お互いの(直接的)共感可能性を失った時代 / 「僕は友達が少ない」(2011)を観る

曇。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトジート長調 K.574、ピアノ・ソナタ第十六番 K.545、アダージョ 変ホ長調(K.516 から、オラフソン編)、ガルッピのピアノ・ソナタ ハ短調〜第一楽章、モーツァルトのピアノ・ソナタ第十四番 K.457、アダージョ ロ短調 K.540、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(リスト編)で、ピアノはヴィキングル・オラフソン(NMLCD)。
 承前。初心者向けの「やさしいソナタ」といわれるピアノ・ソナタ第十六番がじつに愛らしい。また、弦楽五重奏曲第四番 K.516 のアダージョのピアノ編曲は、ヴィキングルがこの音楽を愛していることが伝わってくる。ピアノ・ソナタ第十四番は王道的演奏で(緩徐楽章の、短調に転調する中間部の美しさ!)、わたしの(恥ずかしながら)あまり知らない K.540 は、曲の魅力がよくわかった。で、最後はリスト編曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」なんてのをもってきながら、違和感なくまとめてしまう。まったくすばらしい。
 ヴィキングル・オラフソンは時に「アイスランドグレン・グールド」なんていわれたりするが、グールドとは随分とちがった演奏家だと思う。グールドはよくも悪くもその「異常性」が直ちに明らかなのに対し、ヴィキングルはちょっと聴いただけではむしろ平凡のようでもあり、つまりはわたしたちの「日常」部分で勝負している。そこが、まずはちがうところだ。
 
 
スーパー。いまにも雨が降りそう。ポイント3000円分、現金で還ってきた。
 
昼。
世界史ではいちおう、古代、中世、近代・現代、というような歴史的区分をする。いまや、その「現代(モダン)」が終わり、次の時代に入ったことが明確になってきた。それは既に聡い人たちによって「ポスト・モダン」という名が付けられているが、それではあんまりだから、何百年か経ったあと、(それでも人類が生き延びていれば)別の名が付けられることであろう。
 この時代の特徴はいろいろあるが、ひとつは「人文学」が死んだ時代であると特徴づけることもできるだろう。すなわち、人間が「メディア」(=記号、情報)という中間的媒介(medium)なしの、お互いの(直接的)共感可能性を失った時代、というものである。記号や情報の媒介は、直接的な共感可能性を殺す。それは、人間を非常に孤独な存在にするだろう。そして、高度資本主義による、精神、文化面の世界的な画一化と、貧困化。感情の幼稚化と記号的理性の独裁。人間精神からの「自然」の消滅と全面的都市化。
 ってのは、これまで散々書いてきたことだけれど。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ハニーディップブレンドコーヒー451円。
 岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)を読み始める。副題「人類学の立場から」。生きた仏教とすっかり縁のなくなってしまった日本人は、本書を読むといいよ。干からびた仏教学ばかりが進む現代日本。それにしても、わたしは既に道元の死んだ歳を超えているのだな。凡人は困ったものである。
 帰り、金属団地脇の街路樹のハナミズキが、きれいに咲いていた。いまにも降りそうな天気は何とか降らないでいる。
 

 
夜。
僕は友達が少ない』(2011)第12話(最終話)まで観る。やー、特にこれといったドラマはなく、最初はペースがつかめなかったが、バカバカしい日常系に近いとわかるとおもしろくなったな。ラブコメ成分はそこまで強くないが、しかし、女の子たち(+男の娘ひとり笑)が皆んなかわいいねー。とりわけ二人のメインヒロイン、いつもいがみあっている(でもほんとは仲がいい)夜空と星奈が甲乙つけがたいかわいさ。ツンデレだし笑。主人公の小鷹は、最初はよくわからなかったけれど、次第に好感がもてるようになった。こういう作品は、いまはちょっとないね。2期も観る。

 
僕は友達が少ない NEXT』(2013)第4話まで観る。2期。おもしろい。1期よりラブコメ成分が強いな、いい感じ。って、俺バカか笑。

文明と反文明の中間点と日本

深夜起床。
まだ外が真っ暗な中、PC の画面を眺めてぼーっとする。
 
NML で音楽を聴く。■シェーンベルクの「浄められた夜」 op.4 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット、ヴィオラはウラディミール・ブカチ、チェロはペトルプラウセ(NML)。シェーンベルクよ、この貧しい時代を切り裂け!

■ブルーノ・マントヴァーニの「パウル・クレーのための五つの小品」で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。
 
日本が文明的に先進国から転げ落ちつつあるというのが徐々に我々に明らかになってきているが、それがもし日本人の無意識が志向しているところだとすると、興味深いと思う。いまの先端的文明(中国を始めとするアジア、また中東、アフリカの各最先端都市を見よ)の高度な超都市化は、あまりにも行き過ぎているという、それはバランス感覚なのか。もしかしたら、日本人は「文明と反文明の中間点」を無意識的に見出そうとしているのかも知れないが、そうだとすれば、それはまだ世界史において何者も試みたことのない、極めて重要な企てである。もっともそれは、あまりにも日本人を買いかぶりすぎであり、たんに最先端文明に追いつこうとして、能力的に不可能である、というだけのことかも知れないのだけれど。(6:55)
 
タルコフスキーは1972年に『惑星ソラリス』において東京を「未来都市」として撮ったが、それを思うと、ヴィム・ヴェンダースが2023年に『PERFECT DAYS』で東京を「禅的」に描いたのが、意義あることに思えてくるではないか。って、わたしのこじつけだけどね笑。
 

 
薄曇り。
モーツァルト弦楽四重奏曲第十七番 K.458 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。クイケン四重奏団のこのハイドン・セットは、わたしに個人的にとても可能性がある。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はクイケン四重奏団NML)。以前だったらこの演奏が凄いってことが、わたしにわかったか、疑問だな。クイケン四重奏団って、とんでもないの、見つけちゃったな。NML にあまりないのだけが残念。モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。クリスティアン・ツァハリアスはよく知らない、と思ったら、過去にけっこう聴いているらしい。わからないもんだな。マリー=ルイーズ・ヒンリクスについては何も知らない。

■上のツァハリアスとヒンリクスの K.448 をもう一度聴く(NML)。■ツァハリアスのピアノにデイヴィッド・ジンマンの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第二十番 K.466 の冒頭を聴いてみたが、ピアノも指揮も平凡というしかない(NML)。続けて聴く気がせず。
 
 
昼飯に焼きそばを作る。
 
YouTube でセルゲイ・ババヤンのスカルラッティの続きを聴く。悪くない。K.491 っていい曲だな。
スカルラッティソナタ K.491 をアンジェラ・ヒューイットのピアノで聴く(NML)。ヒューイットは音がちょっと汚いな。よさそうな演奏を NML でつまみ食いしながら探してみたが、思ったようなのがなかった。やっぱりババヤンのがいいかな。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 斎藤幸平さんの『マルクス解体』の続きを読む。コーヒーを二度おかわりして、がんばって第三章から第五章まで、第二部までを読了。承前。わたしの知識と能力の足りてないのは明らかで、それでもと敢ていうが、じつにおもしろい。以下、わたしごときの貧しい感想をちょっと書いておこう。
 恥をさらすが、前にも書いたとおり、勉強不足で、「社会」という語のデノテーション(語の指している対象)がわからない。しかし本書を読んでいて、「自然と社会」が二項対立概念として扱われているところで、なるほどと思った。世界Wの中に自然Nは包含される(N⊂W)が、社会Sは、Nの補集合(S=W-N)として理解できる、ということである。そして敢ていえば、社会Sは「人間に関する領域」であり、そこから自然Nは「非人間的」であるというコノテーションをもつ。
 と、とりあえず理解したのであるが、第三章でルカーチが丁寧に読み込まれる中で、「自然と社会」という二項対立をもつルカーチへの批判(それはマルクスへの批判でもある)が再批判される。例えばラトゥールなどは一元論者として「自然と社会」をぴったり重ね合わせ、そこからルカーチの二元論を批判できるが、著者は、そのような二元論はもともと世界がそのように二元論的であるゆえに、「方法論的二元論」として敢て保持されねばならないというのだ。
 これはわたしには非常におもしろかった。確かに例えば現代の主流経済学では自然は「外部性」として領域の外へ放逐されているが、一元論ではそのような主流経済学(それは資本主義を当然ながら肯定する)を批判できない。いや、わたし自身ラトゥールに似た一元論的なところがあるが、それでは「肯定」しか生まれず、「社会批判」(資本主義批判)が可能でなくなるのだ。
 以上の議論は第四章、第五章でさらに深められている。
 とりあえずここまでにしておこう。本書はわたしの知識と能力を超えているが、著者のマルクスの読みを(よたよたと)たどると、マルクス(わたしは文庫本でそれなりに目を通したが、ほとんど何も理解しなかった)が非常によく世界が見えていたことを痛感する。いまさらだが、さすがに「1000年に一人の思想家」だと実感するのだ。また、それを読む著者も、じつに骨太の思想家だとわかる。最近の若い人たちの中で、よく見えている人だなって印象を受けるのである。
 
 
夜、深夜までかけていちおうやれるところまで貫く。

常に求められている的確な応えを返す子供たち

未明起床。
晴。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。よい。■ブラームスクラリネット五重奏曲 op.115 で、クラリネットはシア・キング、ガブリエリ弦楽四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第一番 op.21 で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。ちょっと聴いては大したことないようで、じつはすごいという大指揮者の典型だな、マッケラスは。ピリオド奏法による現代的なキビキビした、フレッシュきわまりない音楽だが、これを創り出しているのが80歳のおじいさんだとは! まったく不思議なこともあるものだ。それにしてもベートーヴェン、仮にこの交響曲第一番だけを残して二十代で死んだとしても、最高クラスの作曲家として歴史に残ったであろう、この曲は、そんな傑作だ。若い頃から創造力マックスだな、この人は。■ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)のピアノ三重奏曲 op.45 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。
 
ショーソンの「詩曲」 op.25 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン 、指揮はミッコ・フランク、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団NML)。一応聴いた。ハーンのヴァイオリンはキレもあるし、音も美しいんだが…。指揮はつまらない。

プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第一番 op.19、エイノユハニ・ラウタヴァーラ(1928-2016)の二つのセレナードで、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン 、指揮はミッコ・フランク、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団NML)。プロコフィエフショーソンよりもずっとハーンに合っている。特に技巧の冴えが気持ちいい。オケは色彩を感じるが、指揮はまったくの添え物。
 
 
昼からネッツトヨタで半年点検。特に悪いところはなかった。次回、バッテリーとオイルの交換かな。
 点検に一時間かかるので、そのあいだ無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫1995)を読む。戦後のいわゆる民主主義教育の実践(1951年刊)として有名なもので、要するに田舎の中学生の作文集である。冒頭の(有名らしい)「母の死とその後」も感動的ではあるが、わたしは詩(といっていいのか)もいいなと思った。「しょんべんたれにおきたら/つばめが鳴いて ちゅうっとはいってきた」で始まる「朝」(p.72)、「うさぎをころすとき/こがたなで こつんと一つくらすけると(なぐりつけると)/「きい きい」となきました/そして/うさぎのけっつ(しり)から/こがたなをさしました/それから/そりそりとむきました」で始まる「うさぎ」(p.91)など、読んでハッとした。「すずめの巣」(p.98-100)という作文もいい。
 確かにここには、まだ知識や技術を得ることで凡庸化していない、生(き)のままの素朴で独創的な(?)表現が見られるといっていいかも知れない。ある種の芸術家などは、知識や技術で心が「汚染」されたあとにわざわざ、ここに見られる子どもの作文のような、原初的なシンプルで力強い表現を求めるのだろう。それができる人間が、敢ていうなら「天才」なのかも。凡人は、大人になると、こういうものを確かに失う。
 しかし、正直いって、この本のすべての作文、詩がおもしろいわけではない。やはり、おもしろいものは本書の前の方に集めてあるのかなと思う。
 なお、この本もオカタケさんの文章を読んで読みたくなったものであることを、付記しておこう。
オカタケの「ふくらむ読書」【20】山びこ学校|春陽堂書店
オカタケの「ふくらむ読書」【21】山びこ学校|春陽堂書店
飽きて途中で読み止める。図書館本。
ひどく理屈っぽい文章もあるが、文化化されたわたしの悪癖として、そういうのはつまらない。と、ちょっと立ち止まる。本書のような実践で教師たちが目指したのは、子供が「自分の力で考える」ということだろうか。とすれば、理屈っぽい中学生の文章の方を、高く評価すべき、ということになりそうである。素朴で感動的な文章は、余計なものであるかも知れない。
 それでゆくりなくも思い出すのが、いまの子供たちである。テレビでマイクを向けられる子供たちが、揃いも揃って、みな自分がどういう発言を求められているかよく知っており、じつに立派なことばかりいうのを、わたしは日々テレビ画面の向こうに見る。いま「考える」といわれているのは、的確な応えを返すことに他ならないと、知り抜いているのだ。あれは何だろうと、思う。素朴さなど、かけらも見当たらない、じつにかしこい子供たちである。
 

 
四方田犬彦『映画の領分』(2020)を読み始める。

自分のまわりの世界とコンテンツ

晴。
 
何のために生きるかと問われて、もののわかった人が、自分のまわりの世界を感じるため、と応える仕方がひとつあるが、これを実行することは田舎に比べ、周りを記号で覆われ、リアルを感じにくくなっている都会では、もしかしたらよりむずかしいかも知れない。いやでも、田舎だったら、簡単というわけではない、田舎だって、周り(風景)がちっとも見えていない人がほとんどだと思う。田舎でも、いまでは人工物が主張し、我々は記号だけを感じて、精神の貧しい中で自足することになっている。(もっとも、人工物だからリアルでないというわけではない。)我々はいかに記号のぶ厚い層を破壊して、裸の現実を感じることができるか、ということだ。文明の病。
 
てか、コンテンツに意識を奪われすぎて、「自分のまわりの世界」どころじゃないよね。コンテンツは解体されなければならない。ま、享受したコンテンツは、理想的には、全部忘れてしまうことですよ。むずかしいけれどね。
 
テレビなどでヨーロッパの風景を見ると、それが管理されたものであることを強く感じる。きれいだが、あまりにパースペクティブが画一的だ。外部へ出られず、閉じている感じ。息苦しくないだろうかと思ってしまう。対して日本、特にわたしの住んでいる(少し郊外化した)田舎などは、風景が乱雑で無秩序、ノイジーである。ひどいものだといえばそうだが、そこに人の管理の意思が入り込んでいないという意味で、気楽ではある。
 

 
昼。
部屋の前の電線に留まって、モズ君が尾をピコピコ上下させている。
 
イオンモール各務原の駐車場に車を駐めて、一時間散歩。
以下、イオンモールの外をぐるっと半周する。





以下、金属団地内を歩く。




以下、小さな川沿いに。






リナリア・マロッカナ。






暖かい。航空自衛隊岐阜基地から飛び立った無人偵察機や、戦闘機が、頭上を飛ぶ。
 
 
夜。
少女終末旅行』(2017)第1話を観る。どうやら人類が戦争でほぼ滅んだあとの世界を、少女二人が戦車(?)に乗って旅していく、という話らしい。キャラデザは四コママンガのようとでもいうか、とってもゆるい。マイナーな独特のアニメって感じ。
 
早寝。

「反出生主義」に対する反論について / 森村進『正義とは何か』

曇。
 
反出生主義という人類滅亡のミーム - シロクマの屑籠
滅びていいならSDGsなんて要らないじゃない - 狐の王国
黄金頭さんの「反出生主義」に対する反論を読んだ。簡単にいうと、反出生主義は亡びの思想である、倫理的に受け入れられない、というものだが、これはまあなんというか、世間的に常識的な、健全な反論であって、反出生主義者にしてみれば、何をいまさらではあるまいか。わたしは反出生主義者ではまったくないが、彼ら彼女らの「気持ち」は、もっと個人的なそれである、といいたい。つまり、生きているのが苦しくてならない、こんなことなら、生まれてくることなど、ない方がよかったのではないか、というものだ。
 そして、わたしにこれは、かなりよくわかるのである。でも、生きるのが苦しい(一切皆苦)なんてのは当たり前で、多くの人はそれでもふつうに(?)生きているし、わたしもそれは同じだ。わたしは、反出生主義は個人的な「感慨」を論理化してしまったもので、そして「生きるのが苦しい」ということがかなり普遍的であるがゆえに、ロジックとして強力になってしまっている、と思っている。反出生主義が思想として、「論破」のためのロジックであるというのは、否めない、あまりにも出発点の素朴な「感慨」から、離れてしまっている。それゆえに、わたしは反出生主義者になれないのである。
 でも、人生楽しいという、成功者に、「反出生主義は亡びの思想である、倫理的に受け入れられない」といわれても、反出生主義者がどうしようもないことは、わかっておくべきだろう。彼ら彼女らには、そんなことはいまさらいわれるまでもないのである。絶望している人間に、お前の絶望はまちがっているといっても、どうしようもないのであるし、それは強者である反‐反出生主義者にとって、必ずしも倫理的な態度ではないであろう。
 
それにしても、その思想の保持者にもある意味で「ネタ」であるような「反出生主義」が、これほどの共感と、またそれを危惧する「強者」のマジレス的反論を引き起こしてしまうほど、猛威を振っているというのは、驚くほどである。生きることのつらさ。
 
これはまたちがう話だが、我々の「生きることのつらさ」は、我々が記号で頭をいっぱいにし、生に無意味な幻影を投影することが、(しっかりした土台を欠いた)ロジカライズとして当然になってしまったことも、関係しているであろう。それを、嫉妬やマウンティングや孤独で幼稚なナルシシズムが、支えている。進歩して誰もが頭のよい時代であるが、感情の幼稚さは昔よりもひどくなっている現代であるように思える。
 

 
雨。スーパー。
 
昼。
雨の中、イオンモール各務原へ。3Fフードコートのミスドで、もっちりフルーツスティック プレーン+ブレンドコーヒー462円。
 岡真理先生の『彼女の「正しい」名前とは何か』の続きにしようか迷ったが、新書本の森村進『正義とは何か』(2024)を読み始める。岡先生を読んでいて、「正義は暴力である」というところに至ったのだが、じゃあ、アカデミズムで正義をどう扱うか、気になることもあって。
 と、自分が気になっていた点は、冒頭の序章にあった。著者はまず「正義」という概念について、「対他性」と「優越性」を指摘する。簡単にいえば、正義とは他人(あるいは共同体)に「〜すべきである」と(言葉による論理で)要請、ないし強要するということだ。こういう考え方はわたしの納得のいくものであり、そこから、無理なくわたしの「正義は暴力である」というテーゼが出てくる。
 しかし、その点はそれ以上詳述されない。読んだのは第六章までで、第一章プラトン、第二章アリストテレス、第三章ホッブズ、第四章ロック、第五章ヒューム、第六章スミスという具合で、各哲学者がそれぞれ何を「正義」と見做すかが記述される。これはこれでおもしろいが、わたしの不勉強と能力不足で、残念ながらむずかしく、しっかりとは理解できなかった。
 わたしの問題意識は、すべての他者に対して尊厳をもって接する、という人文学(ヒューマニティ)の基本が、どうして(社会科学的)「正義」と相性が悪いのか、という点にあるのだが、そこのところは本書のいままで読んだところでは、あまり考えが進まなかった。「正義は暴力である」という発想は、元々そこ(相性の悪さという認識)から来ているし、具体的にはいまのパレスチナ紛争で、「正義」を主張するイスラエルのジェノサイドに対して、我々が無力であることが背景のひとつにある。イスラエル人や我々は、ガザ市民ひとりひとりに対し、尊厳をもって接することができていない。彼ら彼女らは、イスラエル(や国際社会)の「正義」によって、かつてもいまも虫ケラのように殺されていて、我々はそれを止められないでいる。(詳しくは、岡先生の『ガザに地下鉄が走る日』を参照されたい。)
 
森村進『正義とは何か』読了。第七章カント、第八章功利主義、第九章ロールズ。本書の中では第七章カントがいちばんおもしろかった。カントの「正義」論が反論によってボロボロにされているし、その仕方も妥当だと感じるが、ア・プリオリで普遍的な「正義」が存在するというカントのドン・キホーテ的試みがとてもラジカルである。
 いや、本書はわたしにはむずかしかったにせよ、なかなかおもしろかった。で、結局「正義」が何かという説明は、哲学者の数だけあるという、まあ予期されたところに落ち着いたことになる。
 しかし、無知なわたしは、いろいろわかんないことが多いなと思う。例えば「契約主義」。わたしは何か(国家?)と既に「契約」しているのか? いつ、何と、どうやって? 例えば「徳」。(西洋哲学的な意味の)徳ってなんだろう、そのデノテーションがわからない。とかね。バカで不勉強で困るぜ。

こともなし

曇。
 
昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。桜もちっとドーナツ つぼみ+ブレンドコーヒー462円。桜もちっとに誘惑されたのだが、これなかなかうまいじゃないか。
 岡真理先生の『彼女の「正しい」名前とは何か』(新装版2019)を読み始める。副題「第三世界フェミニズムの思想」。フェミニズムを語っていることで本書もむずかしくはあるのだが、著者が「名づけの暴力性」に深く自覚的であるという一点からして、わたしは本書を信用せざるを得ないのである。本書は徹底的にラディカルだ。わたしに理解できた範囲のみで語るが、著者は「フェミニズム」というだけで免罪符にしない、ステレオタイプなある種の「普遍的(=西洋中心的)フェミニズム」に対してはじつに厳しく、辛辣だ。
 例えば、ホスケンの『女子割礼』。著者は「女子割礼」(女性性器手術)を非難することにおいては人後に落ちないが、ホスケンの本においては、女性性器手術を施される第三世界の女性を無力で、無意志な「かわいそうな被害者」として描き、「優れた、進歩した」西洋世界から、第三世界を文化・文明的に遅れた、いわば未開であると無意識に上から見下すという点で、そのフェミニズムが偏見に満ちていることを強く糾弾する。つまりは、第三世界の女性たちを、尊厳をもった、一個の人間であると見做すという当たり前の視点を、欠いたフェミニズムだといっているのだ。
 まことにそのとおりである。やはり著者は厳しい。たぶん、著者からすれば、わたしなどもいろいろ非難を免れまい。わたしは、すべての他者に尊厳をもって接しているか。正直いって、自信がない。世界の狭いわたしだから、知らず知らず、無知と偏見の塊であろうな、と思う。
 
イオンモール内を歩く。未来屋書店は明日からひと月、リニューアルで全面休業だそうだ。何か新書本でも、と思ったが、棚を見てただ気が滅入っただけ。
建物を出たら、雨になっていた。車まで小走りでいく。
 

 
わたしは思うんだが、男ってのはどうしようもなくバカで、下らない想像・空想をし、それを楽しむ生き物なんだってことを、いまの女性は理解した方がいいんだ。いや、かかる男を免罪しろってつもりはないけれど(いまの時代、それは許されない)。ただ、そういう理解をもって、男を糾弾し、軽蔑し、見下すとよいと思う。「男はそういうバカだ」っていう考え方自体が、ステレオタイプジェンダー観に基づいているということに、わたしは充分自覚的で、もう、非難されるしかないこともわかっている。自分は亡びるべき、古くさい昭和の人間だからね。
 さても、新しい時代に適応した、その手のバカな妄想をしないすばらしい男性が、これからのそれであるということは、あり得ると思う。時代は変わるからね。
 
夜。雨。
Daisy Holiday! 細野晴臣 安田成美さん 2024 2 25 風の谷のナウシカ(2024 Ver.)そのレコーディング秘話と・・・。 | YouTube
細野さんを二曲聴けて幸せ…。これ、CD化されるのかな?
 
放射する力を打ち込んで、対称性の高い状態を作る。

オレナ・クシュプラー(Olena Kushpler)という無名ピアニストのヤナーチェクがすばらしい / 岸本佐知子『なんらかの事情』

晴。
昧爽起床。
 
NML で音楽を聴く。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第一集で、ピアノはオレナ・クシュプラー(NMLCD)。すばらしいヤナーチェク。現時点でのわたしの理想の音楽にいちばん近いんじゃないか、というくらい驚いた。これからも、このアルバムは何度も聴く予感。
 続けて「ラ・ストラナの宮殿」「無題」「コン・モート」「モデラート」「ロンド」「思い出に」「わたしのオルガへ」「子守歌」「思い出」「主キリストはお生まれになった」、「カミラ・シュテスロヴァのアルバムの小品」からの抜粋、を聴く。ヤナーチェクピアノ曲の中ではたぶんどれもマイナーなもの、短い曲ばかりで気楽に聴ける。これでアルバム全体(NML)を聴き終えた。
 
 
昼飯にハヤシライスを作る。新聞を読んだりテレビで国際報道番組や昼のニュースを見たりしていると、ついため息が出るな。国民は何もかも後ろ向きで、古くさい爺さんたちが東京で何十年も変わらない政治をし、活気というものがどこにもない国、ってイメージ。まあ、わたしのイメージに過ぎないんで、実際は知らんが。しかし、我々バブル世代って、何だ。クソじゃないのか。実力がなくって、埋もれ切っている。
 ネットを見るともっと絶望的な気分になるので、新聞やテレビの方が、まだマシなのかも知れないが。ははは。俺も大概終わってるよね。
 じゃあ、高度資本主義的先端に立てばいいのかっていうと、そんなわけでないことはわかり切っているから、矛盾しているけれどね。発展にせよ衰退にせよ現状維持にせよ、資本主義的価値観を解体(否定ではない。否定だと、結局資本主義の問題圏から出られない)しなければならないことは、わたしには明白だ。それはどちらかというと、経済的繁栄とは反対の方向に、どうしてもなってしまうよな、たぶん。そこはとってもむずかしい問題。
 まあしかし、わたしなんかは田舎で、貧しく地味に暮らしてればいいんだよ。
 
黄金頭さんがシロクマ先生に応答していたが、ロジックとしては反出生主義、最強なんだよね。生は一切苦だから、人間はそもそも生まれてこない方がよい、というやつ。まあ、わたしはバカなので、反出生主義もどうでもいいんだが、とにかくロジックとしては(いまのところ)最強。黄金頭さんはブログの方で、「おれは人類が滅ぶ方に賭けているのだが」といっているが、それも賭けるどころか、いつか人類が亡びるのは100%まちがいないし。
 人類の一切の文明も文化も、かならず消滅する。諸行は無常である。だからこそ、というのもへんだが、わたしはふつうに(?)、欲望や虚栄心や言葉になるべく支配されず、地味に人間らしく生きていければいいと素朴に思っているだけである。凡人とは、そういうものではなかろうか?
 

 
金柑を食う。

白いクリスマスローズ。花が下を向いてしまうな。
 
図書館から借りてきた、岸本佐知子『なんらかの事情』(2012)読了。エッセイ集だが、フィクションもあり、どこからフィクションなのかわからないものもあり、もしかしたらすべてフィクションなのかも知れない。

 
夜。
神のみぞ知るセカイ』原作第19巻、アニメだと3期「女神篇」の終わりまで読む。結末を知っているのに、やっぱり泣けた。世界の運命とか、何の関係もないちっぽけな恋。悲劇だな。
この後の展開は知らないから、楽しみ。