路から逃れることは可能なのだろうか。我々はホワイトノイズと化していくしかないのか。

やはり、「言葉によって沈黙していくこと」というわたしのスローガンはそれなりに有効なそれだとは思うが、端的にいって矛盾したそれであり、可能であるとしても限りなく漸近していくしかないというようなものだ。徒労感でメゲそうな感じがするよ。まあ、まだまだ未熟だから仕方ないのだが。

昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー429円。河出の世界文学全集の『苦海浄土』を読み始める。いわゆる第一部は既読であるが、最初から読み直してみる。案の定、よく覚えていなかったので、ちょうどよかった。このエディションで700ページ以上あるので、先は長いが、何とか貸出期間中に読み終えたい。

 
苦海浄土』を読む。第一部読了。

夜。
『その着せ替え人形は恋をする』Kindle 版を買って読む。

愛知県美術館でミロ展

晴れたり曇ったり。

愛知県美術館へ「ミロ展」を観に行く。以前から楽しみにしていた。
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しかしまあ、ミロについて、感想など書けるものだろうか。とても感動したといえばそうなのだが…、例えば、2021.3.18横尾忠則展のような衝撃的なそれではない。ミロは横尾に比べれば、いってみれば、不遜に響かないことを祈るが、わたしに近いのだ。太陽があり月があり、鳥が飛び、大地に人が、女が生きている、そういういわば「古代的」世界がミロなのだ。この展覧会ではミロと日本の強い結び付きが強調されていたが、古代的なものがいまに残る日本という意味で、「日本的」であるといっても、まちがいではないだろう、ミロ自身が、日本と自分との深い結び付きを語っているのだし。
 古代的楽天性というのか、ミロは暗い時代を生きても、基本的にポジティブである。それは「ユーモア」という言葉で表されることもあろう。ミロに絶望はないような気がする。そして、カントのいう悟性、計算し操作する知性は、現れてこない。知的でないとはいわないが、おだやかな、深い感情が要素化している。であるから、ミロは「デザイン」ではないし、「抽象」でもないのだ。古代の弥生的埴輪が抽象でないのと似たようなものである。そして、敢ていえば、ミロは都会的でもない。それは美術館を出て、名古屋のビルの間の複雑な道路を運転していて、つくづくそう思った。これは、可能なら田舎の美術館でやった方がふさわしい展覧会であったと。
 でも、そんなことを考えながら絵を観ていたわけではなくて、何だかぼーっと観ていたにすぎない。そして書いておきたいが、ミロと瀧口修造(1903-1979)の深い交流についても展示が割かれていて、これは予想していてもよかったはずなのに、まるで頭になくて不意打ちだった。瀧口は世界で初めてのミロのモノグラフを書いており、さらに、ミロと詩画集「手づくり諺」を制作するなど、深い交流があった。わたしはみすず書房の『コレクション瀧口修造』で「手づくり諺」全篇を読んでいるけれども、そこにもちろんミロの版画は収録されていない。その一部を実際に観ることができて、ちょっと感無量というか、じつは瀧口修造の自筆原稿などを観て、胸がいっぱいになってしまったくらいである。しかしこれについては、もうやめよう。
 お客さんは結構来ていたと思う。幅広い年齢層の方々を見かけたが、男女は明らかに女性の方が多かった。愛知県美術館のコレクション展は観るかどうか迷ったが、観て現実に戻る(?)ことができてよかったと思う。アルプが2点あって、意識的に観たのは初めてだった。クレーもまとめて観てみたいなと強く思った。ミュージアムショップで展覧会図録を購入、あとで開いてみたら、全展示品が収録されていて、充実していた。それから、来年ここで、岡本太郎をやるらしい。これも楽しみだ。
 なお、ミロの代表作といわれるものも含め、数点の絵画が撮影可能、SNS掲載可というのは新しい試みだと思った。ただ、わたしはぼーっと観ていて、何となくめんどうで撮ってこなかったのだが。コレクション展も一部は撮影可能だったと思う。いろいろ、時代はかわるな。

清須のコメダ珈琲店春日店にて昼食。ミックストースト+ブレンドコーヒー1160円。買ってきた図録を眺めて楽しんだ。名古屋江南線を経由して帰宅。各務原に帰ってくると、田舎のこちらの方が名古屋よりもずっとミロ的だなと思える。


展覧会図録を見ていて気がついたのだが、今回の展覧会の作品だけれども、ほとんどすべて日本国内にあるそれだな。驚いた。質、量ともにじつに立派なものである。やはり日本も豊かになったということなのだろう。

しかし、こうしてネットなぞ見ておると、いま芸術なんて可能なのかとつくづく思うな。例えば、現代における「世界的な」画家って誰? そう、横尾忠則はそういっていいだろう。西洋では誰なんだろう。わたしは無知すぎて、誰も知らない。音楽もそうだ。ポピュラー音楽は全然知らないけれど、少なくともクラシック音楽で、「世界」そのものから力を汲み上げてくるような作曲家を、わたしはいまやひとりも知らない。もはや音楽は、「技術」(=知的な操作)でしかないように思える。でなければ「幼稚」。これもまあ、わたしの無知によるものかも知れないが。武満さんのいうとおり、音楽は「無名性」に還っていくのだろう、それは一方で健全な気もする。「美術」も、またそうなのかも知れない。

夕方、驟雨沛然。

夜。
NML で音楽を聴く。■バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」で、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNML)。感覚が鋭敏になっていて、何もしたくないのでダラダラとネットを見ていたら鬱々してきたからこれを聴いてみたのだが、とんでもないものを聴いちゃったな。頭をハンマーで殴られ続けているような感じ。小澤征爾、とても尋常な演奏ではない。

森田真生『数学する身体』

雨。

岩波文庫バーリンの論文を読んだあと、寝転がって一瞬うとうとしたところ、夢?を見る。夕方、本屋だか古本屋だかへ行ったら、目の前でちょうど店を閉めるところだった。店の人のシルエットが、中で動いているのが見える。営業時間が終わったのか、それとも今日で廃業なのか、どちらなのだろうと思いつつ、店の前からわたしは去る、というところで我に返る。


曇。昼から県営プール。鬱々していたが多少気が霽れる。

ひさしぶりに市の図書館へ。森田真生という人の『数学する身体』という本が読みたかったので。ルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』は借りられていた。リチャード・パワーズの『黄金虫変奏曲』(みすず書房)というぶ厚いのが新着で入っていたが、めんどうくさそうなので借りず。その代わりに、ということもないが、小林信彦さんの『日本橋に生まれて』が入っていたので借りる。あと、河出の世界文学全集の『苦海浄土』を。


図書館から借りてきた、森田真生『数学する身体』読了。こんな若い人がいたとは。次の世界を作っていくような人だな。頼もしい。

 
NML で音楽を聴く。■ウェーベルンの五つの楽章 op.5 で、指揮はハインツ・ホリガーローザンヌ室内管弦楽団NMLCD)。ウェーベルンが後期ロマン派の延長線上にあることを、もっと強調した演奏の方が好きかな。もっと表現主義的にというか。これも高度な演奏なのだけれど、ちょっとウェーベルンを消毒しすぎだと感じる。

夜。
小林信彦を読む。ほぼすべてわからないな。如何にわたしが無知かわかる。文章は上質で、一気読みを許さない。

平田精耕老師を読んで寝る。

赤松良子『均等法をつくる』

曇。

スーパー。

時代って何だろうな。力量のある人が、時代にフィットした表現ができないことで、相手にされない。また、時代を切り拓いてきた人が、時代遅れになる。まあ、じつに陳腐な感慨なのだけれど。時代ってのはフィクショナル、仮構的なものではあるが、そのようなものは存在しない、ということもできない。
 自分はといえば、時代とは関係ないところでやってきたけれど、全然関係ないともいえない。「不易」も「流行」も共に大事だと見做してきたし、その上で「不易」を体現しようとしてきたのだと思う。そういう人間が同時代にいなかったから、というのは、完全に時代的だ。また、「不易」を語るにしても、表現の底に時代を秘めておくのは大切なことだと思っている。

雨。
マックスバリュ。梅酒用の氷砂糖を買おうと思ったのだけれど、ここにもなかった。この時期、皆んな梅酒を拵えているのかな。


あるブログを読んでいたら、京都の京阪書房という古書店が閉店したとあった。さて、あまり覚えがない古本屋だなと思ったが、三条河原町とあってああとなった。学生のとき、大岡昇平訳のスタンダールハイドン』(500円だったと覚えている)とか、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を買った記憶がある。谷崎潤一郎が通った老舗だとか。へえ、そうなのか。わたしは松ヶ崎に住んでいたので、河原町三条は遠かった。

夜。
図書館から借りてきた、赤松良子『均等法をつくる』読了。濱口先生のブログエントリで知った本で、わたしなどが読んでも意味がないかとは思ったが、学生のつもりで読んでみた。いやあ、めっちゃおもしろかったわ。赤松氏が労働省の婦人少年局長として、「男女雇用機会均等法」(1985年)成立に深く関わる話がメインである。なるほど、法律とはこうやって作っていくものかと、その奮闘ぶりには感動を禁じ得なかった。いま脳みそが腐っているのでうまく書けないが、こういう仕事こそが世界を変えるのだなあ。濱口先生が赤松さん他を「言葉の正確な意味で『フェミニスト』と呼ばれてしかるべき」と仰っているのが、わかる気がした。いや、底の浅い感想でなさけないけれども。濱口先生の『働く女子の運命』も途中まで再読して放ってあるので、これもきちんと読み終えよう。