篠田一士『音楽に誘われて』

昧爽起床。

図書館から借りてきた、篠田一士『音楽に誘われて』読了。いつも愛読しているブログのコメント欄で教えて頂いた本である。篠田一士はブログ検索してみると 2010年に『三田の詩人たち』という文庫本が引っかかるだけで、たぶんその一冊しか読んだことはあるまい。篠田さんはわたしと同郷の方で、どうやら旧制中学という形ではあるが高校の先輩のようである。本書にも「長良川」「岐阜公園」「丸物」というような固有名詞が出てきて、わたしがそれに感慨を覚えるほど同郷の文学者は少ない(東濃や西濃の出身者はわりとおられるが、先に挙げた固有名詞はわたしに親しいもので、かかる人は他に知らない)。そして、いまではほぼ忘れられた批評家といってもよいのかも知れない。いずれにせよ、一読していろいろなことを考えざるを得なかった。教えて頂いたのは本書所収の「批評のスティルを求めて」で、吉田秀和論としてはもっとも早いものに属する文章とのことである。本書全体を読んでみて、これはできれば十代か二十代のときに読みたかったなという気がしきりとした。いまでは読むに堪えないというのではまったくない、何というか、いまやわたしは、自分が古典的な世界からしたらいかに壊れてしまっているか、ということを痛感したのである。よかれ悪しかれ、わたしは既に認識論的切断の向こう側にいる。もちろんわたしは、著者の該博な西洋文化に関する知識・教養をもたないので、「認識論的切断」というのはレヴェルの高下をいうものではない。わたしが到底著者に及ばないのは明白なことであるが、それ以上に、わたしには何が欠けているのだろうと、いろいろと思いめぐらしたことである。たぶん、「人間味」のようなものが欠けているのだろうかと、まあそんなことを思ったりした。いずれにせよ、この博学な同郷の先輩の文章をもう少し読んでみるつもりである。さすがに県の図書館にはさらにあることがわかっているからね。

音楽に誘われて (1978年)

音楽に誘われて (1978年)

 
曇。
NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第五番 op.92 で、演奏はアルテミス四重奏団(NML)。篠田一士さんを読んだのは貴重な体験だったかも知れないな。例えばこのアルテミスQ によるショスタコーヴィチでも、現代では特に驚くべき演奏などではないが、先ほど読み終えた篠田一士的西洋観ではもはや何とも理解すらできないものであろう。そう、先ほどの書物に引いてあった吉田秀和さんの批評に、ウェーベルン的な演奏体験をベートーヴェンモーツァルトに適用していくジュリアードQ の演奏法について書かれてあったが、この(いまなら極ふつうの)アルテミスQ などは、ジュリアードQ の鋼のような音にまだ濃厚に残っている「人間味」のようなものが、もはやきれいさっぱり抜け落ちている。ただそこに何の「人間味」もないかというと、そうでもない気もするが、とにかくまあ西洋も遠くまで来てしまっていることである。そう思うと、現代日本の幼稚な「文化」がまだ稚拙な「人間味」のパロディのようなものを残しているだけ、まだ暖かい感じがしないでもないほどだ。ただ、わたしにはそれらはいささか馬鹿らしいが。さてもさて、厄介なことになっているのかも知れないな、いまという時代は。
String Quartets 5 & 7

String Quartets 5 & 7

 

妹一家来訪。
「ひぐち」で皆んなで食事。
帰りに白山神社でちょっと桜を見る。五分咲きくらいかな。新境川堤はかなり咲いているように聞いたが、今日などはたぶん近寄れまい。

わたくしにおける精神の硬直化について。


上を書いてから篠田一士さんをあちらこちらひっくり返していて、もう少し思うところがあった。まず、この読書は自分の思っていた以上にわたしの心の深層を動かしたなということ。これはことの性質上、ゆっくりとわかってきたことである。それは、自分の中の久しく眠っていた部分であるのかも知れないし、そうでないのかも知れない。これはなかなかないことであるが、自分でもあまりよくわからないことでこれ以上ははっきりとは書けない。
 もう少し「浅い」レヴェルの話。この人は、文章にウソのない人ですね。それはあまりよい言い方ではないので、むしろ心にもないことを書かないくらいの表現の方がよいかも知れない。まあ「気持ちを書く」というのはそんなに簡単なことでないので、「気持ち」っていうのが、そもそもそんなものがあるのかというくらい、うつろうものであり、はっきりとしないものである。「楽しかった」と言うから、あるいは書くから実際に楽しかったのだなあと思うくらいで、でもそれは決してそんなにおかしなことではない。ただ、それに気づいているかどうかなので、篠田さんはそれがよくわかっている人だと思った。例えば本書の少年時代の音楽体験の話はおもしろかったが、ここでもできるだけ正確にという態度がはっきりと見えている。それだからこそさらに興味深いのですね。
 それから、これはどうでもいいことと思われる人もたくさんいようが、篠田さんは小林秀雄への傾倒を隠されませんね。音楽評論家・吉田秀和の誕生には小林秀雄の「モオツアルト」の出現が意義あることだったという主張すら本書にある。(ちなみに、わたしもそれはある程度そのとおりだと思っている。)また、小林秀雄流の、我々は西洋の文学を翻訳で読み、絵画は複製で見、音楽はレコードで聴くというどうしようもない「貧しさ」を引き受ける態度、それを篠田さんも堂々と(?)引き受けておられる。もちろん小林秀雄篠田一士よりもさらに貧しいという見方もあるだろうし(篠田さんはアウエルバッハの翻訳者である)、浅田さんの「小林秀雄の貧しさは日本の貧しさ」という断言もあって、わたしはそれらについて何もいうことはない。しかし篠田一士さんは小林秀雄の仕事が好きだった筈で、わたしのその読みはそんなにまちがってはいないと思う。それで思い出されるのが先日読んだ『小林秀雄の恵み』で、あの天才が(確か)34歳で『本居宣長』に感動し、「学問」というものを自分もしてみようと思ったという話である。そこであの天才は失われたと考える人も多かろう。わたしはこれについても何もいうことはありません。
 僕は今日つらつらといろいろ考えていて、いまや小林秀雄は読む価値がない、吉本隆明は読む価値がない、中沢新一は読む価値がないという現在の定評は、わたしの中でつながっているなと思ったことだった。あるいはその定評が正しくて、わたしがまちがっているということもあるかも知れないが、どうせムダになるのはたかがわたしの人生なのだから、まあ放っておいてくれと思いますね。ちなみに、わたしはその三者とも、まだまだ現在に活かして読んでいる人はほとんどいないとも思っています。妄想かもしらんけれどね(笑)。

ついでだから書くけれど、吉本さんって人はほんとに孤独な人だった。柄谷行人はわたしはいまではそんなに好きでもないが、そのことははっきりとわかっていてさすがだなと思う。吉本さんはふつう思われているよりはるかに自己評価の低い人で、さらに全集とか読んでいるとたまに弱音もちょっと吐いている(笑)。どういう弱音かっていうと、誰も自分に触ってくれないっていう、これはもちろん比喩ですね。かつてあれだけ読まれた人だけれども、政治的文脈で吉本さんを熱烈に読んできた人たち、また「三大理論書」中心に読んできた人たちは、わたしはまったく信用していません。まあ全集を買ってくれるならありがたいけれど(僕は図書館なので)、吉本さんの孤独の原因はああいう人たちだったと思っている。だから、晩年に中沢さんのようなよき理解者を得て、少しは救われたのではないかと想像している。わたしも、あちらこちらに点在する中沢さんの言葉が、吉本さんを読むヒントになりました。ま、そんなこんな、つまらぬことを書いた。

こともなし

曇。
昨晩は武満徹の評伝を読んで寝た。

NML で音楽を聴く。■バッハの「栄光とともにほめたたえよ」 BWV231、「正しき者は滅びしも」 BWV deest、「恐れることなかれ、われ汝とともにあり」BWV228 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ブラームス交響曲第三番 op.90 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。■シューマンの「クライスレリアーナ」 op.16 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。よい演奏なのだが、第七曲が軽めなだけ残念だった。ファンタジックにぎりぎりまで攻めて欲しい曲である。あれで自分は曲の外へ出てしまって、二度と戻らなかった。まあ、好みにすぎないかも知れないけれども。


肉屋。スーパー。

散歩。つばめを見る。五羽くらいが目の前でつぎつぎに水を切って水浴びをして驚いた。たぶん五分間くらいだったのだろうが、すごく長い時間に感じるくらいのもので、満足。つばめが水浴びをするのかどうも確信がもてなかったのだが、検索してみたら動画もあってまさにそれだった。やはり水浴びだったのだ。
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つくしはもう少し早かったら食べられたのに、残念。田んぼひとつすべて大量のつくしというところも見つけて、いまは誰も採らないのだなと思った。田んぼも、こうだということは長いこと放りっぱなしなのであろう。

早寝。

山尾悠子『歪み真珠』 / 渡辺靖『リバタリアニズム』

深夜起床。

山尾悠子『歪み真珠』読了。

歪み真珠 (ちくま文庫)

歪み真珠 (ちくま文庫)

 
曇。
NML で音楽を聴く。■シューマンの「森の情景」 op.82 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。なかなかのもの。

シューマンの「幻想小曲集」 op.12 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。うん、これもなかなか。■ドビュッシーの「十二の練習曲」で、ピアノはジュリアン・リーム(NML)。これはすごいものを聴いてしまった。これまでこの曲集には、自分には決め手となる録音がなかった。ポリーニは技術的にはともかく、既に壊れ始めていて演奏にうるおいがない。内田光子は音楽的にはともかく、技術的な爽快さがまったくなく、スケールが小さい。と(自分には)そんな感じだったのだが、このリームという知らないピアニストの演奏には感じ入った。まずは演奏のスケールが大きく、これがこの曲には不可欠である。(たぶん)ものすごくむずかしい曲集だが、余裕をもって弾かれている感じで、パワーも充分。それに、この曲はドビュッシー最晩年のもので、かなり音楽が抽象的になっているのだが、そういうところも、また後半の曲の繊細なところもうまく表現していて、とてもおもしろかった。ドビュッシーの中でも画期的な曲集という知識はあったのだが、初めて実体験が追いついたというところである。まあこの曲集がすばらしかったといって他のものがどうかはわからないのだが、とにかくこれはよかった。自惚れているわけではないが、あなたにこれがわかるかと、ちょっと挑発してみたいような稚気に駆られるくらいである。
Debussy / Szymanowski

Debussy / Szymanowski

 
何かこのブログにはあんまりマジメでむずかしいみたいなことを書いているようだが、じつはかわいい女の子のハダカとかよろこんでしまうただのキモいおやじなので、おまちがえのないように(ってまちがわんか)。Tumblr からエロは追放されてしまいましたが。つまらんことをするなあ。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ガナッシュチョコホイップ+ブレンドコーヒー388円。武満徹の評伝の続き。これは元気の出るすばらしい本だ。我々の時代がかなしく思われてしまうのは余計だが。浅香さん(武満の奥さん)によれば、武満は「今日よりも明日のほうがいい日になると信じてた」そうであるが(p.157)、これには感動させられた。まさにこれであり、これはわたしとは正反対であろう。わたしだって別に、今日より明日の方が、明日よりも明後日の方が状況は悪くなると信じたいわけではない。自然とそう思うようになっただけであり、たぶん子供がいる人ならそんなことは思わないかも知れない。また、若い人なら、どれだけ絶望しているように見えても若さそのものは確実に肯定的なものだ。わたしもまた、武満のように信じられる日が来ることをほんとに祈っているのである。

渡辺靖リバタリアニズム』読了。非常におもしろい本だった。著者はあとがきで、「私がリバタリアンかといえば、おそらく違う」(p.201)と言っているが、本書はリバタリアニズムの「欠点」にも踏み込むけれど、基本的にリバタリアニズムを肯定しているといっていい。著者はリバタリアニズムを簡単に、自由市場・最小国家・社会的寛容の価値観で説明していて、確かに論理的に考えると、リバタリアニズムの価値観はなかなか反駁がむずかしいものであるとわたしにも思われる。もちろんリバタリアニズムへの反論として福祉や治安の問題を挙げることは簡単であるが、またリバタリアニズムによるそれらへの反論もまた簡単におこなえる。またリバタリアンというと裕福な(傲慢な)白人層という印象があるが、著者はそれは必ずしも当たらないことを「実例」と「実感」を挙げて否定してみせる。少なくとも自分には、リバタリアニズムは「理性」にかなり合致したイデオロギーであると思われた。
 本書で印象的だったのは、「高潔さ(character)を失った人間は自らの自由も失うのです」(p.80)というあるリバタリアンの発言である。また著者はいわゆる「トランプ旋風」は「大衆迎合主義」の意味でのポピュリズムであるということも言っていて、これらから考えるとリバタリアニズムは「高貴な人間」の思想であるといってよいように思われた。さて、ほとんどの人間は「高貴な人間」なのかも知れないが、人間の中には「人間のクズ」もいるし、わたしなどはどちらかというと後者に近いのが気になる。これは格好つけのレトリックなどではない、わたしは誰かが金をくれて、あるいは何らかの条件で働かなくてよいなら、働きたくないという人間であり、これはふつうに「人間のクズ」とされる考え方であろう。困った困った、まあ「クズは死ね」というのも一理あるし、実際に頻繁にネットでも拝見する考え方であって、あーあという感じだ。まあ、あなたは人格高潔なお人なのでしょうし、それを疑うわけではないのですがね。とにかく困るわ。

しかし、理性っていうのは厄介だな。理性ってのは一種の暴力でもあり、理性に従わないということは許されない。そして、すべての人間が理性に従って生きられるわけでもない。あーあ、ヤンナッチャウナ、てなもんだ。

それにしても、どうしてこう立派な人間ばかりいるかな。ネットを見ていると、立派な人間ばかりであり、誰もがクズを罵っている。自分もそうかも知れない。いやはや、とんでもない時代だ。

こともなし

晴。
風邪をひくなといわれているのだが、昨晩寝る前に何かへんで、起きたらどうも知らぬ間に治った感覚。きっとそうだ。何なんだ。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第三番 op.67 で、演奏はアマデウス四重奏団(NMLCD)。初期のアマデウスQ、よいな。■バーバーのバラードop.46、夜想曲ジョン・フィールドを讃えて) op.33 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。

ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。この曲はあんまり元気なそれなので聴くのをためらったのだが、聴いてみたらよかった。ロスバウトの古典的なアプローチのおかげもあるのだろう。でもまあ、終楽章はやはりブラームス、ちょっとやりすぎな気もするが。■シェーンベルクの「十七のピアノ断章」で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。これは非常におもしろい録音だ。どれもまさに「断章」で、完成を目指して書かれたものではない、おそらく試みに探求として書かれたものたちかとも思えるが、最初の方のほとんどブラームスと区別のつかないものから、はっきりとシェーンベルクらしいものまで、いろいろの時期の音楽が一緒になっている感じである。特に、後期ロマン派そのままの曲がおもしろかった。しかし、とてもカッコいいのである。なるほど、例えばグレン・グールドのようにある意味では保守的な耳がシェーンベルクを愛したことが、まったく当然であることが納得される。そしてまた、自分のようなさらに保守的な耳にも、シェーンベルクはきわめておもしろいことを付け加えておこう。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-2012)の「トッカータ・ミスティカ」で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NML)。おもしろい。

Musica da Camera

Musica da Camera

  • アーティスト:Hans Werner Henze
  • 出版社/メーカー: MODE RECORDS
  • 発売日: 2008/09/16
  • メディア: CD
■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「ア・リトル・ポプリ」で、指揮はクラウディオ・ルゴ、アンサンブル・ディソナンツェン(NML)。ヘンツェおもしろいな。


「ひぐち」まで歩く。片道 30分強。無意識(あるいは深層意識)の涵養。

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珈琲工房ひぐち北一色店。武満徹の評伝の続きを読む。書き手に武満の生命力が流れ込んでいるのを感じる。これは大部だがよい本で、読むのが楽しい。しかし細かい活字で二段組、それで 400ページ以上もある。自分は本を読むのはわりと速い方な気がするが、それでもまだ四分の一くらいしか読めていない。ようやく「弦楽のためのレクイエム」ですよ。武満は自分が思っていたよりもはるかに「前衛的」だ。同時代の音楽だけでなく、映画や美術、活字ものにも敏感。それに、あの時代というのは西洋の精神に対し、己が日本人、東洋人であることをいまとは比較にならないくらい真剣に考えていた。それを痛感する。我々はもはや、自分たちが「名誉白人」であるという無意識的な感覚に甘んじているのか、己の東洋人性についてほぼ何の自覚ももたない。せいぜい「日本スゴイ」くらいであろう。それは、もはや自分というものが空疎であるからである。中身に何もないから、当然「東洋」もクソもない。そして、例えば武満を「ハゲミツ」とかいっておすまししている。立派なものですな。どうでもいいが。

てくてく歩いて帰ってくる途中、いろいろ取り留めもなく考えた。結局どこにも出口がないのに対して、どうするのかということとか。自分に子供でもいれば、またちがうのだろうかとか。確かに自分には能力というものがないが、それで済ましておいてもしかたがない。この齢になっても、絶望が深まるばかりな気がする。まあ、つぶれないようぼちぼちやっていくくらいしかない。

山尾悠子を読む。

早寝。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの「聖霊はわれらの弱きを助けたもう」 BWV226、「主をたたえよ、すべての異教徒よ」 BWV230 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・トリオ第三十五番 Hob.XV:35 で、演奏はトリオ1790(NMLCD)。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第五番 op.102-2 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。■シューマンのピアノ四重奏曲 op.47 で、ピアノはエマニュエル・アックス、Royal Concertgebouw Orchestra Chamber Soloists (NML)。一流の演奏家たちによる演奏であるが、うーんという感じ。ちょっとお化粧しすぎではあるまいか。すごくきれいな音なのだけれど、ぶよぶよした感じで、もっと引き締めて演奏して欲しかった(特にピアノ)。終楽章とか、とてもこれではワクワクできない。第三楽章はロマンティックでよかった。この曲は姉妹曲であるピアノ五重奏曲(傑作である)に劣らない名曲なのだけれど、そちらほど演奏されないので、演奏してくれたのはよかったです。

 
晴。すごくいい天気。
肉屋。クロネコヤマト。スーパー。
図書館。新境川堤の早咲きの桜が満開できれい。コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。
イオンモール各務原の「Right-on」にてジーンズを買う。

庭がお花畑状態。モンシロチョウやモンキチョウが飛び回って天国か。ハナニラの甘い匂いがする。
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ドラッグストアまで散歩。
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遠くから見てレンゲかと思ったらちがった。撮影モードを替えたので、ちょっと色がきつすぎるかも知れない。

また AOJ をやっていた。
2分探索にバグを入れないこと、これがむずかしい。Ruby で Array#bsearch は知っていたが Range#bsearch を発見してとってもありがたい。

長谷川四郎『シベリヤ物語』 / アリストテレス『詩学』

深夜起床。

長谷川四郎の続きを読む。シベリアでの捕虜と労働体験から抽出された小説たちを読んでいるが、不思議な魅力がある。淡々としてリアリズムで、わたしの好きな類の小説だ。労働のつらさはもちろん大いにあった筈だが、そんな(当り前の)ことはしばしばオミットされているので、童話あるいは寓話でも読んでいるような、敢ていえば明るいような印象すらある。作中の「私」というのは作者自身と思えるように書かれているが、そう思って大過はないだろう。そういう風に読むと、長谷川四郎さんは(変な話だが)わたしよりもだいぶ人間の出来がよく、わたしには謎めいたところもある。なかなか、自分よりも魂の高級な人間の考えていることは、わかりにくい感じがする。この人は、強制労働に従事していても人生はすばらしいものだという考えを否定しなかったようで、驚かされる。わたしなどはいまのような安逸な生活に慣れていても、なかなか人生はすばらしいと断言するのはためらわれるようだ。まあしかし、そういうことは却って自分ではよくわからないことかも知れない。

図書館から借りてきた、長谷川四郎『シベリヤ物語』読了。おもしろかったが、あまりこちたい感想は書きたくないので、上に書いた蛇足でもうたくさんである。天沢退二郎氏による文庫解説もマヌケたもので、なかなかに長谷川四郎さんを語るのはむずかしい。この人は、我々読者に胸の内を悟られるような迂闊な真似はしていないのだ。他にももう少し読んでみたいのだが、図書館にどれくらいあるものかな。県図書館の書庫の全集に頼るのはちょっと大変だしな。

シベリヤ物語 講談社文芸文庫

シベリヤ物語 講談社文芸文庫

 
NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第一番 op.68 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。この曲は長い上に重苦しい印象であまり聴く気がしないのだが、それでも聴いてみればそんなこともない、(当り前であるが)名曲である。まあ、ロスバウトの演奏がよいせいもあるだろう。じつに古典的なブラームスになっている。■シェーンベルクの三つのピアノ曲 op.11 で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。「現代音楽します」という気負いが感じられない上に、各曲の性格があざやかに弾き分けられている。第一曲はブラームスの後に聴いてまったく違和感のない音楽であり、また第三曲は鮮烈だ。本当に、シェーンベルクは古典になったのだなあという感を深くする。■シェーンベルクピアノ曲 op.33a, op.33b で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。あざやかな演奏。よくわかる。■ヒンデミットの弦楽三重奏曲第二番で、演奏はドイツ弦楽三重奏団(NMLCD)。
 
朝飯にパンを食べたあと寝てしまう。

曇。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー。家族の分のドーナツも買う。さて、小野光子さんという方による武満徹の評伝を読み始める。大部なものなのでおもしろそうでなかったらそのまま図書館に返そうと思っていたのだが、読み始めたら一気に惹き込まれた。(しかし読み終えられるのだろうか。)詳細な研究でもあるのだが、平易でよい文章で、しかも叙述がいきいきとしているので、著者がたぶん意図していないような部分に感動したり。武満が本格的に作曲家として立つ、つまりいまに残っているような曲を作曲し始めたあたりまで読んだが、それにしても周囲の人々の錚錚たる顔ぶれなのは、いったい何なんだと思ってしまう。どうでもいいことだが、自分の若い頃を思い出してちょっと悲しくなってしまった。まあしかし、武満とわたしでは話にもならん。それはともかく、武満がずっと、音楽は悲しみに近い感覚だと思っていたこととか、決定的な時期にフランク(「前奏曲、コラールとフーガ」!)やメシアン(当時日本ではほとんど知られていなかった)に影響を受けたりとか、なるほどと共感するところが多い。若くしてすばらしい女性(のちに伴侶になる)と深い交流があったり、清瀬保ニや早坂文雄瀧口修造などに師事(というか既に盟友扱いだった)したり、これが才能というものなのだなあとつくづく思う。いや、よい本に出会った感じ。

本書でさらりと書いてあるが、武満はどうも独特のオーラのある人(という書き方はされていないが)だったらしい。演奏会の人混みのなかでも武満がいるとすぐわかるというような。


■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ 第一番 BWV846 - 第十二番 BWV857 で、ピアノは園田高弘NML)。何故自分にとって園田高弘は特別なピアニストなのか。自分が大したことないから、園田ごときに感動するのか。それともそうではないのか。どうでもいいといえばどうでもいい、ただ聴けばいいのかも知れないが、どうも腑に落ちないのだ。皆んな、園田をどんな風に聴いているのだろう。それがよくわからない。

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

シューベルトのピアノ・ソナタ第十九番 D958 で、ピアノはクラウディオ・アラウNML)。どうもアラウのシューベルトを完全に誤解していたような。こんなすごい射程の演奏だとはまったく予想していなかった。この演奏にたどり着くまで、探しに探しましたよ。ほぼ全体を記憶しているポリーニのそれを選んだら負け(?)だと思っていたが、アラウ盤があってよかった。
Schubert: Works for Piano

Schubert: Works for Piano

 

アリストテレス詩学』読了。三浦洋訳。訳者解説が 150ページ以上もある気合の入ったものだが、あまりにも詳細に渡りかつ専門的なので、面倒になって途中で読むのを止めてしまった。すみません。本文は曲がりなりにも読みました。

詩学 (光文社古典新訳文庫)

詩学 (光文社古典新訳文庫)

こともなし

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「来たれ、イエスよ、来たれ」 BWV229、「おおイエス・キリスト、わが命の光」 BWV118 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。あんまり美しいのでびっくりする。

Motets / Cantatas

Motets / Cantatas

モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十四番 op.27-2 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。カッコいい「月光」ソナタだな。■ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NML)。ロスバウトって聴いた覚えがないのだが、これは気合の入った演奏で圧倒された。この曲はまさにこう演奏して欲しいという典型のようなそれ。特に終楽章は、こんなのはカルロス・クライバーを聴いていて以来かな。もっと録音がよかったらなとすら思わせる。
Hans Rosbaud Conducts Brahms

Hans Rosbaud Conducts Brahms

ショパンマズルカ op.33 (全四曲)で、ピアノは Antonio Barbosa (NMLCD)。op.33-2 が好きだ。A-B-A-coda という形式なのだけれど、A の部分はほとんど同じフレーズがずっと反復されているだけで、それが好きなのである。踊りたくなる感じ。

モスバーガーのドライブスルーにて昼食。

夕方まで昼寝(?)。昨晩四時間くらいしか眠らなかったせいかよく寝た。

ショーソン交響曲変ロ長調 op.20 で、指揮はアレクサンドル・ブロック、リール国立管弦楽団NMLCD)。僕の好きなショーソン。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第一集で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NMLCD)。僕の好きなヤナーチェク


長谷川四郎を読む。

早寝。