京セラ美術館の「村上隆 もののけ 京都」展、「キュビスム展―美の革命」、京都国立近代美術館の「倉俣史朗のデザイン―記憶のなかの小宇宙」展、など

在来線で京都へ行ってきました。いちおう美術展へというのが名目ですが、とにかくひとりで「乗り鉄」してこようかなと。最近、在来線にのんびり乗っていないのでね。
 
家を朝八時すぎに出て、JR岐阜駅近くのコインパーキングに車を置いておきます。


JR岐阜駅。予定より早い、08:54岐阜駅発の列車に乗り、大垣と米原で乗り換えます。ずっと、ぼーっと車窓風景を眺めたり、うとうとしたりしていました。二時間こうしていると、精神が変容してくる(大げさ)。ただ、前も思ったのですが、列車の窓ガラスがあんまりきれいでなくて、残念ですね。鉄道会社は、車窓風景を眺める人がいるとは思わないのかな。
 
京都10:43着。


JR京都駅。目指すは、平安神宮近くの、京都市京セラ美術館です。バスで行こうかなと思っていたのですが、バスターミナルの長い行列を見て、これはやめようと。地下鉄で四条あたりまで行こうかと、駅Wi-Fi を使って iPad mini でネット検索、そうか、地下鉄で東西線に乗り換え、東山駅で降りればいいんだ。

地下鉄京都駅。東山駅までは、乗り換えを含めてもすぐですね。

地下鉄東山駅から徒歩15分くらいで、京都市京セラ美術館です。上はメインエントランス。

村上隆 もののけ 京都」展です。チケットは一般2200円。東京以外では、村上隆の大回顧展は初めてなのではないか。村上隆は、ちょっと美術通みたいな人からは、ああ、村上隆ね、ボクはあんまり趣味じゃないんで、みたいな扱いを受けている人なので、わたしとしてはかなり楽しみにしてやってきました。たぶん、日本の現代アーティストでは、世界でいちばん作品が高値で取引されている人だと思います。
 以下、いくつか撮影したものをどうぞ。






会場はめちゃめちゃ混んでいるということもなく、適度に人がいていい感じでした。若い人がやっぱり多いし、意外と女性が多かったですね。アニメ絵のエロスを強調したような尖った作品は少ないかなと感じましたが、まあご覧のとおりです。なお、村上隆はいまでは個人の絵描きというよりは、工房としての制作集団と考えてよいのではないのかと。村上隆本人は、プロデューサーですね。
 
村上隆を楽しんだあと、次は同じ京セラ美術館でやっている、「キュビスム展―美の革命」を観ました。一般2100円。パリのポンピドゥー・センターのコレクションを中心に、全部で130点ほどが来ているという、大規模展覧会です。特にジョルジュ・ブラックが大量に観られるのがすごい。また、ほぼすべてが撮影可なので、テキトーに撮ってきました。いちいち解説しませんが、どうぞ。








美術館内部。

どうでしょうか、雰囲気くらいは伝わったかな?
 村上隆のあとにキュビスムを観て、よかったのかどうかわからないが、非常におもしろかったのは確かです。何より、両者の共通点がほぼまったくといっていいほど、ない。キュビスムは、セザンヌから始まって、ピカソ&ブラックと、西洋絵画の本流であり、アフリカ彫刻などから影響を受けつつも、本質的に理知的なものです。一方で、アジア的、いや、アニメなどの日本的「幼稚」の中から、それを一種洗練させた、いってみればきわめて「浅はかな」村上隆キュビスムを通過した、モダニズムの行き詰まった「西洋美術」の視点から、村上隆が新鮮な驚きをもって受け取られたのが、よくわかります。もっともそれは、(特に知的な)日本人からすると、受け入れがたいものであるのも、ある意味必然なのです。だから、浅田さんなどは、「底の浅い」村上隆を、まったく評価しない。これからも、村上隆は日本では、「歪んだ」評価しか、されないことは確かですが、それは西洋からの文脈を、そのまま(知的な)日本人が受け入れるわけにはいかないからです。では、ふつうにアニメなどを楽しんで観る我々のような日本人は、村上隆をどう受け取るのか?

京セラ美術館を出たら、晴れて暑いくらいになってきました。
 
京セラ美術館のすぐ前にある、京都国立近代美術館にもいってきました。

倉俣史朗のデザイン―記憶のなかの小宇宙」展へ。一般1700円。

倉俣史朗というのは、とってもえらいデザイナーらしいですが、わたしはまったく知りません。展覧会は照明を落とし、暗い中の間接照明でというのが変わっていました。撮影はほぼ不可。わたしごときが特にいうことはありません。
 4Fのコレクション・ギャラリーへ。

ギャラリー前の空間から、平安神宮の大鳥居と京セラ美術館。

靉嘔(1931-、現在93歳だそう)の作品。コレクション・ギャラリーはなかなかおもしろかったです。特に横尾忠則のポスターがまとめてあって、非常にすばらしかった。今日観た他の何よりもすごかった。結局、キュビスムも理性なんだよね、横尾のアジア土着的なエロスをもった、本能の深さ(?)みたいなのに、到底敵わない。ただ、横尾はもしかしたら、日本人にしかわからないのかも知れないけれど。でも、芸術もアートも超えた、異様な深さがあります。それは、死の領域に近い。
 すごすぎて、横尾は撮影しませんでした。まあ、検索すればいくらでも観られると思います。

これも 4Fギャラリー前の空間から、コレクション・ギャラリーを観たあとに。奥は東山です。
 
さて、昼飯をどうするかと考えて、ちょっと京都の繁華街をひさしぶりに歩いてみるかなと。地下鉄で一駅の、三条京阪で降ります。

三条大橋

三条大橋から、鴨川下流方向を。

三条を歩きます。どこかチェーン店でお昼にしようと思っていたので、河原町三条のラーメン「天下一品」に入る。30年ぶりくらいに「天下一品」で食ったけれど、こんなものだったかなと。昔は、本店とかで随分と感激して食べたように覚えているが、これくらいのラーメンなら岐阜でも食えるかなって感じでした。

四条まで歩く。これは木屋町通で、川は高瀬川

四条河原町。ここから、京都駅までバスに乗りました。

JR京都駅。14:07発米原行、各駅停車に乗る。米原、大垣で乗り換えます。大垣あたり、茫漠とだだっ広い濃尾平野が広がる。

16:23岐阜着。JR岐阜駅、加納口です。さて、田舎ですね、田舎でどう、この(都会すら)行き詰まった時代で、生きるか。ってまあ、我々ふつうの人間は、文化的枯渇とか、あんまり関係ないか。でも、そうでもないんだよなあ。あと、インターネット。わたしは部屋にいると常時ネット接続しているのだが、これがねえ。意識してネットから離れることも必要になる、って当たり前だけれど。とりあえず、また「乗り鉄」して、どこかへ行こう。
 

 
夜。
どうでもいいけれど、京都みたいな大都市を歩いていると、「萌え絵」やアニメ絵みたいなのがもうふつうに街に溶け込んでいて、何だかいまだなあって思う。京都の地下鉄の駅構内に「地下鉄に乗るっ」のポスターが貼られていて、撮ろうかなと一瞬思ったが、いいおっさんだから恥ずかしくてムリだった笑。わたしなんか、まだ羞恥心が抜け切らないんだな。他にも街にもバスの中などにも、ふつうに「萌え絵」がある。これが、村上隆みたいに美術館に入ると、ほんと公共の場で下半身をむき出しにしている感覚とでもいうか。日本人ながら、日本ナゾだなと思う。
 しかし、キュビスム展でも、多くの西洋の画家がそれぞれ個性的な作品を描いたり作ったりしているわけだが、その「個性」ってのが、じつに限界があるんだよねー。武満さんが晩年に、もう西洋的な「個性」を目指すのはむずかしい、これからは匿名性が重要になってくるだろう、というようなことを書いておられたけれど、それをますます痛感する。結局、知的自我が根底にある「個性」は、一定以上「深い」ところまでいけずに、留まってしまう。武満さんのいう「匿名性」は、そのような隘路の存在を指摘したというべきだろう。実際、キュビスムにあらわれたすばらしい「個性」でも、近代(モダン)を抜けない。どうせ個性なら、横尾忠則くらいまでいかないとダメだし、村上隆も、モダニズムから見ればやはりものすごく「個性的」なのだ。いまや、その元ネタの日本のアニメなどが、欧米の大学で分析・評価され、「個性」として普遍的カノンに組み込まれようとしているが、これは日本人には違和感や抵抗感が強い。