ニルス・レンスホルトを聴いてみる / 詐欺の時代

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第二番 op.36 で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。■シューマン交響曲第一番 op.38 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。聴き始めてすぐ、カラヤンさん、シューマンはそんなに巨大じゃないんですよ、っていいたくなった。遅く大きすぎて鈍重、粘っこいシューマンであり、わたしはもっと軽快でスピーディ、小さなシューマンの方が好きである。あたかも、大きすぎて動きにくい象さんでもあるかのよう。でも、これはシューマンではない、というのも躊躇われる、だって、この演奏から何も得られないどころか、その反対だからだ。これは(皮肉ではなく)シューマンを裏側から照射しており、その「本質」を教えてくれるところがあるのだ。敢て、これもまたシューマンだ、といいたい。
 
曇。
■ニルス・レンスホルト(1978-)の「感情と経験の保管庫 第一巻 - 鳥たち」で、ピアノはレニオ・リアツー(NML)。まったく知らない現代音楽作曲家であるが、あるブログで強く勧められていたので、聴いてみた。しかし、NML で検索してみると、どれも曲が長い。これも 40分を超える長さで、正直いって現代音楽でこの長さは、たいていめっちゃしんどいのである。
 恐る恐る聴いてみたのだが、じつに、これが聴きやすいのだ。断片的であり、また現代音楽の「病的な」ところが感じられなくて、たくさんの氷柱(つらら)に乱反射する日光の燦めきというか、また「鳥たち」の囀りといってもいいが、そしてメシアンの「鳥たち」とちがうのは、その聴きやすさである。42分間、楽に聴けた、けれども、退屈ではない、独創的なのだ。たいそう感心した。
 ただ、懸念があるとすれば、あまりにも清潔で、(わたしには)おしゃれすぎるかも知れない。土くささがまったくないのだ。悪い意味で、ある種のおしゃれなモダンアートに親和性があり、疲れた都会人の「癒し」として、消費されてしまうようなところがあるのは否めない。都心のセレブでおしゃれなタワマンの、超モダンな一室の BGM としていかにも合いそう、とか。
 まあしかし、それでもいいではないかと思う。独創的で聴きやすいんだから。ニルス・レンスホルトはデンマークの作曲家で、ラスムッセンとセアンセンに師事。サウンド・アーティストでもあるという。

 

 
スーパー。半田めんに添える天ぷら(えび天、イカ天)を買わなかったので、安く済んだ。あれが結構高いんだよなあ。
 
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものミックストースト+ブレンドコーヒー1160円。おなかいっぱい。
 
夕方まで Ruby で遊んだり、Qiita をチェックしたり、YouTube をだらだら観たりなどして、怠惰に過ごす。つい民放のニュース動画をいろいろ観て、フェイスブックでの投資詐欺広告(LINE に誘導し、ホリエモンなど、有名人の声を偽造した音声ファイルを聞かせたりして、騙すのである)の話だとか、ネット・サブスク詐欺(いまは服のレンタルのサブスクとか、ホテルに安く泊るサブスクだとか、いろんなのがあるのだな)についてだとか、まあ詳しくなったのだが、こんなこと詳しくなってどうするって感じでもあり、普段こういうのはあまり観ないようにしているのだが……我ながら現代人の罠にハマっているぞ。
 それにしても、わたしはよく知らないのではあるが、現代において詐欺は(特に国際通信網やインターネットと結びついて)一大産業になっている感があるな。現代の資本主義が、ありもしないところに欲望を「捏造」し続けていくという点で、そもそも詐欺みたいなものだから、それと親和性が高いのである。
 高度資本主義と広告的欲望。ラカンじゃないが、欲望とは他者の欲望である、まさにそれそのままじゃないか。ってまあ、そんなこと、とうに言われ古しているけれどね。
 いまは詐欺が「最先端」なのかも知れないな。国家ぐるみで詐欺まがいのこと(あるいは詐欺そのもの)をやっている国もあるし。日本は、そうじゃないといえるか?
 ネトウヨじゃないけれど、思想も詐欺みたいになっている時代だよ、いまは。新書本なんか、何らかの点で「詐欺」を含まないそれ(特に哲学、社会科学関係)なんか、めったにないだろう。それがいけないというわけじゃない、というか、それが時代に求められているのだから、仕方がないのだろうが。いや、わたしごときが、いいすぎ?
 
#
 
夜。
How to hug girls properly - YouTube
ワロタ。高評価が2万を超えてるんですけど。コメント欄もクッソ笑える、海外ニキたち。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』を観返しながら寝落ちする。