大岡昇平『成城だより 付・作家の日記』 / 本田靖春『誘拐』

日曜日。昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのミサ曲ハ長調戴冠式ミサ」 K.317 で、指揮はスティーヴン・クレオバリー、ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団、イギリス室内管弦楽団NML)。

Masses

Masses

ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ ト長調で、ヴァイオリンはディアナ・ティシチェンコ、ピアノはゾルターン・フェヘールヴァーリ(NML)。ひさしぶりに聴いたけれど、いい曲だな。

モーツァルト弦楽四重奏曲第二番 K.155 で、演奏はフェシュテティーチ四重奏団(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十番 op.14-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。コヴァセヴィチというピアニストはちょっとちがうな。こういう古典的なピアニストは他にもういない。

晴。
大岡昇平『成城だより 付・作家の日記』読了。うーん、何ともおもしろかった。大岡さんは名うての論争家であり、批評的な人であるが、では小説家ではないのかというと、やはり小説家の批評なのだと思う。そもそも小説家の批評というのは鋭くて、三島由紀夫開高健のそれは有名だと思うが、しかし大岡さんは彼らとはちがうようだ。小説が批評的なのだ。では、ニセモノの小説、つまらない小説かというと、それもちがう。『野火』はそのレトリックを丸谷才一氏が詳細を極めて分析しているようなものだし、『レイテ戦記』はその緻密さと壮大さに圧倒される。まあつづめて言ってしまえば、大物なのですな。つまらぬ結論だが。この文庫本には小林信彦さんの書評が収録してあるが、そこでは著者を評して「好奇心と無邪気さ」と一言でいってのけてある。大岡さんの「批評」も、そこから出ているといってよいと思う。

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

そういえば、『花影』っていう魅力的な小説もあったよな…。

Wikipedia大岡昇平の項目は全然ダメだな。ここらあたりが Wikipedia、あるいは現代の限界か。しかし、小林秀雄らとの関係への言及がほとんどないというのはなあ、まったく。

好天。歩いて、珈琲工房ひぐち北一色店まで。
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コーヒーを飲みながら、本田靖春『誘拐』を読む。まだ日本が貧しかった頃の話で、それがまず印象に残る。どうも事件も、そんなことが背景にあるようだ。

夜、本田靖春『誘拐』を一気に読了。これはミステリーではないので、犯人は最初からわかっている。それにしても、犯人の小原保の育ちの悲惨さと、また彼が身体障害者であることもあり、途中まで読んでいて気が滅入って仕方がなかった。そりゃ、誘拐されて殺された子供はかわいそうだが、本書では当然ながら子供についてはほとんど出てこないし、徹底して描写される小原の姿がつらい。もう読み止めようとすら思ったが、事件が迷宮入りしかけたところから平塚刑事の登場で、目が離せなくなってしまった。平塚刑事は事件を洗い直し、警察内部では捜査を打ち切りたい方向が大勢だったのだが、最後、平塚刑事は小原を「落とす」。そこは確かにサスペンスのようなものであり、読ませられたが、果たしてそういう読み方でいいのか。これは小説ではないのだ。徹底的にしぶとく、狡猾といえるほど手ごわかった犯人は、自白後、まったく性格が変ってしまう。そこもまたドラマだが、また、そういう読み方でよいのかと思う。これは小説ではないのだ。裁判で死刑が確定し、小原は死刑になるまで短歌を作るが、それもまた晴朗で明澄、感動的だ。まるで小説以上に小説っぽく、惹句に「ノンフィクションの最高傑作」とあるが、確かにそうかも知れない。ただ、救い(?)なのは、ノンフィクションとして質の高い文章であろう。それは文学ではなく、しかも我々の心に食い入ってくるもので、比較するのは気の毒だが、さる高名なノンフィクション作家の書いた文庫解説の文章をこの後で読むと、索然とした気分に襲われざるを得ない。こういうところに、書き手の魂が現れるのだなと、わたしごときが言うのである。

誘拐 (ちくま文庫)

誘拐 (ちくま文庫)

町田康『記憶の盆をどり』

晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。数学は学校でよくわかるようになったようで、喜んでいた。テストで点が取れて、自信がつくとよいのだけれどな。

昼から夕方までごろごろ。

図書館から借りてきた、町田康『記憶の盆をどり』読了。すごくおもしろかった。文体の妙というか、「文体の盆をどり」というか、言葉のアクロバットがすごい。最後の短篇など、ほとんど意味というか辻褄というものがなく、これをおもしろく読ませるのだからすごい筆力だ。先日も書いたし既に源一郎さんが指摘しているが、文章に古くさい単語を唐突に挿入してくる芸は誰にも真似ができない。ただ、文章が可笑しさに満ちているにもかかわらず、ほぼどの短篇も読後感が苦いのは、何か作者の気持ちが透けて見えるようにも思える。あんまり時代とかいいたくないけれど、やはり現代というものがそこに反映している気がする。「コミュニケーションの不可能」とかいうと、著者に笑われるだろうけれどね。

記憶の盆をどり

記憶の盆をどり

町田康は途中で腰砕けになって読み切れていない長篇があるのだが、それも続きを読んでみようかな。

シロクマ先生がブログで書いていたことを勝手に言い直すと、現在では「コミュニケーションのためのコミュニケーション」というものがなくなろうとしていると言えるかも知れない。つまり、コミュニケーションは何かのためのコミュニケーション、さらにいえば「用事を済ますためのコミュニケーション」しかなくなってきているようだともいえそうである。つまり、相手のプライバシーには踏み込まない。相手のプライバシー(あるいは「内面」)に踏み込むことはなべて無作法であり、例えばそれを男性が女性に対して行ったら、既にセクハラと見做されかねないのである。だから当然、恋愛というものがすごくむずかしくなってきている(らしい)。さてはて。田舎の孤独なおっさんにはよくわからないといえばよくわからないが、いやよくわかる気もするし。

だから、少なからぬ人たちが SNS で反吐を撒き散らしているのかな。しかし、ネットで他人にマウントを取りたがるのは何なのだろう。人間ってそもそもそういうものなのか。

ご飯の後片付けをもっと楽にしてもいいんじゃないということで、食器洗い機を入れました。当り前かもしれないけれど、油よごれとかもきれいに洗えてよかった。

こともなし

晴。

このブログのサイドバーにある猫スライドショーの設定をいろいろ弄る。画像を追加したり、クリックするとブラウザの別タブで開くようにした。どうでもいいですね(笑)。

昼からもずっと PC で遊んでいた。ひさしぶりに Ruby プログラミングもしたし。

町田康を読む。おもしろい。
早寝。

こともなし

朝、雨。

昼から晴時々曇。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・シュガーボール+エンゼルクリームボール+ブレンドコーヒー351円。町田康の『記憶の盆をどり』を読む。短篇集。すごくおもしろい。僕は既に町田康に爆笑を求めていないのだが、それはそれとしてあいかわらず古くさい言葉を混ぜた文章が読ませる。あんまりおもしろいから、もったいないので四篇で止めておいた。どれも、わけがわからないといえばそうなので、超自然的なものが混じっている。例えば最初の短篇の「エゲバムヤジ」。何だかよくわからない生き物で、カフカのオドラデクのように硬質ではなく、かわいらしいのだそうだ。今回読んだ中でいちばんおもしろかったのは「文久二年閏八月の怪異」で、江戸時代っぽい中で主人公の半七親分がチャンドラー流ハードボイルドで語るのが笑える。これ、短篇なのが残念だ、だって短篇ではハードボイルド・ミステリーは成立しないから。
 今回読んだ短篇は、どれもバッドエンドといってよいのが苦い。作者は意図的だと思う。救いがない。

記憶の盆をどり

記憶の盆をどり

 
カルコスに寄る。ちくま学芸、講談社学術等の文庫本新刊、あとは新書などを買う。ひさしぶりにプログラミングの棚を見て、大量に出ている Python機械学習本など立ち読み、Ruby でもかなり環境が整ってきたので、Ruby に移植できないかしらなど思う。Keras (Pythonニューラルネットワーク・ライブラリ)について調べて、Ruby でどうできるか考えてみようと。とりあえずは Python でいじくってみてもよいしな。PyCall を使ってみてもよい。

夜、Ruby で Gray-Scott してみた。
http://obelisk.hatenablog.com/entry/2019/11/14/231021

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十三番 K.590 で、演奏はフェシュテティーチ四重奏団(NMLCD)。■ハチャトゥリアンのピアノ・ソナタで、ピアノはイヤード・スギャエル(NML)。

 
午前中ごろごろ。

モーツァルト弦楽四重奏曲第一番 K.80 で、演奏はフェシュテティーチ四重奏団(NML)。

■ヴァッセナールのコンチェルト・アルモニコ第三番で、演奏はイ・ムジチ合奏団(NMLCD)。■ショパンマズルカ第五十五番、第五十九番、第四十七番、第六十四番、第四十八番、第四十六番、第六十番で、ピアノはアレッサンドロ・デリャヴァン(NML)。

Complete Mazurkas

Complete Mazurkas

  • アーティスト:Chopin / Deljavan
  • 出版社/メーカー: Aevea
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: CD
 
散歩。
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大岡昇平『成城だより』の続き。大岡さんは秀才だな。日記なんだからさらりと読めばよさそうなものだが、丁寧に読み出すとしんどくて大変。こういう秀才がいい歳になって一兵卒として戦場にかり出され、山野を彷徨させられたのが悲劇なのだと誰か言っていた筈である。もちろん大岡さんは小林秀雄のもっとも近くにいたひとりであるが、戦場に出なければ小説家にはなっていなかっただろう。そういや、小林秀雄とか大岡さんの本格的な評伝というのはあるのだろうか。寡聞にして知らない。

こともなし

晴。早起き。

NML で音楽を聴く。■ハイドン弦楽四重奏曲第二十九番 Hob.III:41 で、演奏はハンソン四重奏団(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.215, K.133, K.259, K.43, K.460 で、ピアノはジョン・マッケイブNMLCD)。

シューマン弦楽四重奏曲第三番 op.41-3 で、演奏はクイケン四重奏団NMLMP3 DL)。■ファビオ・バラヴェーロの「Santa Lucia Chorus」、「Ottagoni abbandonati」で、ヴァイオリンはシモーネ・ロゼッティ、コントラバスはフェデリコ・マルケサーノ、電子楽器はファビオ・バラヴェーロ(NML)。

■ヴァッセナールのコンチェルト・アルモニコ第二番で、演奏はイ・ムジチ合奏団(NMLCD)。これよいな。■プロコフィエフのピアノ・ソナタ第三番 op.28 で、ピアノはシェティル・ビョルンスタ(NML)。

プロコフィエフの交響的協奏曲 op.125 で、チェロはブリュノ・フィリップ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、フランクフルト放送交響楽団NML)。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ブレンドコーヒー275円。大岡昇平の続き。

早寝。

片山杜秀『音楽放浪記 世界之巻』

曇。
昨晩は岡潔を読んで寝た。感銘を受けた。「情緒」という言葉を独特に使っておられる。わたしには岡潔というと何といっても小林秀雄との対談なわけだが、『春宵十話』以降たくさんエッセイをお書きになったのだな。学生のとき古本屋で『春宵十話』を見つけてうれしかった記憶がある。

NML で音楽を聴く。■内藤明美の「Through Life and Death, A Chainless Soul」で、メゾ・ソプラノはジェシカ・ボワーズ、ピアノはマリリン・ノンケン(NMLMP3 DL)。自分の能力不足で英語が聴き取れないのが残念だが、よい曲だ。伝統的な保守的な音楽語法だが、不思議な新鮮さがある。感動的といってよい。

夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー418円。片山杜秀さんの文庫版『音楽放浪記 世界之巻』を読む。原本はもっていて既に読了済であるが、図書館にあったので借りてきた。中身はどうせよく覚えていないので。しかし、片山さんを読むといつもわたしは笑ってしまう。リズミックできわめて理屈っぽい文体が可笑しい。なんで著者はこんなに理屈っぽいのかと思わせるくらい、徹底的な楽曲分析と湧き出るメタファーとわけのわからない怒涛の博識的アナロジーで読ませる。そして著者は、わたしのごとき保守的な感性のクソマジメなクラヲタを嘲笑して已まず、確かにそれでよいとわたしも思うのだ。まあ、嘲笑されるわたしはあんまり見良い図ではないが、保守的でクソマジメなんてものは現在において笑殺し去るのが正しい態度なのである。

図書館から借りてきた、片山杜秀『音楽放浪記 世界之巻』読了。やっぱりおもしろいなあ。わたしのクズぶりがよくわかる。巻末の音盤ガイドも決して読み飛ばしてはいけない。しかし、高尚すぎてわたしごときには何もわからぬ文庫解説の三浦雅士は何とかならぬものか。

■アイヴズのオーケストラ・セット第一番「ニュー・イングランドの3つの場所」、交響曲ニューイングランドの祝日」(祭日交響曲)で、指揮はデイヴィッド・ジンマンボルティモア交響楽団NML)。

4448602

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■内藤明美の「砂の女」で、打楽器はグレッグ・バイヤー(NMLMP3 DL)。よい曲。内藤明美さんの曲はもう少し聴いてみたい。■内藤明美の「木の記憶」で、マリンバはウィリアム・ムーシュ(NML)。内藤さんの曲には現代にはめずらしく独特の深みがある。
Music of Akemi Naito

Music of Akemi Naito

検索すると、内藤明美というのは同姓同名の声楽家がいて紛らわしい。この作曲家の方は、これも現代音楽の作曲家である八村義夫(故人)の妻だそうである。わたしは八村義夫という人はよく知らないが。なお、いま聴いた「木の記憶」というのは NML での表記で、「森の記憶」というのがふつうらしい。原題はたぶん英語で、それは「Memory of the Woods」なので、「森」の方が適切なようである。NML ではたぶんよく知らない人がテキトーに訳したのだろう。