加藤周一問題とは何か

晴。
 
昨日のエントリを書いてからも、加藤周一さんについては随分考えた。わたしの考えるところでは、加藤周一というのは人間の営為すべてを「戦争反対」の相から眺めるというものである。戦争は(人間の作った)社会システムが人為的に作り出すものであり、まちがっても天災などではない。そのような社会システムは人工的に構築されたものであるから、決して戦争が起きないように、人為的に再構築が可能である。それに向かって、我々はたゆみない努力を続けねばならない。
 こう考えると、別に何も問題があるようには思えない。当たり前のふつうの「正しい」考えにも思える。しかし、どうしてわたしは加藤周一に、飲み込みがたさを感じてしまうのか。というか、何かの「転倒」を感じてしまう、のか。
 加藤周一さんは、戦争が避けられるなら、何でもよい。資本主義でも社会主義でもよい。東洋でも西洋でもいい。東洋にだってすばらしいところ、偉大なところはたくさんある。しかし、東洋は実質的に非論理的社会であり、野蛮である。戦争の回避には、西欧的な科学的ロジックの思考が必要だから、東洋的な非合理性は、現実的には、捨てられなければならない。抽象的論理化という意味での世界の「西洋化」は避けられないものである。
 加藤さんは「分析哲学」に多大な影響を受けたと、かつて読んだ覚えがある。これはいま流行っているところの分析哲学というよりは、いわゆる前期ウィトゲンシュタインを指すものであろう。前期ウィトゲンシュタインは、わたしのいい加減な理解では、世界をモノの集積と見るのではなく、論理命題の集積と見るものである。これはまさに西洋哲学のある意味究極であり、そしてわたしが「世界の(精神的)貧困化」をもたらす、最たる思想と考えているものだ。
 わたしは20世紀の大きな戦争をもたらしたものが、東洋的非合理性であったか、疑問に思わないでもない。日本が非合理的な野蛮にまどろんでいたとされる徳川時代、日本は300年間の平和を享受していた。日本は明治になって否応なく文明化させられ、西洋の植民地主義を中途半端に学んで、それを愚かにも実践し、アジアに迷惑をかけた上で西洋文明に敗北し、アメリカの属国となった。そして現代においてもっとも合理的な民主国家であるアメリカが、もっとも戦争を気軽にやっている国であるのは、誰の目にも明らかである。
 

いたいた。老母が教えてくれた。さて、ヌマガエルなのか、ツチガエルなのかがわからない。背中の突起が小さいようだから、ヌマガエルっぽい。ひさしぶりにカエル、見たぞ。
 
スーパー。
 
いまだに「加藤周一問題」のまわりをぐるぐる廻ってつらつらと考え続けている。結局、あの日本の愚かな戦争には、「未開社会」が西洋的な合理社会と出会い、崩壊していく際の矛盾が典型的な形で出ている、ということだ。そこで加藤周一は、「未開社会」ではなく、きっぱりと西洋的な合理社会を選択した。そういうことなのだと思う。
 日本の体験は、いま他のアジア諸国や中東、アフリカ諸国で繰り返されている。ロシアや中国といった大国だって、そこから逃れられてはいない。いずれも、伝統的な「未開社会」は崩壊させられ、そこに否も応もなく矛盾的な暴力が噴出している。いずれ世界は、現在日本が経験しているように、すべてが合理化する方向へ進むだろう。つまり、加藤周一は「正しかった」。わたしのようなどうでもいい人間は、合理性に反対するよくあるロマン的な非合理主義者、あるいは反知性主義者と見做されてゴミ箱に捨てられるだけのことであろう。陳腐なルソー主義者といっても、いいかも知れない。
 一種の非合理主義を担っていた西洋の「芸術」も、もはやその役割を終えて「無害なアート化」した。非合理主義や反知性主義では、ダメなのだ。
 おもしろいのは、アメリカのような合理社会の頂点に、非合理的な暴力が噴出し始めていることだ。かしこい人たちは、ポストモダン思想が悪かったなどといっている。世界を真理命題で埋め尽くせば、何もかもがうまくいく、と。
 
はー。わたしは自分ごときがムダに考えたって仕方ないという真実から目をそらすことができるようになってきたんだけど、それでもこんなことを考えていると徒労感ハンパないな。自分のやっていることなど、どうせ何の価値もないんだから、誰からも相手にされないってのは当たり前だよね、って思わないとやっていられない。何の価値も意味もないし、もちろん後世に残ることもない。それで別にいいんだ。ただ、ほんの少しの人がここを偶然見てくれるときもあるから、そのときだけ、それのみのコミュニケーションが成立したような、そんな無意味な錯覚を楽しんだりしている。
 


 
吉本隆明全集28 1994-1997』を読みながら吉本さんが超都市化する東京を、小さなカメラをもってひとり歩き廻っている姿が彷彿とされて、以前から読み返そうと思っていた『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著、2014)を再読し始める。初読時は、おそらく何もわからなかったにちがいない。なるほど、中沢さんのナビゲーションを参考にしながら、これまでとはまったくちがうパースペクティブが広がってくる。わたしは思うが、吉本さんが晩年におこなった、高度資本主義に対する考察は、いまだによく読み解かれていない。現在においても孤独に放置されている。
 
夜。
オカタケの「ふくらむ読書」【27】炭焼日記|春陽堂書店
オカタケの「ふくらむ読書」【28】炭焼日記2|春陽堂書店
オカタケさんも東京をよく歩いておられる。わたしは最近、散歩していないな。
 
「侵攻初期以来の圧力」、ロシアの越境攻撃続くハルキウ BBC国際編集長が報告(BBC) - YouTube
ラファの難民キャンプで攻撃続く、人々は行くあてもなく(BBC) - YouTube
 
『黒岩メダカに私の可愛いが通じない』を読み返す。やっぱり結構おもしろいな。展開と共に、モナちゃん性格変わりすぎだろう。相手役の黒岩メダカが中身がなくて全然魅力的でないのに対し、女の子たちは誰もいきいきと描かれているな。