篠田一士『音楽に誘われて』

昧爽起床。

図書館から借りてきた、篠田一士『音楽に誘われて』読了。いつも愛読しているブログのコメント欄で教えて頂いた本である。篠田一士はブログ検索してみると 2010年に『三田の詩人たち』という文庫本が引っかかるだけで、たぶんその一冊しか読んだことはあるまい。篠田さんはわたしと同郷の方で、どうやら旧制中学という形ではあるが高校の先輩のようである。本書にも「長良川」「岐阜公園」「丸物」というような固有名詞が出てきて、わたしがそれに感慨を覚えるほど同郷の文学者は少ない(東濃や西濃の出身者はわりとおられるが、先に挙げた固有名詞はわたしに親しいもので、かかる人は他に知らない)。そして、いまではほぼ忘れられた批評家といってもよいのかも知れない。いずれにせよ、一読していろいろなことを考えざるを得なかった。教えて頂いたのは本書所収の「批評のスティルを求めて」で、吉田秀和論としてはもっとも早いものに属する文章とのことである。本書全体を読んでみて、これはできれば十代か二十代のときに読みたかったなという気がしきりとした。いまでは読むに堪えないというのではまったくない、何というか、いまやわたしは、自分が古典的な世界からしたらいかに壊れてしまっているか、ということを痛感したのである。よかれ悪しかれ、わたしは既に認識論的切断の向こう側にいる。もちろんわたしは、著者の該博な西洋文化に関する知識・教養をもたないので、「認識論的切断」というのはレヴェルの高下をいうものではない。わたしが到底著者に及ばないのは明白なことであるが、それ以上に、わたしには何が欠けているのだろうと、いろいろと思いめぐらしたことである。たぶん、「人間味」のようなものが欠けているのだろうかと、まあそんなことを思ったりした。いずれにせよ、この博学な同郷の先輩の文章をもう少し読んでみるつもりである。さすがに県の図書館にはさらにあることがわかっているからね。

音楽に誘われて (1978年)

音楽に誘われて (1978年)

 
曇。
NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第五番 op.92 で、演奏はアルテミス四重奏団(NML)。篠田一士さんを読んだのは貴重な体験だったかも知れないな。例えばこのアルテミスQ によるショスタコーヴィチでも、現代では特に驚くべき演奏などではないが、先ほど読み終えた篠田一士的西洋観ではもはや何とも理解すらできないものであろう。そう、先ほどの書物に引いてあった吉田秀和さんの批評に、ウェーベルン的な演奏体験をベートーヴェンモーツァルトに適用していくジュリアードQ の演奏法について書かれてあったが、この(いまなら極ふつうの)アルテミスQ などは、ジュリアードQ の鋼のような音にまだ濃厚に残っている「人間味」のようなものが、もはやきれいさっぱり抜け落ちている。ただそこに何の「人間味」もないかというと、そうでもない気もするが、とにかくまあ西洋も遠くまで来てしまっていることである。そう思うと、現代日本の幼稚な「文化」がまだ稚拙な「人間味」のパロディのようなものを残しているだけ、まだ暖かい感じがしないでもないほどだ。ただ、わたしにはそれらはいささか馬鹿らしいが。さてもさて、厄介なことになっているのかも知れないな、いまという時代は。
String Quartets 5 & 7

String Quartets 5 & 7

 

妹一家来訪。
「ひぐち」で皆んなで食事。
帰りに白山神社でちょっと桜を見る。五分咲きくらいかな。新境川堤はかなり咲いているように聞いたが、今日などはたぶん近寄れまい。

わたくしにおける精神の硬直化について。


上を書いてから篠田一士さんをあちらこちらひっくり返していて、もう少し思うところがあった。まず、この読書は自分の思っていた以上にわたしの心の深層を動かしたなということ。これはことの性質上、ゆっくりとわかってきたことである。それは、自分の中の久しく眠っていた部分であるのかも知れないし、そうでないのかも知れない。これはなかなかないことであるが、自分でもあまりよくわからないことでこれ以上ははっきりとは書けない。
 もう少し「浅い」レヴェルの話。この人は、文章にウソのない人ですね。それはあまりよい言い方ではないので、むしろ心にもないことを書かないくらいの表現の方がよいかも知れない。まあ「気持ちを書く」というのはそんなに簡単なことでないので、「気持ち」っていうのが、そもそもそんなものがあるのかというくらい、うつろうものであり、はっきりとしないものである。「楽しかった」と言うから、あるいは書くから実際に楽しかったのだなあと思うくらいで、でもそれは決してそんなにおかしなことではない。ただ、それに気づいているかどうかなので、篠田さんはそれがよくわかっている人だと思った。例えば本書の少年時代の音楽体験の話はおもしろかったが、ここでもできるだけ正確にという態度がはっきりと見えている。それだからこそさらに興味深いのですね。
 それから、これはどうでもいいことと思われる人もたくさんいようが、篠田さんは小林秀雄への傾倒を隠されませんね。音楽評論家・吉田秀和の誕生には小林秀雄の「モオツアルト」の出現が意義あることだったという主張すら本書にある。(ちなみに、わたしもそれはある程度そのとおりだと思っている。)また、小林秀雄流の、我々は西洋の文学を翻訳で読み、絵画は複製で見、音楽はレコードで聴くというどうしようもない「貧しさ」を引き受ける態度、それを篠田さんも堂々と(?)引き受けておられる。もちろん小林秀雄篠田一士よりもさらに貧しいという見方もあるだろうし(篠田さんはアウエルバッハの翻訳者である)、浅田さんの「小林秀雄の貧しさは日本の貧しさ」という断言もあって、わたしはそれらについて何もいうことはない。しかし篠田一士さんは小林秀雄の仕事が好きだった筈で、わたしのその読みはそんなにまちがってはいないと思う。それで思い出されるのが先日読んだ『小林秀雄の恵み』で、あの天才が(確か)34歳で『本居宣長』に感動し、「学問」というものを自分もしてみようと思ったという話である。そこであの天才は失われたと考える人も多かろう。わたしはこれについても何もいうことはありません。
 僕は今日つらつらといろいろ考えていて、いまや小林秀雄は読む価値がない、吉本隆明は読む価値がない、中沢新一は読む価値がないという現在の定評は、わたしの中でつながっているなと思ったことだった。あるいはその定評が正しくて、わたしがまちがっているということもあるかも知れないが、どうせムダになるのはたかがわたしの人生なのだから、まあ放っておいてくれと思いますね。ちなみに、わたしはその三者とも、まだまだ現在に活かして読んでいる人はほとんどいないとも思っています。妄想かもしらんけれどね(笑)。

ついでだから書くけれど、吉本さんって人はほんとに孤独な人だった。柄谷行人はわたしはいまではそんなに好きでもないが、そのことははっきりとわかっていてさすがだなと思う。吉本さんはふつう思われているよりはるかに自己評価の低い人で、さらに全集とか読んでいるとたまに弱音もちょっと吐いている(笑)。どういう弱音かっていうと、誰も自分に触ってくれないっていう、これはもちろん比喩ですね。かつてあれだけ読まれた人だけれども、政治的文脈で吉本さんを熱烈に読んできた人たち、また「三大理論書」中心に読んできた人たちは、わたしはまったく信用していません。まあ全集を買ってくれるならありがたいけれど(僕は図書館なので)、吉本さんの孤独の原因はああいう人たちだったと思っている。だから、晩年に中沢さんのようなよき理解者を得て、少しは救われたのではないかと想像している。わたしも、あちらこちらに点在する中沢さんの言葉が、吉本さんを読むヒントになりました。ま、そんなこんな、つまらぬことを書いた。