蜂飼耳『朝毎読』 / 『エリアーデ著作集第十一巻 ザルモクシスからジンギスカンへ1』

休日(春分の日)。雨。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第四番 op.102-1 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。■モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはアンドレア・グリミネッリ、指揮はロジャー・ノリントン、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。何故か NML にはハーピストの名前の記載がない。この曲を聴くとどうしてもベーム盤を思い出してしまうのが常であるが、この演奏が悪いわけではない。終楽章などよかった。それにしても、存在するのが不思議なほど天上的に美しい曲。まさに神品という他ない。■ハイドンのピアノ・トリオ第三十四番 Hob.XV:34 で、演奏はトリオ1790(NML)。ハイドンはこんな片々たる曲でも巨大だな。

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第7集

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第7集

 
昼寝。ちょっとしんどかったけど楽になった。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十三番 op.27-1 で、ピアノは園田高弘NML)。

スクリャービンのピアノ・ソナタ第九番 op.68、詩曲「炎に向かって」 op.72、メシアンの「鳥のカタログ」 ~ 第五曲 モリフクロウで、ピアノはクララ・ミン(NMLCD)。以前にも書いたとおり、選曲の妙が光るアルバムである。コクのある音で、特にスクリャービンがすばらしい。メシアンはさすがに現代音楽を専門にするピアニストと比べると多少切れ味が劣るところもあるが、それでもスクリャービンと連続して違和感のない音楽に仕上げているところがユニーク。こうやって、現代音楽を専門にしないピアニストが「鳥のカタログ」を取り上げるというのは、おもしろいことだ。■松平頼則(1907-2001)の「主題と変奏の形式による六つの前奏曲」(1975)で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。聴いて度肝を抜かれた。アルバムの他の曲とはまったくちがう、超ハードエッジな曲である。なるほど、これなら野平さんが弾くわけだと思ったのだが、とにかくしんどかった。シェーンベルク・ライクな曲でここまでしんどいのは、日本人作曲家のそれに限らずじつに稀である。しかし自分はこの曲が完全な無調であることくらいはさすがにわかるが、十二音技法で作曲されたのかは聴いただけではわからないのが残念だ。検索してもあまりヒットせず、雅楽の旋律線と「トータル・クロマティック」(? トータル・セリエリズムのことか*1)を融合した傑作との記事を見つけたくらいである。いずれにせよ、興味深い作曲家だとわかった。

メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.13 Le Courlis cendre で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NMLCD)。一箇月以上かけて、ようやくロンゴバルディによる「鳥のカタログ」全曲を聴き終えた。これは大きな体験だった。これまで CD でウゴルスキによるこの曲集の録音を聴いてきたが、結局よくわかっていなかったのであり、この演奏で初めて「鳥のカタログ」の魅力を堪能した。ロンゴバルディは既にこの曲集を完全に手の内に収めており、もはや余裕をもってすら弾かれている。技術的にも見事であり、また美しい。自分個人の、この曲集のこれからの参照点になるだろう。これは完全にまちがった解釈であるが、自分にはこの鳥たちが、人類の死に絶えたあとの世界で神の臨在の下、さえずりを無限に鳴き交わしている光景が目に浮かぶ。それは何という美しい世界であることか!

Catalogue D'oiseaux

Catalogue D'oiseaux

ヒンデミットの弦楽三重奏曲第一番 op.34 で、演奏はドイツ弦楽三重奏団(NML)。
ヒンデミット:弦楽三重奏曲 第1番Op.34/同第2番

ヒンデミット:弦楽三重奏曲 第1番Op.34/同第2番


図書館から借りてきた、蜂飼耳『朝毎読』読了。書評集。ふしぎな題名の本である。なんとなくわかるが、というか、朝日、毎日、読売なんでしょうね。まずは見事な文章が印象的だ。どこか古風だが、例えば「走査型電子顕微鏡」という言葉を含んで何の気取りも違和感もない。完璧な本であると絶賛してもよいが、敢てそれに反してみよう。書評は批評ではないというのは当然なのだが、本書では時折それが残念に感じられた。あまりにも見事な紹介すぎるのだ。これほど知的な文章が書ける詩人なら、歯に衣着せぬ批評を読んでみたくなる。それから、本がどれもおもしろそうすぎるかも。もっと下らぬ本についても書いてほしい気がしたが、それはあるいは著者の芸にやられているのかも知れない。
 それから、これはあとで理由がわかったのだが、それぞれの書評には題が付けられているのだけれど、その題の日本語にとても本文の見事さと釣り合っていない、無神経なところをずっと感じていた。あとがきを読んで、これらはそのほとんどが著者の手によるものではないと知って、やはりと思った次第。著者は編集者の労をねぎらい感謝の言葉も書かれているが、一部はどうしても手を入れざるを得なかったことを隠していない。まあ、これらが本書の完璧さを損なっていて、よかったのかも知れない。完璧なものは不吉であるから。

朝毎読 ―蜂飼耳書評集―

朝毎読 ―蜂飼耳書評集―

 
図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集第十一巻 ザルモクシスからジンギスカンへ1』読了。訳者あとがきで訳者は慣例となっているみずからの浅学菲才の表明をおこなっているけれども、この訳文に関してはそれもまた宜なるかな、浅学菲才と申す他ない(いつもの何様である)。まあしかしこれはこの巻に限ったことではないので、このエリアーデ著作集はできれば現代の翻訳水準で訳し直してもらいたいものだと思う。が、まあそんなことはありえないだろう。そこまでいまエリアーデは読まれていない。残念なことである。とってもおもしろいのに。しかし、このエディションがあるだけでも、浅学菲才でどころではない、語学のできないわたしにはありがたいものである。拝み伏して何者かに感謝したい。

*1:聴いていてトータル・セリエリズムの感じはぷんぷんした。しかし、ブーレーズよりはシェーンベルクに近い感じもする。まあ自分のことだからテキトーですが。