こともなし

晴。
今日はふつうに早起きして午前中はたっぷり時間があったのだが、気分的に何もしたくない。これは仏教的な「無」とか無念無想とか、そういう小むづかしいこととは関係がないので、きちんと働いている方なら日々のルーチンワークをする、そういう感じでいたいということである。家事も老母がやってしまうし、何にもルーチンワークをすることがないというのははっきりいってアカンので、とにかく余計な(それこそ小むづかしい)観念とかつまらぬメロディとか、そんなものばかりを意識したくない。まあ、この複雑な世の中でしこしこ働くのもウンザリなのではあって(もう充分働いた気がする)、何だか人類は自業自得的な落とし穴にハマった気がしてならない。江戸の町人の労働時間は一日三時間だったともいうが、そこから我々は完全に後退している。まあしかし、働いている人エライ、天才!っていっておくか。もちろんわたしはクズである。存分に軽蔑してくれたまえ。

しかし、部屋に安住していられないのが諸悪の根源なのだとパスカルは言ったが、インターネットこそが現実になった現在、部屋に垂れ罩めているヒマ人がもっとも世界に直結しているかも知れない世の中になってしまった。わたしは部屋に居ると世界人になりかねないので、せめてこの田舎の日の当たる庭でぼーっとしているのが本来的でありたい感じ。いくらインターネットが広大だといっても、小さな庭(ミクロコスモス!)の蔵する無限には決して敵わない。高度成長期の東京の住人は、狭い敷地に猫の額のような庭を作らずにはいられなかったが、それを揶揄した開高健はその深い知恵には気づかなかったようだ。澁澤龍彦林達夫に庭園の叡智を見たのである。ちなみにいま近所に雨後の筍のようにぼこぼこできる今風のおうちには、ことごとく「庭」というものがない。花壇すらもない。ただガランとした空虚があるだけ。おそらく手入れをするヒマもないのであろうが、さすがに現代であるとわたしはその象徴性の暗合に驚かされるのである。

またつまらぬことを書いたな。

昼から「ひぐち」へ行こうと思ったのだが、あんまりいい天気なので電車に乗りたくなる。なので途中で車の向きを変え、旧中山道経由で市民公園へ、三時間まで無料の駐車場に駐めて、各務原市役所前駅から名鉄犬山線に乗る。そのつもりはなかったのでカメラを持ってこなかったのはちょっと残念。お供は松家仁之の『光の犬』である。
 わずか15分程度で犬山着。ここで降りるのは初めてである。駅前にファーストフードのチェーン店でもないかと探したが、駅中にロッテリアがあるくらい。犬山はもっと大きい街かと思っていたのだが、いまはどこでも駅前は景気がよくないようだ。最初東口をうろうろし、ついで西口も行ってみるが、何ということもなし。あくまでも犬山には本を読みに来ただけなので、東口の CASTA(キャスタ) 内にある「CAFE PROSPERE」に入る。ブレンドコーヒーLサイズ380円でお安いのだが、大した味とも思えない。個人的にはミスドのコーヒーの方が好きである。
 さて、松家仁之『光の犬』を読む。僕はこの小説家とは相性が悪く、『火山のふもとで』はまずまず、『優雅なのかどうか、わからない』ははっきりと下らない小説だと思ったのだが、この『光の犬』はこれまでの中ではもっとも期待できそうな感じ。この小説家はきれいで透明な文章がいちばんの特徴で、特にそこに魅力と(わたしの場合は)懸念があるのだが、本書もそれはいままでどおりである。最初の 100ページほどを読んだ印象では、北海道での家族三代を扱った、大河小説っぽい感じがする。ただ、これはわたしの弱点なのだが、「人生」を扱った小説みたいなものはいまひとつ苦手だ。本書がそのあたりどうなるのか、これからの展開を楽しみにしている。既に主要な登場人物のひとりと思われるキャラクターが死ぬことが暗示されている。


山形さんが柳下毅一郎氏の「統計捏造」発言に端を発した、まあちっぽけなネット上の「炎上」に対して、(ひさしぶりの)ブログエントリに山形さんらしい啓蒙的文章を書いておられるが、はてブを見たらあんまり予想どおりのバカバカしさなので呆れる(もう絶望する気もなし)。こんなに論理的かつわかりやすく丁寧に書かれているのに(まるで小学生を相手にしているくらい丁寧だ)、これでも読めてないやつの方が多いくらいだとは。これらの年齢層が気になるが、リテラシーも何もあったものではない。わたしは正確な論理で屁理屈などいくらでもいえるという立場の人間であるが、屁理屈にすらなっていない情けないコメが多すぎて何なのという感じ。僕はうんこな中沢新一信者であるが、山形さんのような人がここまでこれほどやってきたことに対して、こちらが何だか(まちがった)徒労感のようなものすら感じてしまう。じつに絶望的なことをやっておられるなあ。やはりリスペクトせざるを得ない。

もー、いまだに「アベノミクスはまちがっている」という人がわんさかいて、自分の実感とか持ち出してよろしくやっておられるが、目の前に石ころがあってもその石ころが見えていないという、いや恐ろしいですな。まったく、真剣に安倍政権を何とかしたい人たちに、そういう人たちは背後から発砲してきて、いったい何がしたいのだという感じ。安倍政権を利するにもほどがあるといいたい。ま、ほんとリテラシーを身につけるって無理ですな。僕が「熟議民主主義」とか夢物語というか、寝言にすぎないと思ってしまうのはそこである。そもそも、ほとんどの人は論破されるとむかついて、もうそうなると絶対に論理と事実に耳を傾けることはなくなる*1。そういうことは、自分は若い頃から散々見てきた。それはエリートでも同じだ。

まあこれは人の意見を知ったかぶりしていうが、アベノミクスつったって、ぶっちゃけ成功したのは金融緩和政策だけですよ。それだけでこれほどの長期政権になったので、それまでの政策がひどすぎたということだ。アベノミクスを超える政策なんていくらでも可能なことはわかっていて、実際安倍政権も消費増税という愚策を断行しようとしている。わたくしの理解はこんなもんです。たったこれだけで、もちろん人の意見を自分で納得したにすぎない。全然自分オリジナルな意見でも何でもなし。もちろん、まちがっていたらさっさと意見なんぞ変えます。わたしなどその程度の者にすぎない。

しかし、物理学ですらいまだに「(特殊)相対性理論はまちがっている」という素人がわんさかいるので、それを思えばアベノミクスくらい、まあそう不思議でもないだろうなあ…って納得していいのかなあ…。例えば電磁気学を正しいと認めたら、(特殊)相対性理論を認めないことは無理がある*2のだが、彼ら彼女らは絶対に認めないのだよなあ。すげーって感じ。ひさしぶりにそんなことを思い出したりする。

ついでにいうと、一般相対性理論がまちがっているという人があまりいないのは、「(特殊)相対性理論はまちがっている」というくらいの粗雑な頭では、既に理解することすらむずかしいせいもあるだろう。さすがにテンソル解析あたりは、高校レヴェルの数学ではちょっと無理である。

NML で音楽を聴く。■バルトーク弦楽四重奏曲第一番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

 
しかし今日はつまらぬことをたくさん書いたな。正義派ぶってちょっと嫌な感じ。ときどきこういう愚行をしてしまう。

『光の犬』半分ほど読んだ。かなりおもしろい。あまり賢しらなことを言いたくない感じ。(AM00:45)

*1:というか、多くの人が自分が論破されていることに気づきもしない。わたしの子供の頃、「お前はすでに死んでいる」という決めセリフのマンガがあったが、既に自分が死んでいることに気づかないゾンビちゃんが多数である。こういう人たちはまさに不死身で、絶対に論破されない。笑える。

*2:ちょっと専門的な話になるが、実際にアインシュタイン特殊相対性理論の具体的な着想を得たのは、電磁気学の考察からである。特殊相対性理論の最初の論文の題名は、まさに「運動する物体の電気力学」なのである。

ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以後の神』

晴。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのミサ曲第十六番「戴冠式ミサ」 K.317 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、オランダ室内合唱団、18世紀オーケストラNML)。合唱の音色がちょっと暗い感じがするのだけれど、気のせいかな。もっとも、合唱についてはよく知らないのだけれど。

モーツァルト:戴冠ミサ

モーツァルト:戴冠ミサ

 
昨晩、澁澤龍彦の『サド侯爵 あるいは城と牢獄』を読んでいたのだが、圧倒的ですね、澁澤は。澁澤など中高生向けという意見をよく聞くが、わたしなどはおっさんになっても読んでいる。レティフ・ド・ラ・ブルトンヌとか、恥ずかしながら読んだことがないのだけれど、読みたくなった。って入手できるのか知らん。ゲーテの『イタリア紀行』も読み返したくなった。学生のとき、ドイツ語の勉強に冒頭部分を岩波文庫版と対比して読んだこともあったな。まあ、もちろんドイツ語はものにならなかったわけだが。二十代前半であれのおもしろさがどれだけわかったか疑問なのだけれど、何か熱中していたのだな。澁澤も、ゲーテの度を越したよろこびようが楽しいみたいなことを言っているけれど、ゲーテにせよスタンダールにせよ、イタリアにやられた人たちだ(澁澤はそれにサドを付け加えている)。イタリアには何かあるらしいのである。
サド侯爵 あるいは城と牢獄 (河出文庫)

サド侯爵 あるいは城と牢獄 (河出文庫)

 

■大澤壽人(1907-1953)のピアノ協奏曲第三番「神風協奏曲」で、ピアノはエカテリーナ・サランツェヴァ、指揮はドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団NML)。この演奏を聴くのは三度目か四度目だと思うが、これまでは何もわかっていなかったことがよくわかった。自分なりに多少わかったところがあるように思うが、それにしても自分の予想を遥かに超えていた。この曲はプロコフィエフと比較されることがあるが、自分はそれはやや皮相な見方で、むしろ敢えていえばフランスのモダニストたちに近いと思う。特に、こういうことを言った人があるか知らないが、第二楽章はラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章へのオマージュではあるまいか。大澤壽人のすばらしいところでもあり、理解するにむずかしいのはその独創性で、基本はヨーロッパ的モダニズムなのであるが、東洋的な要素も、またアメリカ的な要素も流れ込んでいて、しかもそれらが溶け合って不思議な独自性を醸すに至っている。『天才作曲家 大澤壽人』にもあるが、大澤が作曲を学んでいたのは古典的な調性システムが崩壊する時点で、それが音楽語法の自由度を高め、大澤に都合がよかったことは明らかにあるだろう。それにしても、日本的ともいいたい素材が完全にヨーロッパ・モダニズムと融合しているのは驚くべきで、これを同時代の日本人が理解するのはきわめてむずかしかったことだろう。その意味でも、大澤が帰国せず、ヨーロッパに留まっていたらという「歴史の if」は、考えても詮無いことであるがつい考えてしまうところではないか。
 それから、これは指摘されているのを見たが、大澤のオーケストレーション管弦楽法)の見事さは驚異的なレヴェルで、現在に至るまでこれを凌駕する日本人作曲家は出ていないし、西洋の一流音楽家の中に置いてもまったく輝きを失わない。色彩感が豊かで、洒落ているのだ。まったく、このレヴェルの作曲家が埋もれていたということが、本当にあるのだ。なお蛇足であるが、この曲の表題である「神風協奏曲」というのは神風特別攻撃隊とは関係がなく、朝日新聞社の「神風号」のことである。しかし、自分はこの表題はなかった方があるいはよかったのではないかと思う。もしかしたら、本格的なピアノ協奏曲というその性格を遮蔽してしまうかも知れないと思うので。とにかく、大澤の主要全作品を聴いてみたいものだと強く感じる。それも、そのうち可能にならないとはいえまい。いや、そうなってほしいものだ。

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

演奏であるが、なかなか悪くはないけれど、充分でもない。エラソーで申し訳ないが、演奏家としては二線級であろう。まだまだ別様の表現はあり得ると思う。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー485円。図書館から借りてきた、ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以後の神』読了。ヨーナスが日本の読書家にどれほど知られているかは知らないが、一般にはグノーシス思想の研究者とされているように思う。けれども実際にはその奥がある人で、もともとはハイデガーに就いていた哲学徒だったりと、晩年は哲学者を以てみずから任じていた。『責任という原理』はドイツ本国で広く読まれ、邦訳もされていて自分は目を通したことがある。骨太の、読むに値する思想家である。ただ、わたしのレヴェルを超えているのも事実で、本書もすらすらわかるとはいえなかったのだが、いたずらに難解を気取る物書きとは反対の人で、たんにわたしの読解力が劣るにすぎない。
 本書の内容は題名から推察されるところもあるであろうが、ヨーナスがユダヤ教徒であるのがポイントである。ただ、本書には表題作以外に二篇の論文が収められているけれど、その「神」はほとんどキリスト教のそれ以外の何物でもないように見える。いくらユダヤ教キリスト教、そしてイスラム教の「神」が同じであるとはいえ、不思議な感じがする。ヨーナスはもちろん神を信ずるのであるが、「神の存在証明」はカント以降完全に不可能になったとはっきり認めており、自然科学にもかなりのレヴェルで通じていることは明らかだ(実際、晩年は生命倫理を構築する代表的な哲学者のひとりであった)。本書の内容の紹介は自分の手に余るが、様々な思考を誘発してくれる得難い書物である。しかしヨーナスのレヴェルですら、神に一種の人格を付与してしまうところがあるのが西洋人だなあと思う。自分はそういうのは苦手なのであるが、一方で「神」を導入したことにより、「超越性」というものが精神に宿ることになり、これこそがまさに我々の理解のむずかしいところだ。西洋人にとって「超越性」は、(無)意識のかなり深いレヴェルにアクセスする通路になっている。まさしくこれこそが、西洋の本質であるといいたい気がする。我々東洋人にとって、抽象的な「超越性」というものはなかなかに理解することがむずかしいものだ。しかしこれからは、日本人にもある種の「超越性」が必要になるのかも知れない。本書を読んで、そんなことをとりとめもなく考えたりした。

アウシュヴィッツ以後の神 (叢書・ウニベルシタス)

アウシュヴィッツ以後の神 (叢書・ウニベルシタス)

 
カルコスに寄る。図を書いたり計算をしたりするのに使うメモ帳がいっぱいになったので、新しく買う。他についでに新書本を買ってみたり。


ツイッターを見ていて田中秀臣先生が韓国問題について強硬的なことを書いておられるのを読んだが、木村幹先生とかを参照して仰っているのかねえ。僕は田中先生は人間的には大キライだが、学問はそれなりにリスペクトしていたのだけれど、何でも経済学、特にゲーム理論で切れると思っている感じで、今回のことはちょっと違和感がある。僕も別に韓国は好きでもないが、韓国政府は日本にそれほど関心がなく、例の記者会見でも NHK が無理に突っ込まねば日本の話題は出なかったというのが事実でしょう。韓国がいちばん気にしているのはアメリカだという専門家の、それも根拠がある判断を非専門家が否定するなら、それなりの手続きが必要なのではないか。まあ、木村先生がクズだというなら仕方がないが、自分にはそうとも見えないけれど。
 それから、いわゆる「レーダー波照射問題」でも、専門家の意見を読んでいると細部はなかなかむずかしく、もちろん自衛隊の出している資料におかしなところはないけれども、当然ながら P-1 は最新鋭の稼働中の兵器で、機密保持のため情報はぼかさざるを得なくなっている(例えば日本側の映像も P-1 のシステムのものではないらしい*1。そんなことは機密の公開になるのであり得ないそうだ)。いわゆる「レーダー波の照射」があったのは事実であるが、それがどのようなもの(様々なレヴェルがある)かは機密の中で、少なくとも韓国軍の火器管制システム(というか端的にいって砲)は動いておらず、また、照射が危険なレヴェルのものであったら最悪の場合自動的に(自衛隊側からの)攻撃がなされるそうで(いっておくが、もちろん自分が知っているわけではない、専門家の指摘による)*2、攻撃の意志を示したものではあり得なかった*3。また、韓国側の提出した映像と説明は(へんな音楽は付いているが)それなりに練られたもので、日本の一部のマスコミが言っている(らしい)ように、簡単にウソとは決めつけられないようである*4。いっておくが、自分は日本がまちがっていて韓国が正しいとか言っているわけではなく、韓国側だってバカではないということだ。基本的に自衛隊の資料が正しくても、その尻馬に乗っているのが碌でもない連中なのが恥ずかしいだけである。

ああ、知ったかぶりを書いた。恥ずかしい中二病だなあ。アホくさくてつい正義を主張してしまった。最低である。
言っておくけれど、自分は知ったかぶりを書いただけで、この「レーダー波照射問題」にそれほど興味はない。とにかく自分は何も知らないので、正しいと判断したことを受け売りで書いているだけである。だから、まちがっていても別に不思議ではない。しかし、皆さんの知っていることもせいぜいこの程度のことでしょう。バカみたいにヒートアップすべきではないと思うだけである。ホント、むしろどうでもいいことなのだから。あるいは、これに対する日本人の反応に危機感を感じないでもないが、もうほとんどどうしようもない。病膏肓に入っている。

先日更新されたあるブログを読んでいて、白洲正子の能や小津安二郎の演技指導について語られたあと、「自分を『無』にすること。」というフレーズが掲げられていたが、あるいは少々ちがうのではないかと思った。いや、ブログ主はもちろんおわかりなのだろうが、「無」というのすらひとつの実体化なのである。梅若実がいう「あなたが『考えまいとおもうこと』がたたっているのですよ」ですら本来無駄なことで、もちろん梅若は仏教でいう「対機説法」として、つまり相手を見てそういっただけのことであろう。これもまた「方便」にすぎないが、「無」というよりはたんに存在しているだけ、存在の充実があるだけとでもいう方が、まだマシなのかも知れない。西洋人はよく東洋に「無」を見るが、それはもちろん陳腐な実体化にすぎないのである。だから、能が「無」などというもので切ることができる、そんな浅はかなものであるとは自分は信じられないし、実際にそうではないと確信している。まあしかし、世の人は能など一度も見たことのない田舎者=わたくしのいうことを信ずるにはまったく及ばない。もちろん、小津安二郎も知らないのだ、この男は。

ちなみに、仏教でいう「無」は「何も考えない、考えないということも考えない」というようなものとはあまり関係がない。むしろ普通は、存在の本来の絶対無分節性を指していう言葉で、きちんとしたコノーテーションのある語である。もっとも、それだけではなく様々に用いられてもいるので、上のような「誤解」(?)も無理はないのだが。また、仏教と能ではまたちがうものでもあるかも知れない。わたしは能の「型」というのは、臨済禅における公案のようなものではないかと推測する。だから、「型」は最終的に壊されなければならないのではないか。「型を演じているだけ」というのは、これも対機説法だと思う。実際の梅若は、既に「型」のことすら忘れ去っていた筈である。

いや、わたくしがごとき未熟者のいうべきことではなかったかも知れない。「にわかほど語りたがる。」

*1:おそらくは、P-1 から市販のビデオカメラで撮影したものと推測されている。

*2:これは自分の誤読。自動的に稼働するのは ECM による電子戦。

*3:専門家の判断だと、おそらく P-1 の ECM(電子対抗装置)は稼働しておらず、また P-1 は緊急回避行動をおこなっていない。これは P-1 側が危険であると判断していない傍証になる。

*4:少し細かい話になるが、韓国側の主張では攻撃用の STIR-180 は使用しておらず、使用したのは MW-08(Cバンド三次元電探)であるとのそれで一貫しており、それが事実かどうかは別として、少なくとも「発言の矛盾」はない。日本側の発表からいっても、その主張を否定する証拠はまったくない(あるいは発表されていない)。とにかく、P-1 は攻撃される危険性を感じていなかった可能性が高い。

2018年 ナクソス・ミュージック・ライブラリ まとめ

自分にとって今年の音楽というと、ゆたさんに勧められて、クラシック音楽のストリーミング配信サービスである「ナクソス・ミュージック・ライブラリ」に入会したのがとても大きかったです。(ゆたさん、ありがとうございます!)月 1850円でクラシック音楽の膨大なアーカイブを聴き放題というサービスで、もはやこれなくしては自分の生活は考えられないほどのヘビーユーザーになってしまいました。

ということで、日記とは別エントリを立てて、今年 NML で聴いた音源について簡単にまとめておきたいと思います。長くてすみません。以下、順不同です。

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こともなし


雪。今年の初雪である。5 cm ほど積もったようだ。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV 1003 で、ヴァイオリンはジュリアーノ・カルミニョーラNMLCD)。■モーツァルトのディヴェルティメント変ロ長調 K.254 で、ヴァイオリンはオーギュスタン・デュメイ、チェロはジャン・ワン、ピアノはマリア・ジョアン・ピリスNMLCD)。■ブリテンシンフォニア op.1 で、指揮はジェーン・グローヴァー、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(NMLMP3)。

今年入会した「ナクソス・ミュージック・ライブラリ」を聴いた、今年のまとめを頑張って書く。いやあ、よく聴いていたのだなあ。


吉田秀和さんのアンソロジーの続きを読む。これで半分以上読んだ。わかってきたが、本書の前半(これまで読んだところ)は主に作品論で、だからこんなに分析的な聴き方がなされているのだ。自分はたぶんアナリーゼ(楽曲分析)ができないのがコンプレックスなのであろうが、それにしても吉田さんの筆はあまりにも正確で、分析が精緻すぎてわずらわしいほどである。しかしこれは、己の力を知らしめる、鎧であったのだ。世間がいやでも吉田さんの実力を認めたあとは、おだやかな書き方になったのだと思う。本書の真ん中くらいまできて、演奏家論とかコンサート評の文章が増えると、格段に読みやすくなるし、わたしが好んで読んできたのもそういうやさしい文章であった。
 ただ思うのは、シェーンベルクにしろブーレーズにしろ、自分の聴き方は既に吉田さんとはまったくちがうことが痛感される。いや、吉田さんは結局バッハでもモーツァルトでも同じことで、自然にアナリーゼしながら聴いておられる。自分もまたモーツァルトであろうがブーレーズであろうが同様に聴くが、自分はどちらもエモーショナルに聴くのだ。いや、「エモーショナル」といって正確に伝わるか疑問だが、よい言い方が思いつかない。そう、自分はアナリーゼはできないが、それで一向にかまわないと思っているのである。ただ、吉田さんの 100分の1 も音楽が聴けていないことは確かだが。それはもう、どうしようもない。
 それにしても、演奏家評など、同時代について書かれた文章が、いまでもほとんどそのまま通用するのがすごい。小澤征爾ではないが、吉田さんは何でもわかってしまうのだ。そして、大きなところを外すことはまずない。吉田さんは真に音楽を聴くことのできた、本物の音楽評論家であったと思う。

なお、本書にこんな文章がある。「今、しかし、西洋人もいれて、世界中の人たちは、西洋の絶対性ということにかつてのような信頼をおかなくなった」(p.201)と。これは 1974年の文章であるが、吉田さんのいいたいことはよくわかるし、それはある意味では事実であろう。しかしである。いまにおいて「西洋の絶対性」はむしろ全世界のデフォルトになっている。つまり、西洋の産んだロジックによる合理主義というのは、完全に全世界を覆い尽くしつつあり、それ以外の思考法があったということは抑圧されている。もしそんなこと、つまり「それ以外の思考法があった」などということをいうと、簡単に「オカルティスト」のレッテルを貼られてしまい、それでもはや見向きもされない。わたしはロジックとエモーションは融合されるべきであると考えているが、これはまさしく現在では蒙昧主義の主張に他ならず、まともに考えることのできる人間という評価を剥奪されてしまうことになる。もはや、おしまい、ついに詰んだ。希望がどこかにあるのか、わたしにはまったくわからない。

西洋を見ているとわかるが、ロジックがきつくなると非合理主義も強くなる。ロジックは暴力でもあるから、それから逃れようという働きもまた暴力になるのだ。ゆえに、さらに管理が強まるということになる。その負のスパイラル。

『ゲンロン 6』

休日(勤労感謝の日)。昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV614-618 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■ショパン即興曲第一番 op.29、第二番 op.36、第三番 op.51、幻想即興曲嬰ハ短調 op.66 で、ピアノは園田高弘NML)。ショパン即興曲を聴きたいと思って NML で調べてみたら、園田高弘の録音があったので聴いてみた。園田は広いレパートリーをもったピアニストだったな。しかし、これで聴いていると、ポピュラーな「幻想即興曲」だけ贔屓にしているわけにはいかないという気になってくる。第一番もよく弾かれるが、その他だって悪くない曲だ。僕はこれら即興曲はあまり聴かないといえばそうなのだが、ホント悪くない。でも、スタンダードな録音って誰のなのだろうね。やはりルービンシュタインとかなのかな。ポリーニは録音していないしな。それにしても、園田を聴いていると故郷に帰ってきたなというような感じがするよ。

シューベルトのヴァイオリン・ソナタソナチネト短調 op.137-3 D408 で、ヴァイオリンはギドン・クレーメル、ピアノはオレグ・マイセンベルク(NMLCD)。■アルヴォ・ペルトの「フラトレス(ヴァイオリンとピアノ版)」で、ヴァイオリンはギドン・クレーメル、ピアノはキース・ジャレットNMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十四番 op.142 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。


日産のゴーン会長逮捕のニュースには別にそれほど興味がなかったのだが、ルノーがもともとフランスの国営企業であり、いまでも国が大株主であることから、欧米で様々な報道がなされているのを知ると、おもしろくなってきたなという感じもする。マクロン仏大統領がルノーによる日産の吸収を指示していたともされ、よくは知らないが、フランスではゴーン会長逮捕は日本の陰謀であり、実際は無罪であるとも報道されているようだ。つまらぬことをいえば、ヨーロッパ人にとって日産の吸収は日本(あるいはアジア)に対するルサンチマンを開放する出来事であり、それを阻止されたことで彼らのプライドが傷つけられたとも考えられる。いずれにせよ、ヨーロッパの政財界の多くがいまでも日本人を見下しているのはまぎれもない事実のようで、それがこの事件から透けて見えてくるような気がする。まあ、そんなことはどうでもいいといえばどうでもいいのだが。日本人の少なからずが中国・韓国人(あるいはその他アジア人)を内心見下しているのと同様な話であろう。
 
晴。
モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第二十三番 K.306 で、ヴァイオリンはイザベル・ファウストフォルテピアノはアレクサンドル・メルニコフ(NML)。これはよい! 最近聴いた音楽の中でもっともフレッシュな演奏だ。そもそもヴァイオリン・ソナタというのは多くの場合ヴァイオリンとピアノは対等でなく、どうしてもピアノが強くなってしまいがちであるが、表現力の乏しいフォルテピアノであるがゆえに、ここでは強く表現してもヴァイオリンとのバランスがちょうどよいということになっている。もともと自分はフォルテピアノの貧弱な音が好きではないのだが、ここでは効果的であることを認めないわけにはいかない。それに、演奏がまたよいので、先ほど書いたようにじつにフレッシュではじけそうだ。よいモーツァルトだと思う。残りを聴くのが楽しみ。

Sonatas for Fortepiano &

Sonatas for Fortepiano &

それにしても、このアマゾンの商品タグを見てほしい(↑)。アマゾンのクラシック音楽 CD 担当者のやる気のなさがはっきりと出た、えーかげんな記述である。前から思っているが、どこのどいつが担当しておるのだ。

ハイドン弦楽四重奏曲第二十五番 Hob.III:32 で、演奏はアキロン・クァルテット(NML)。初めて聴くカルテットだと思うが、なかなか好印象。ハーモニーが美しい。

Haydn / Mozart / Schubert

Haydn / Mozart / Schubert

昼から県図書館。早めの時間に行ったので、いろいろとゆっくりたっぷり本を選ぶことができた。結局限度の十冊借りる。
 図書館の隣のミスドで本を読もうと思っていたのだが、休日なので駐車場が満杯。まあ「ひぐち」へ寄ればいいやということで、珈琲工房ひぐち北一色店へ。いま借りたばかりの『ゲンロン 6』を読む。この雑誌を読むのはひさしぶりである。特集である、「ロシア現代思想 I」というのにざっと目をとおした。最近のわたしは勉強不足なので中身は一行たりとも理解できない…、というとレトリックになってしまうが、まあそんなものにはちがいないわけだけれども、いまの優秀な人たちがどこを向いているかは凡そ見当がついた気がする。東さんは巻頭言で、これまで「特定の小さな文脈に閉じこもって」OK といってきたのに、ここで外部を注入するという矛盾を言い訳しておられるが、気持ちはわからないでもなかった。座談会でも翻訳論文を読んでも思うが、もはや優秀な人たちが手っ取り早くやれることが残っていないのである。思えばポストモダンは「知のたわむれ」とか言ってアホだといまでは切り捨てられる感じだが、しかしそれなりに真剣にたわむれていたところがあって、東さんなどもそういう文脈で出てきた人であった。いまや、皆真剣であるようで、結局はカードをシャッフルして提示する以上のことができず、それをうまくやれるのが優秀ということで、ポストモダンよりもはるかに苦しくなっている。確かに「ロシア現代思想」、興味深くないことはないし、大変に「知的」な議論がおこなわれているが、結局はぼくは頭がよいでしょうごっこ以上のことができない。さても、僕などは頭がよくないのでおー若い人たちかしこいなとは感心するが、当事者たちは大変だな。まあ自業自得なので、頑張って下さいというしかない。さて、残りの部分も目をとおそう。じつは『ゲンロン 7』も借りてきているのだよ、わたしは。

ゲンロン6 ロシア現代思想I

ゲンロン6 ロシア現代思想I

しかし、ホントこれだとお先真っ暗の感じで、わたしのいうことがまちがっている方がナンボかマシである。何か若い人たちが熱中できる、真に新しいことがあるといいのだが。それは必然的にポストモダンの否定なので、ポストモダンをバカにする優秀な人たちはマジ頑張って欲しい。

とはいえ、こんなこと書いてもしかたがないようにも思える…。意味なし。いまの優秀な人は、自分の頭のよいことが他人にわかればそれで充分なのかも知れない。しらんけど。

そういや図書館で坂本龍一の音楽のアナリーゼと本人へのインタヴューが収録されている大部な本を見つけて興奮して読んでいたのだが、本があまりにもデカすぎて借りられなかった…。しかしまあ、音大の学生でもなければわからない感じで、自分が読んでも読みこなせない気がする。


『ゲンロン 6』にざっと目をとおし終った。基本的にわかったことはひとつ。若い人たちの世界とわたしの存在する世界はまったくちがう。どこかで世界線が離れてしまったようだ。もはやわたしは、若い人たちの世界にとってまったく無意味であり、invisible な存在である。それを強く確信した。そしてわたしの存在する世界は既に消滅しかかっている。それを止めることは不可能である。(PM05:54)
端的にいえば、いつも言っているとおり、ただ自分はどうしようもなく時代遅れになったんだよ(昔からだけど)。簡単にいえばそれだけ。大袈裟にいうほどのことでもない。

ちょっとクラいな。あんまりクラくてもな。


リチャード・E・ルーベンスタインを読む。

ブラームスの四つのバラード op.10 で、ピアノはファビアン・ミュラーNMLCD)。特に第四曲がよかった。このピアニストがよいピアニストなのかどうか自分にはわからないが、少なくともこのブラームス・アルバムは悪くないと思っている。

こともなし

昧爽起床。五時少し前か。ものすごく映像的で spectacular でおもしろい夢を見ていて、ちょっと忘れるのが惜しい。CG をふんだんに使った映画でも、再現することはむずかしいかも知れない。そしていまこう書くと気恥ずかしいが、深い「愛」の物語でもあった。何だったのだろう。自分のどこにこれほどの「愛」があったのか。すばらしい感覚が残っている。まあこれ以上書くつもりはない。いきつくところまでいって、目が覚めてしまった。日常に帰ろう。(AM05:04)

それにしても、自分は八〇年代の人間なのだな、よくも悪くも。それをつくづく思い知らされる。しかし、あれはあれで深くて豊かなところがあったのだろう。変な話、漫画家の高橋留美子って、自分には時代精神のように思われるな。あの可能性は、どこへいったのか。いまそれがまったく受け継がれていないとは思わないが、やはりいまとはちがう。我々はどこかで何かを失ってしまったのかも知れない。そしてそれは、自分のような者などが墓場へもっていっておしまいになるのだろう。世界線が変ってしまったのだ。

宙ぶらりんの八〇年代。あの時代に活躍したある人が「おれたちのことをなかったことにするのはやめろ」という声を挙げていたが、いまではなるほどと思う。Tumblr で八〇年代を集めている人が結構いるが、わかる気がしてきた。しかし、わたしはノスタルジアでそう言っているのではない。ただ、ホントに「世界線が変った」というのは、オカルト的でバカバカしくはあるけれど、意外と言い得ているかも知れないな。現在は、どこか悪い夢のような感じがする。何かが、終ってしまったのだ。そして、いまだにそれになじめないのだな。

人生の最後が始まったのかも知れない。(AM05:33)

曇。のち好天。爽やかな天気になった。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。やはりどう思っても園田高弘はすばらしい。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーンNMLCD)。最高の名曲のひとつで、じつはここまでヒラリー・ハーンのバッハはよくわからないなと思いながら聴いていたのだが、この曲の演奏ではやはり胸をうたれた。それにしても、アンダンテなど、こんな悲しい曲があるだろうかと思う。■ハイドン交響曲第九十番 Hob.I:90 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNMLCD)。
 
母の診察のため病院。先日の詳しい検査の結果は良好。まあ治療の副作用とかもあって完全に元に戻せるとはすぐにはいかないようだが、とりあえずはよい結果だった。あとは二箇月に一度ほど検査をしていくことになるだろう。なかなか「完全治癒」というのはむずかしく、ある程度の不自由は受け入れていくしかないようだ。でも、無理ということでもないらしいし。


たけしのコマ大数学科」で出された問題を Ruby で解いている。プログラミングで解ける問題が結構あって、楽しんでいます。今日は四問解いた。
marginalia.hatenablog.com

Rogue で遊んでみる

日曜日。晴。
自己肯定感がない。ネットで「オレがオレが」という喧騒を見ているとウンザリする。エラい人ばっかりだ。

NML で音楽を聴く。■バッハのフルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031 で、フルートは福永吉宏、チェンバロ小林道夫NMLCD)。この曲とシューマンの「森の情景」がこのところ頭の中でぐるぐる回っている。

超古くさい RPG でかつ超有名である「Rogue」を Linux Mint で遊んでみました。
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なんと端末で遊びます。めっちゃシンプルで素朴だけれど、意外と想像力を喚起しておもしろいですね。大昔の UNIX のゲームです。Wikipedia によると、誕生は1980年だそう。目的を達成するのは結構むずかしいらしくて、自分も最初いきなり地下2Fで死にました(笑)。ダンジョンがその都度自動生成されるとか、用心のためのセーブができないとか(セーブはできるのだけれど、ロードした時点でファイルが消える)、なかなか変っています。
ダウンロードは、自分はここからしました。Linux 用のバイナリが用意されているので、コンパイルなしで遊べます。すごく色んなバージョンが置いてあって迷いましたが、オリジナル最終版の Rogue 5.4 をダウンロードしてみました。Windows でも Cygwin があれば遊べるようです。
追記バージョン 5.4 は少し特殊なようなので、5.2 にすることにしました。

カルコス。何かいいプログラミング本が買いたい気分だったのだが、なかなか気に入ったものがない。いまはとにかく機械学習ディープラーニングばかりで、膨大な新刊で溢れている。で、当然 Python 本の洪水。明らかにブームを見てでっち上げた乱造本が多いが、どうもこんな田舎の本屋でもすごいものだな。自分もいわゆる AI に興味がないことはないので、やるならいまだが、皆んな tensorflow で金儲けに走っているのに素人が追従するのもつまらない。いまの日本のプログラミング本を見ていると、海外産のライブラリやフレームワークをどう使うかというものばかりで、見ていると足腰が非常に不安である。(Qiita を見ていても如実にそう思う。確かに高度なことはやっているのだが。)日本発の影響力のあるライブラリ、フレームワークなどは聞いたことがない。まあ、素人なので知らないだけかも知れませんが。
 そもそもプログラミングでは「車輪の再発明」はしない、ということになっており、自分で作るくらいのものは既に誰かが作っているということなのだが、わたしのやりたいのはその「車輪の再発明」っぽいことなのだよね。もちろん程度問題にすぎないといえばそうで、やっぱり既成品を使ってはいるのだが、できるだけ自分で納得したい。お仕事ではないから、自己満足、楽しめればいいのである。で、そういう「レヴェルの低い」ことを知るための本が少ない。本屋の棚は限られているので、AI 本の洪水になると地道なアルゴリズム本がなくなる。そういうことになっている。とにかくプログラマはお仕事でやっている人が増えて、素人の割合が相対的に減り、自分のような者にはむずかしい時代になってきた。もう、古い技術書をアマゾンのマーケットプレイスとかで購入するしかないのかも知れない。
 しかし、サーバとかメーラーをパッと自作できる人とか、そういう人に憧れるところがあるなあ、わたくしは。まあ、一生初心者プログラマだから、とてもじゃないですけれどね。
 で、購入したのは『プログラミングElixir』とフェルナンド・ペソアでした。

珈琲工房ひぐち北一色店。まず、いま買った『プログラミングElixir』に少し目を通す。よしよし、悪くない本だ。で、持参した石牟礼さんを読む。読んでいると○○ももうおしまいだなあと思うが、それに加担している自分は罪深く、そんなことを言う資格はない。国破れて山河ありというが、その山河も酸鼻をきわめた状況になっていることを石牟礼さんは淡々と糾弾する。クソのようなコンクリートによるラッピング化。中沢さんではないけれど、まず自分の脳ミソを「野生化」(「野蛮化」でもいい)しないとなと思う。罪深い自分には、それくらいしかすることがない。若い人たちによって、○○は着々と姿を変貌させつつある。いつもいうことであるが、自分は時代遅れであり、もはや新しい時代には役に立たない。

「ひぐち」でコーヒーチケットを買いました。今日がちょうどお得になる日だったので、わざわざ出かけたのである。ここのコーヒーはおいしいので、ミスド以外に来るつもりなのだ。今日はコーヒーのおかわりもしました。250円プラスでおかわりできるのです。

コンピュータ・サイエンス(計算機科学)をちょっと基礎からやりたいなと思い、最近ではネット学校などもあるので見てみたが、基礎的な授業は日本語ではほとんどない。「ドットインストール」とかさすが日本でとってもイージーかつチープ、そんな本格的なものはない。アメリカの大学など本格的なレヴェルのネット・スクールがあってさすがだが、英語はともかくかなり高価である(数十万〜百万円以上)。遊びでそこまでやるのもで、結局名著を一万円以上かけて買うことになった。おっさんの遊びだからこんなものだが、しかしマジで日本の IT産業は大丈夫かいな。日本のプログラマは基本的に独学ということで、よくもそれでここまでやっていると思うが、これでいいのかなあ。
 それから、ネットの与太話が多すぎますね。若い日本人が「プログラマになりたいな」とか思って検索したら、ああいう与太話をたくさん読まされることになるのか。同工異曲のどうでもいい話が多すぎて、どうしようもない。まあしかし、このあたりは自分のごとき素人の口出しをすることではないな。
 それにしても、素人がプログラミングで遊ぶという観点が本当にないな。僕は、これは遊びとしては悪くないものだと思っているのだが。そのあたりを是非明確化したいのだが、これがなかなかにむずかしい。まつもとさんは「全能感」だといっていたが、本人だってこれだけとは思っておられないでしょう。確かに、何か動くものができると満足感があるが、たんなる「全能感」だけとは思えないのだ。「きもちよさ」みたいなものもあるし、「美」のようなものを感じることもあるし、「レヴェルアップ」の楽しみもあるし。とにかく何らかの自己満足ではあるのだが。「ものづくり」の楽しみと少し似ているところもあると思うけれど。あと、プログラミング言語って問題もあるな。僕は個人的に Ruby と出会ったのが大きい。これは素人が遊びで使うにはもっとも適している言語のひとつだと思うが、まあこれは自分だからそう思うのかも知れない。でも、別に Ruby ばかり使っているわけではないですよ。いろんな言語を使うのもまた楽しいのだ。

プログラミングで遊びたい人は、とにかく(クソコードでもいいから)コードを書けということ。クソコードはコードを書かないのに勝ると。いや、「クソコード」ってヒドい言葉ですけれど、よく使われますから。(ただし、適性のない人はお仕事にしない方がいいかも知れない。プロが書く「クソコード」は他人の迷惑になるので。)