祝日(春分の日)。曇。
目覚めると深いところに知恵の輪のように絡まって解け切れないものがあるのがわかる。これ、日常にも、発想にも、何なら文体にも影響しているのだ。
 
このところ、同じウグイスだろう、下手くそな鳴き声でずっと囀っているのが居る。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番 op.19 で、ピアノはグレン・グールド、指揮はポール・パレー、デトロイト交響楽団NML)。1960年のライブ録音。音質は最低だがデジタル処理されていて、何とか聴けるレヴェル。ひさしぶりにグールドを聴いたが、天才すぎて呆れるというか。グールドが「演奏会=常人の所業」からリタイアしてしまったのも、常人の所業がグールドにしてみれば制約にすぎなかったゆえであろうと思われてしまう。しかしわたしは、グールド的な突き抜けきった天才よりも、小さい小さい凡人たちの集積の方に、いまは興味があるのかも知れないが。なお、ポール・パレーは常人としていきいきした伴奏を聴かせている。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番 op.37 で、ピアノはグレン・グールド、指揮はポール・パレー、デトロイト交響楽団NML)。1962年のライブ録音。こちらも音質は最低。しかし、圧倒的な名演といえるかも知れない。ベートーヴェンもグールドもパレーも巨大すぎて、わたしのごとき凡人にはひたすらしんどかったというのが正直なところだ。この曲は、こんなポテンシャルがあったのだな。

こともなし

晴。
昧爽起床。早起きして頑張る。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV1043 で、ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー、クリストフ・コンツ、シュトゥットガルト室内管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十六番 op.135 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。これで、プラジャーク・クヮルテットによるベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲を聴き終えた。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十一番 K.575 で、演奏はズスケ・クァルテット(NMLCD)。よい。
 
昼から県営プール。
肉屋。ガソリンスタンド。
 
夜、頑張る。
中沢さんの『今日のミトロジー』二周目読了。

 
早寝。

カミュ『転落』

日曜日。晴。
 

昨日一輪咲いたようで、今日が実質的なウチの開花かな。
 
スーパー。
 
 
昼から90分散歩。平凡写真。

ウチの木蓮










ホトケノザ(仏の座)がはびこっている。




ヒメリュウキンカ

スノーフレーク


菜の花。






モンシロチョウをよく見かけるようになった。田んぼの上空にはヒバリ。
歩いたので、花粉で目がかゆい。
 
夜。
カミュ『転落』読了。前山悠訳。ちょっと読んだだけでは不思議な小説で、何のためにカミュはこんな陰気な(?)主人公を創造したのかわからない感じだが、訳者解説は、いわゆる「サルトルカミュ論争」でサルトルに「敗北」して衝撃を受けたカミュが、それを背景にして書いたという説明をしている。「敗北」はよっぽどこたえたようで、サルトルを相当に戯画化しているようだが、それにカミュ自身を合成しているから、よけいわけがわからなくなっているのだろうな。まあ、そんなにおもしろい小説というわけではなかった。

こともなし

雨。
 
なぜか今日はヒヨドリたちがキーキーうるさい。みかんと夏みかんの樹の間をいったり来たりしている。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第四番 op.60 で、指揮はマリス・ヤンソンスバイエルン放送交響楽団NMLCD)。すばらしい。
 
雨あがる。
あー、今日はメタクソ頑張ったわー。めっちゃ疲れた。(17:54)
 
夜。
吉本隆明全集25』を読む。

麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』

曇。
ウグイスが鳴きまくっている中で目覚める。あんまり上手に鳴けていないけれど。
 
死亡。ごろごろする。
外で小鳥がいろいろ鳴きまくっているのが聞こえる。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■ブラームスの三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはラルス・フォークトNML)。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはラルス・フォークト、指揮はサイモン・ラトルバーミンガム交響楽団NML)。第二楽章はそこそこよかった。ピアノは両端楽章がまだベートーヴェンにしっかり到達していない。それから、全体的に指揮のラトルの方が芸がある。ラルス・フォークトは2022年に51歳で亡くなっているのだな。ラトルが推したことで有名になったピアニストらしい。フォークトについては 2019.5.14 に結構辛口で書いているが、いま自分で読んでも納得できる感じだ。■ラルス・フォークトの弾き振りでブラームスのピアノ協奏曲第一番の冒頭を聴いてみたが(NML)、確かに見事な音の塊ではあると思うんだよね。でも、聴き続けられない。この曲に必要ないまひとつの深さが、どうしても足りないと思う。2018年の録音。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。チョコバナナフレンチ+ブレンドコーヒー451円。チョコバナナフレンチ、なかなかおいしいじゃん。
麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(2022)を読み始める。短篇集。いや、とんでもないな。既に今年いちばんの傑作と確定したかも。あるいは、全日本人の必読書でもあるか? わたしには、「東京の空疎」をここまで(わたしというダサい田舎者の)イメージどおりに描いてみせた文章は、初めてだ。いや、実際の東京の人間が、どれだけ小説の登場人物のような空疎な人間かは、もちろんわたしごときにはわからないのだが。
 そもそも、出てくる固有名詞(たぶんそのほとんどが実在するんじゃないか)や一般名詞の多くが、わたしにはまったくわからなくて笑える。試みに、列挙してみよう。グラニフ、ビームス、麻布テイラー、仲通り、清澄白河、キツネカフェ、Nujabesさくら水産流山おおたかの森、とりのすけ、白金高輪コンラッド二子玉川バルミューダ、Tinder、東カレデート、アクアパッツァ、チェスティ、マイケルコース、リファラル採用武蔵小山、オーラリー、ドリス、ケンゾーエステート、イケア、エノテカ、カプレーゼ、スプマンテ。もういいだろう、これらの名詞を検索すると、自分が何も知らないことにマジ笑えるのだ。どの短篇にも必ずといっていいほど大学(すべて実在する)の名前が出ており、そのすべてが東大を頂点とするハイアラーキーを形成する、徹頭徹尾ブランドとしてのみ、意味作用している。(東京のみならず、地方も含めた)地名のコノテーション。頻出するマッチング・サービスと、セックスと、タワーマンション。「マジメ」をうとましがりつつも、自分の人生の空疎さにほとんど飽きている、主人公たち。何者かになれると漠然と思っていたのに、何をしても、大した才能のない、凡庸さ。いや、「東京の空疎」ということは、我々田舎者も含めた、日本の空疎ということだ。まったく、リアルそのものではないか。続けて読む。しかし、文学ってのは、なくならないもんだな。驚いた。
 
麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』読了。傑作で、マジお勧め。我々の虚栄心がどこに至り着くかを、見事に描き出している。人生に生きる意味など、何もない。
 
なるほどー、「東京カレンダー」ってサイトがあるのかー。で、それのマッチング・サービスが「東カレデート」なわけね。知らねーよ、そんなの笑。
 
 
夜、雨。
『地霊を訪ねる』の続きを読む。

チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』

晴。
 
もともとは生殖が中心だった。それは人間が生物である以上、当然のことだったといえる。しかし、現代は生殖よりも仕事が大事な時代だ。会社。資本主義。
 
スーパー。
毎日いい天気で気持ちがいい。外出に上着がいらなくなった。
 
 
ほんと、AI の進歩というか進展というか、すさまじすぎるな。GPT-4 とか、司法試験でも合格者上位10%の成績だとか。絵、音楽、動画、テキストの自動生成もどんどん進んでいる。これからは、AI をいかに使いこなすか、というインフルエンサーが人気になるだろうことは、既に見えている。まあ、「AI を使いこなす」というか、AI に使われるというか、もう、わけがわからんレヴェルだけれども。社会が劇的に変化していくだろうが、まあ、わたしの住んでいるような田舎でそれが問題となってくるのは、いつ頃なんだろうな。
 ChatGPT で有名になった OpenAI でも、最初は AI の進歩が危険すぎるということで、意図的に秘匿して使っていたらしい。けれども、早いもの勝ちの段階になってきて、公開せざるを得なくなったという。GPT-4 は、フル機能を潤沢に使うのはかなり高額で、そういう点で歯止めをかけているのかも知れないが、そうすると AI の使用も金次第ということになってくるだろう。実際、研究段階ではもうとっくにそうなっていて、莫大な投資がされている民生品に、大学の研究室レヴェルではまるでついていけないらしい。AI でもマシンパワーはかなり、いやたぶん決定的に重要で、NVIDIA の A100 なんていう有名な GPU 搭載機は、非常に高価で知られている。
 そして、そのうち AI +ロボットの時代がすぐに来るだろう。いや、既に始まっているわけであるが。まったく、わたしのような田舎の阿呆なおっさんには、なんだかなあである。やれさて、おそがいでかんて*1、のう。
 
 
昼。曇。

 
ネッツトヨタで定期点検。待っている間、サービスで出される妙においしいコーヒーを飲みながら、『空白を満たしなさい』の続きを読む。なかなか(エンタメ的に)おもしろい。
40分くらいで点検終了。特に何もなく、オイル交換だけしてもらった。
 
帰りにカルコスに寄る。ちくま学芸文庫の新刊、チャールズ・テイラーとフリードリヒ・グルダを購入。あとは古典新訳文庫でカミュの『転落』(って知らない小説)。すべて店頭で知った本で、カルコスえらい、なのである。しかし最近読むのは図書館本ばかりで、新刊は買ってもちっとも読まないんだよなあ。
 

 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』を読み始める。なかなかおもしろいし、テイラーはまじめな人だ。しかし、テイラーのいう「<ほんもの Authenticity>という理想」なるやつが、いまひとつよくわからないな。なんつーか、立派すぎんか? 世の中には立派な<ほんもの>も居るだろうが、大部分の人間はよくもなく悪くもない、そこそこの、つまりはそれがふつーなんだぜ。「自己決定的自由」(p.52)によってすべてを決断し、理想的主体として生きられる立派な人間が居ることは否定しない(たぶん、テイラーはそういう人なのだろう)が、「周りに合わせるべし」(p.55)ってのをそんなに非難されてもね。わたしなんかは、他人を蹴散らして自分の理想だけに生きる人がもしいたら、ちょっとそういう人はかなわんと感じてしまうだろう。って、わたしのクソぶりが明らかになっただけかも知れないが笑。いや、「自分」とか「主体」なんて、欲望の束にすぎないっていうのが、そんなにまちがった見方だとはわたしには思えない。かかる欲望の束を、いかに解体していくか、だろ?

テイラーが人間は対話的な生き物だといっているのは(p.59)、確かにそうなんだよね。そして、ここでテイラーから離れれば、対話によって社会を構築していくのは、じつにしんどいということだ。我々が個々人として孤立化、断片化していくのはムリもないとわたしは感じている。つまり、ネットで誰かがいっていたとおり、できれば「コミュニケーションはしたくない」のである。
 第六章の途中まで読んだ。どうも、優秀で偉大な教師がわたしのクズぶりを論破、説教している構図になっているな。アイデンティティがどうとか(そんなものは曖昧な「記号」にすぎない)、浅はかな説教は、もーうんざり。テイラー先生立派で、さすが、結構ですなって感じ。しかしわたしは、この程度のことはとっくに考え尽くしているのだよ、ってオレ何様笑。いや、先生、立派なのはいいんですよ。でも人間は、混成的、矛盾的生き物なのだ。クズだって、やっぱり生きていかなくてはならないのだ。そのクズぶりは、この程度の説教で「論破」されたところで、解体できるものではないのだ。はいはい、論破乙、って感じ。
 第八章の「より繊細な言語 subtler language」、これはなかなかよくわかるな。これを推し進めるなら、上でのわたしの試みは誤読だったということになるかも知れない。でも、やっぱり、<ほんもの>というのは言っちゃいけない言葉じゃないか? だって、<ほんもの>を求めるなんて言うやつが、<ほんもの>であることはめったにないから。<ほんもの>というのは、あまり繊細な言葉ではない。
 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』読了。後半三分の一くらいはなかなかよかった。テイラーのいう「断片化」、まさにそのとおり。しかし、これはそんなにめずらしい話ではない、例えば東さんがいっていた「タコツボ化」というのとよく似ている。ただ、東さんはその「タコツボ化」を(渋々かも知れないが)肯定せざるを得なかったし、わたしもまた(一応)そうだ。
 結局本書は、本書から引用すれば「これではまるで、成功の秘訣は成功することだと言っているように聞こえます。救いのない話かもしれませんが、これが真実なのです」(p.191)とあるように、結局何がいいたかったのか、よくわからないとも感じられる。我々は誰でもここまではいくが、これ以上はなかなか進めないし、本書もそれに成功していない。
 つまりは、時代的要請として、ニセモノとして生きざるを得ない我々は、どうしたらいいんだろうということだ。だってこの時代、かしこい頭でっかちや文化的「才能」は存在するが、<ほんもの>なんてほとんど存在しないよ? ロールモデルが存在しない。悪貨は良貨を駆逐する。でも、ニセモノだって生きていかなくちゃならないのだ。
 
 
夜。
猪木先生の『地霊を訪ねる』の続きを読む。

*1:おそろしいのでいけない

こともなし

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ドビュッシーの「遊戯」で、指揮はシャルル・デュトワモントリオール交響楽団NMLCD)。
 
少しだけうとうとしたら、眠りながら眠っていることはわかっていて、それでどうしても目を開けられず、目覚めることも決してできないという夢(?)を見て、すごく焦って怖かった。
 
 
ウチの満開の紅梅が、これまでで初めてといっていいくらいよく匂う。ねっとりというよりは、甘いけれど爽やかなほどの香りだ。
 
昼から県営プール。どうでもいいけどこのあたり、『僕らはみんな河合荘』の舞台なんだよなーと思いながら運転していた。鵜飼い大橋を渡ってメモリアルセンターへ行くのだが、長良川も、裏(? 北東といった方がいいか)から見る金華山も美しい。
車のエアコンは AUTO にしてあるのだが、今日は軽い冷房が入った。
 
 
ぼーっと Matz や ko1 さんのツイッターを見ていたら、もう夕方。一日何もしないで過ぎていく。低レヴェル(簡単、って意味じゃないよ)のネットワーク・プログラミングの勉強でもしようかなと、何となく思う。Ruby の net/http のソースコードでも読むか。最近全然プログラミングで遊んでいないな。
Qiita が ChatGPT の記事ばかりになってつまらん。
 
「気合い」ってのはいま評判が悪いような気がするが(マッチョ的、あるいは体育会系的、精神主義的ですかね)、わたしには端的に気合いが足らんな。それはそれでダメでしょ。未熟なり。眠い。
 
夜。
アクセル・ワールド」(2012)第5話まで観る。原作は SAO 作者。うわー、めっちゃおもしろい。2クール一気観したいくらいだけれど、さすがに自重する。劣等感に苛まれている、いじめられっ子チビデブ君がヒーローなんだな。SAO と同じく、世界観がよく作り込んである。
 え、原作はこれが賞をもらったから、作者が自分のウェブサイトで公開していた SAO が日の目を見たのか。川原礫さんは SAO で売れたとばかり思っていた…。