オウィディウス『恋の技術/恋の病の治療/女の化粧法』

晴。うろこ雲が出ている。
夢。夜遅く、岐阜の目抜き通りである神田町通りを歩いている。雨で、傘をさしている。ウチへ帰ろうと思うのだが、バスも路面電車もなさそうだ。歩いて帰らなければならないのかなと思う。遅くまでやっている店の灯りがボーッと滲んでいる。

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こういうのをあんまり信じてはいけない。山形さんはえらい人だけれど、「弱者カードでどっちが強いか*1って下らん、オレは理性でいってるからえらい」ってのも究極的には感情なのである。理性は確かに大事で、理性でいけるところまではいけばいいけれど、理性よりも感情の方が根源的だというのはずっと変わらない真実だ。大きな話をすると、アメリカなどの現在の「分断」も、何でも理性で解決できるという理性主義の行き過ぎがもたらしたところが大きいように思える。


スーパー。曇ってきた。

昼から珈琲工房ひぐち北一色店。『バーリン ロマン主義講義』を読み始める。「ロマン主義」というのは錯綜した概念で、もともとは絵画において適用されたそれであるそうだ。しかしバーリンは、文学・思想方面におけるロマン主義で、それが現在に繋がる汎ヨーロッパ的な、18世紀ドイツを出発点とする大きく重要な運動として捉えている。無知無能なわたしにはかなりむずかしくて、なかなか読み進められないが、バーリンの語り口はおもしろく、決して無味乾燥でない。
 第二章で、ロマン主義の原点として、18世紀ドイツのヨハン・ゲオルク・ハーマンが纏まって取り上げられているのが個人的にオッと思った。だって、つい先日ゲーテの『イタリア紀行』を読んでいて、興味深く思い、調べてちょっとだけブログに書いた人だから。何かオレって、本書を読んでいると、「反啓蒙主義」「非合理主義」としてのロマン主義者に分類されてもおかしくない感じすらする。概念での整理なんて、そんなもんだな。

そして、現在におけるロマン主義者とはただの反動、それも凡庸な、と直ちに片付けられてしまうものだ。
 
肉屋。マックスバリュ
時雨れて虹が出た。
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オウィディウス『恋の技術/恋の病の治療/女の化粧法』読了。 

しかし、頭のいい人間が溜め込んでいるルサンチマンは大変なものだな。別に我々バカがルサンチマンから免れているとは限らないが、免れているとすれば、その点でバカの方が100倍マシだとはいえる。
 理性的言説が、じつに下らない、敬意を抱けない感情によって駆動されているということは、あまりにもありふれている。

夜。
『宇宙(そら)よりも遠い場所』第13話(最終話)まで観る。エンタメとしてできすぎなくらいよくできていて、正直ちょっと苦手だったのだが、2018年の覇権アニメとして有名なので、がんばって観た。女子高生四人が、民間人として南極基地へ随行するという話で、その間にいろいろあって親友になっていくという、青春ものといっていいのかな。第12話が泣けるというウワサだったが、手もなくやられましたわ笑。絵もきれいだったし、こういうのも悪くないかな。

*1:そもそも、「アイデンティティの強弱合戦」ってのが理性によってなされているよね。(亞)インテリの仕業以外の何物でもない。

『コレクション瀧口修造5』「余白に書くII」

曇。
夢がアニメみたいになってきて、平板だなあと思う。高校の部活動みたいな夢とか。何それ。

お隣のおばさん(実際はもうおばあさんだが、ずっとそう呼んできたので)が昨晩救急車で運ばれたそうだ。老母よりも十歳年上だそうだから、もうよい歳ではあるが。朝食のとき少しお隣の話をしたが、ほんと周囲が歳を取ってゆく。否応なしだ。

NML で音楽を聴く。■マーラー交響曲第六番の第三楽章(緩徐楽章)を聴く。指揮はベルナルト・ハイティンクシカゴ交響楽団NML)。わたしは曲の一部だけを聴くことはあまりしない方なのだが、マーラー、あんまり長いものだから。この楽章だけ聴きたいのに、90分全体を聴くのはいまちょっとつらい(この曲、特に終楽章が長い)。マーラー、長すぎるのが難点。

しかし第三楽章だけで、どうも落ち着かないことは落ち着かない。続きが聴きたくなってくる。■スクリャービンのピアノ・ソナタ第四番 op.30、第五番 op.53 で、ピアノはジャン=ルイ・ストイアマン(NMLCD)。稀なレヴェルのスクリャービン

RubyAtCoder

オカタケさんのブログを読んでいたら、『ノマドランド』観たとか。わたしがめずらしく映画館に出かけた映画だ。

途中、気力を失って放浪する若者と再会。詩を暗唱して贈るシーンあり。シェイクスピアソネットだ。ぼくは吉田健一訳に頭で置き換えて聞いていた。やっぱりいいや。

へえ、そんなシーンあったかしら。さすがだな。

曇。昼からコメダ珈琲店江南村久野店。たっぷりブレンドコーヒー530円。隣の席のおっさんが、おしぼりで洟をかんで去ったのには呆れた。田舎のおっさん(あるいはじじい)だなあ。
図書館から借りてきた、『コレクション瀧口修造5』「余白に書くII」読了。もともとわたしは一時間しか続けて本が読めないのだが、最近はとりあえずの30分がつらい。読み始めてまだ10分しか経たないのかと思ったり。30分を超えると少しラクになり、なんとか読了した。「余白に書く」とは、つまりは Marginalia ということらしい。瀧口修造は、昼の人というよりは圧倒的に夜の人だ。異界とは暗闇であろう。そこでは、時間が流れているのだろうか。何か、永遠を呼吸しているような感じがする。と書いたが、瀧口修造を読むと、わたしなどは沈黙すべきだと思えてくる。凡庸は死すべき。

 
 
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老母にいわれて金柑を齧ってみたら、確かにもう食べ頃になっている。口の中に鮮烈な味が弾(はじ)ける。酸っぱ目のやつもいい。

オウィディウス「恋の技術」を読了する。西洋古典叢書木村健治訳。リズム感のあるよい訳で、この作品は岩波文庫沓掛良彦訳他もあるけれど、けしからん(笑)書物の中身がすらすら頭に入ってくる。いやあ、内容はあんまり覚えてないな、第一巻と第二巻は男がいかに女を落とすかという「技術」の指南なのだが、第三巻は逆に女性への忠告なんだよね。いや、そうだったんだ。まことに露骨な指南は、特に第三巻に見られるのである。とても楽しく読んだし、わたしにはよくわからないが笑、現在でも全然古くなっていないのではないか。恋愛ってのは、永遠だからね。

 
夜。
宇宙よりも遠い場所』第10話を観る。

大江健三郎自選短篇』の続き。800ページを超えるこの分厚い文庫本も、ようやくあと四分の一になった。文学は人を嫌な気持ちにさせるほど優れたそれである、ということがあるが、大江健三郎はまったくそのタイプの小説家だと思う。まあ、大江の小説に嫌な気持ちになるわたしが、ナイーブなのかも知れないけれども。大江の小説は、特に何か云いたいことがある、というものではないと思う。ただ、何か未知の不愉快さを求めて、掘り進んでいくという塩梅だ。そのためには、何でも使う。別に何もおもしろくないし、何も教わらないし、ただその何か嫌な感じは不思議なものである。そんな小説のどこが「すごい」のかと問われるかも知れない。でも、やっぱり非凡なんだな。こうやって、大江の小説世界が圧縮されたものを読むと、そんな風に思わざるを得ない。
 ただこの短篇集、まだ全部は読んでいないけれど、あんまりエロいのは選ばれていないね。やっぱり岩波文庫だからかなあ。

伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

日曜日。曇。

中沢さんの若い頃の本を読み直してみようと思って、『ゲーテの耳』を読む。わたしが育ってきたバブル期の空気をいっぱいに吸い込んだエッセイ集で、刊行は1992年。現在との雰囲気のちがいには驚かされるものがある。軽やかで楽天的で、可能性の予感に満ちており、現在がいかに暗い時代かを痛感させられる。ここにあった可能性は、多くが顕在化せずに終わってしまったと思う。
 とにかくいま重要なのは、エンタメ、いわゆるコンテンツ産業だ。これは、わたしもまだ考え尽くしていない。じんとしたにぶい欲望と、ある種の鈍重。

(現在において貶下的な対象である)バブル期というのは、その前とも後とも異質な、特異な時代だったのかなと思う。わたしにとっては当たり前の時代すぎて、まだ相対化し切れていない。

スーパー。3℃かよ。寒い筈だ。曇っているのもな。

「哲学」ってのもいまの時代、重要だな。「哲学書」を読みつつ、一方で映画を観るというのが、時代のファッションのように感じる。いや、それはいまではないか。いまは、MVを視聴しつつ、アニメかな? はは、わたしなんぞにわかるわけがない。

快感と苦痛はリアルだ。それ以外は希薄化する。人工化とはそういうことだ。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウスNML)。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第四番 BWV1010 で、チェロは藤原真理NMLCD)。

夕方、霙降る。

図書館から借りてきた、伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』読了。エッセイのようにも小説のようにも見えるが、つまりは大長篇詩であろう。人生は一切皆苦であることを赤裸々に歌っていて、深いところからアノニムな感情が湧き上がってくる。特に最後の二篇、石牟礼さん(とはここでは書いていないが)との対話を詩化したものと、家族で巨樹に出会う話が心に沁みた。最初から最後まで死の、つまりは生の苦しみを題材に歌い上げているが、だからこそ生の肯定であろうかとも思う。まさに一切皆苦、それが生きることだと。敢ていえば、その認識にこそ笑いもまた成立するのだ。

 
大江健三郎自選短篇』の続き。

夜。
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」を観ている。大河は「真田丸」以来で、もちろん三谷さんだから。ちょっとおもしろくなってきたのだが、このあたりの歴史をあまりよく知らないので、中公文庫の「日本の歴史」シリーズの『鎌倉幕府』の巻を取り出してきた。また随分と古いものを、と思われるかも知れない。この巻を書いているのは石井進さんで、ビッグネームだが、まだ若い頃の執筆なのかな? よく知らない。

You Tube の公式チャンネルで、『銀魂』四話分観てた笑。

猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』

晴。

夕方まで Ruby で遊んだり、だらだら。
中心化。

夜。
猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』読了。

モダンの安定性は幻想たること

晴。

NML で音楽を聴く。■ショパンの練習曲集 op.10 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニNMLCD)。わたしの出発点のひとつがこれであったことを考えると、果たしてそれがよかったのか、いまだと複雑な気分になるな。わたしなどはこのモダンの究極の到達点の、不可能かも知れないがそれでも素朴にその先を目指して進んでいくという生き方に疑問をもっていなかったのであるが、いまの世代がこれに接すれば、絶対に倒せないラスボスに遭遇してしまったという絶望を感じるかも知れない。いや、おそらくそれを感じることのできる感性をもっていないかも知れないし、そもそも「はじまりの町」の近くで低いレヴェルのまま楽しくやっていくというのは悪いことでもない。って、どうでもいい、おかしなことを考えたものだが。

現在というのはいわゆる「サブカル」がじつはサブカルでなく、実質的にメインカルチャーであるわけだが、わたしがサブカルエンタメに(少しだけ)接していて思うのは、それがモダンから見てほとんど「意味」や「目的」というものを欠いていることだ。サブカルエンタメには意味がなく、「快感中枢」「快楽中枢」の操作というと大袈裟だが、おもしろさ、楽しさ、気持ちよさ、ワクワク、興奮、感動、ナルシシズムの充足、何でもいいが、そうした一元的価値観によって染められ、究極的にはただ時間がつぶせればそれでよいという風に作られている。モダンは安定性をもつが、それはつまり流動性がないということで、固定化して希望がない。ゆえにサブカルエンタメはモダンの堅固さを嫌い、それとは別個のマトリックスを開拓して生の安定を破壊する。確かなものはなくなり、破壊されたモダンの断片(社会はまだモダンで廻っている)とニヒリズムを抱えながら、我々は生きていくことになる。しかし、それを否定的に捉えることはもはやできない。むしろ、モダンの安定性が幻想だったと見做すべきである。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第二番 BWV1008、第三番 BWV1009 で、チェロは藤原真理NMLCD)。

昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。いやあ、ミスドの中は震えるほど寒くて、しかもやはりオミクロン株が気になり、テキトーに切り上げて帰ってきた。もっとも、往復一時間田舎道をドライブして頭をカラッポにするということもあるので、まあいいのだが。
 『社会思想としてのクラシック音楽』の続き。複製芸術の鑑賞におけるアドルノ主義とでもいうべきものを、どう捉えるかというのは興味深い。アドルノからすれば、わたしのような地ならしされた「平民」が録音だけで音楽を語るなど、音楽を冒瀆し低レヴェル化させる許しがたい行為であることになろう。あはは、グウの音も出ません。まあ、アドルノなどは、頭のいい精神的貴族が読んでいればいいので、「平民」はカスといわれてもどうしようもないのであるが。さて、アドルノだったら、例えば演奏会を拒絶して録音に第一の価値を見出した、グレン・グールドのディスクをどう評価するか、なかなかおもしろいところだと思う。
 ちなみに、アドルノは作曲家でもあったが、NML だとアドルノの音楽は多少聴ける(参照)。ただし、アドルノだけのディスクはいまのところない。わたしはアドルノ弦楽四重奏曲を聴いたことがあるけれど、複雑で、かつ「エロス」がないという意味できわめて退屈な作品だったことを覚えている。といって、わたしが正しく聴けているかは何ともいえない。

もしアドルノがいまの日本のアニメを見たら、冒頭五分で怒り狂って、あるいは冷たい軽蔑の目つきで、あるいは軽く肩をすくめて遮断するだろう。愉快なことである。

こともなし

朝から雪がちらちらしている。
昨晩はゲーテの『イタリア紀行』を読んで寝た。ナポリ編まで読む。イギリス公使ハミルトン卿とその若くて美しい妻、エマ・ハートと会う話があって、オッと思う。そうか、これは『イタリア紀行』にあったエピソードなのだな。エマ・ハートが、のちにネルソン提督の愛人となるのは有名で、スーザン・ソンタグは彼女の生涯を小説『火山に恋して』で描いた。スーザン・ソンタグか、彼女はアメリカを代表する大知識人だったが、亡くなってからその名前を聞かないな。世界的に見ても、彼女のような大知識人、大批評家はまったくいなくなったと思う。そういう時代だ。

 
晴れているが、寒い。
昼寝。

図書館。ゆたさんに勧められた本を借りる。開高健は「字毒」というものがあると書いていて、書架には覆いを付けて本の背表紙すら見えないようにしていたそうだ。わたしも市の図書館とか本屋へ行くと気が滅入ってくるのは、その字毒かなと思う。

スーパー。


日没前、寒い中散歩。代わり映えしない写真ですな。








眠くなってきた。もうすぐ夕飯だ。

【第141回】この2年のコロナ対策を検証する|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
おもしろい。斎藤美奈子の面目躍如だな。わたしはこの人があまり好きではないのだが、そんなことを言っている場合ではない。

2年間のコロナ対策を概観して感じるのは、この国の宿痾ともいうべき血の巡りの悪さである。現場の声が行政に届かず、ゆえに上からの命令はいつも的外れだったり逆効果だったりする。

お見事。斎藤のよさは、きちんと本を読むことだ。これはなかなか真似ができない。

早寝。