こともなし

晴。青い空に薄い雲のヴェールがかかっている。
 
午前中、ずっとごろごろうとうとし続ける。
 
昼。
いまの日本人の政治的無関心とその帰結。知識人や学者でも、あるいは政治家でも、まともな(?)意味で政治に関心をもっている人がどれだけいるか。というのは、日本におけるもっとも重要な政治的イシューは、政治への無関心だから、日本人のその政治への無関心に関心がない人間は、現代日本において政治に関心があるとはいえないからである。
 
わたしは必ずしも「正義 justice」を求めない。例えば、あらゆる戦争は正義によって行われる。正義の唱えられない戦争はないのである。(いっておくが、「正義はよくない」というわけではないよ。)
 しかし、「フェア」であるという感覚。例えば中井久夫さんは、「正義」を主張することはなかったが、「フェア」であることは重視しておられたように思う。もっとも、中井さんらしい、モデストなやり方ではあったが。中井さんは、いまの日本人に「フェア」の感覚がなくなった、というような言い方は決してせず、かつて、例えば日清戦争において、日本海軍はフェアネスを重視した、また、それがどう当時のヨーロッパに見えたか、とか、そういう語り方をしておられる。また、アメリカ人におけるフェアネスについて、など。
 いまとなっては古くさくて顧みられない「武士道」にもまた、フェアネスの感覚はあった。
 

 
外気29℃。毎日真夏日近い気温になっている。本格的な夏の始まりだ。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。シュガーレイズド+ブレンドコーヒー451円。
 湯澤規子『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(2023)を読み始める。めっちゃおもしろい。本書について正確に語る能力をわたしはもたないが、フェミニズムの実践(それは当たり前のことすぎて、本書に「フェミニズム」の文字はたぶんなかったくらいだが)として、良質の成果であることは疑いない。もっとも、古くさいわたしにフェミニズムを語る資格はないが。
 歴史の中で無視されてきた無名の女性たちの、声を聞き取ること。本書は『わたしの「女工哀史」』(いまは岩波文庫に収められている)の著者、高井としを(1902-1983)の話から始まるが、高井が岐阜県出身であり、また彼女の声を最初に掘り起こしたのが、(岐阜の)聖徳学園女子短大の生徒たちであることなど、同郷者としてなんとなくうれしかったり。まあ、それはどうでもよいことだが、高井はかの有名な『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の内縁の妻で、細井は著書の素材を多く高井に依存しているけれど、そこに彼女のことは何もといってよいほど言及されておらず、また著書による多額の印税は、高井にまったく還元されていなかったという。
 そして、さらに『女工哀史』では女性はただ「かわいそうな、保護してやるべき存在」として扱われているだけで、尊厳をもったひとりひとりの人間としては遇されていない。そもそも当時、働く女性たちの労働環境は『女工哀史』の糾弾したとおり、劣悪なものではあったが、それでも、女性が労働して、「自分のお金」を手にするということ自体、女性の解放のひとつであったのだ。彼女たちは、その労働で得たお金で、例えば「焼き芋」を好きに買って食べることができるようになったのでもあり、それはまさに自由と尊厳の感覚だったのである。
 本書を読んでいて、わたしは岡真理先生の著作を思い出した。保護してやるべき、かわいそうな第三世界の女性たち、そういう「ひとりの人間としての尊厳」を欠いた視点が、フェミニズムの傲慢を招いている、という。フェミニズムはあまりにも多くの勉強が必要で、むずかしいがゆえに、却って知的傲慢に陥りかねない。いや、わたしのその読解と連想が、正しいのかどうか自信はないが。
 
帰りにドラッグストアに寄って牛乳を買う。
 
夜。
寝ころがって iPad miniブラームスの 三つの間奏曲 op.117、四つのピアノ曲 op.119 を聴く(ピアノはペーター・レーゼルNML)。
 
『今日のあすかショー』(2012)第20話(最終話)まで観る。3分間ギャグ+お色気少々アニメ、クソワロタ。クセのある絵だけれど、そのうちあすかちゃん、かわいく見えてくるから不思議笑。超絶下らん作品なので、マジメに観ちゃダメです。