岐阜県美術館で「クロスアート4 ビロンギング」展 / 岩田慶治『道元との対話』

雨。
 
ある方がひたすら自分に呪いをかけて、ロジックによってみずからの不幸を無限に強化していくスパイラル過程に陥っていて見ていてつらい。親鸞がお好きだそうだが、弥陀の本願を信じまいらせてただひたすら「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えさえすれば救われるという親鸞のいうところを実践されていないようなのは残念である。阿弥陀様は我々凡夫をかならず救ってくださるが、たとえ口先だけでもよい、「南無阿弥陀仏」を唱えるのは本人でなければどうしようもない。たぶんその方は頭がよすぎて、六字の名号の力をお信じになれないのだろうな。例えばわたしのようなバカなら、そうではないのだが。
 というのを、頭のよい現代人は理解しないだろうし、科学的・批判的思考の欠如、宗教への盲信であると非難さえするだろう。しかし、いくら頭のよい現代人にも、どうしようもない泥沼の不幸が訪れることはあるし、それが批判的思考で乗り切れないこともあり得るのだ。親鸞は、そんなことはとうに考え尽くしている。
 

もう牡丹は終わってしまった。これは一昨日撮ったもの。今度は芍薬が咲きそうである。
 
(幸福や不幸の「量」とは何か。我々は「自分の方がこれだけ不幸だ」なんてことをいったり考えたりすることがある。自分はなんて不幸なのか。しかし、それは「比べるものではありませんよ。比べられたくもありません」とお隣の天使様も、周(あまね)君にいっているとおりだ。「自分の方がこれだけ不幸だ」ごっこは、やりたくなる気持ちは強くわかるが、あまりに不毛だとわたしは思う。
 自分の「不幸」は、しかたがない。でも、自分が不幸だと思っている人間は、多くの場合、それを(あるいは無意識のうちに)他人と比較している。でもまあ、それもしかたがないといえば、しかたないのだが。我々は弱いからな。)
(それにしても、やはり現代資本主義的価値観は徹底して我々の中で解体されねばならないな。我々の「不幸感」において、現代資本主義的価値観はきわめて大きな役割を果たしている。しかしそれは解体されるどころか、日々強化されて已まないのだから、若い人たちを始め、特に凡人は救われない。)
 

 
昼飯に桜エビと生姜の炊き込みご飯、あと、旬のエンドウを使った献立。
 
雨あがる、曇。岐阜県美術館へ、「クロスアート4 ビロンギング -新しい居場所と手にしたもの-」展を観に行ってきた。一般1000円。

岐阜県出身の若手アーティストたちの作品展。松山智一、後藤映則、公花、山内祥太、横山奈美。特にいいたいことはないが、とにかく、いつものことながら、現代アートが、こんなことをしていて何の意味があるのか、時間と労力のムダではないかという、むずかしいところにあることを示していた。ほんと、たいへんだなあと思う。陳腐な言い草だが、がんばってねっていうしかない。
 所蔵品展も観る。最後に前田青邨川合玉堂日本画がいくらかあって、わたしは日本画のよし悪しがよくわからないのだが、川合玉堂がわたしごときにもわかりやすくて、おもしろかった。





 
ついでに、隣の岐阜県図書館に寄って、『新潮』誌5月号の、中沢さんと吉本ばななさんの対談を読む。中沢さんの新刊『精神の考古学』と、それから吉本隆明さんについて。『精神の考古学』については、ばななさんが、いまの若い人たちへのすばらしい贈り物、彼らがうらやましいみたいなことをいっていた。
 若い人たちは、脳みそいっぱいにつめこんだ概念、記号にがんじがらめになっていて、身動きがとれなくなっている。そこからできるだけ自由になること。『精神の考古学』は、そのために書かれたのだ。
 吉本さんについては、ずっと基準にしていた「大衆」ってのに、吉本さんはうらぎられてしまったみたいなことを中沢さんがちらっとおっしゃっていて、どういう意味かはっきりしたことはわからないけれど、妙に深く納得してしまった。わたしは、いまの日本の我々「無名の一般大衆」の心がひどいことになっているというのは常々思っていて、それと関係があるのか知らん、とか。
 
すぐ近くのミスタードーナツ バロー市橋ショップに寄る。ポン・デ・宇治抹茶 和三盆わらびもち+ブレンドコーヒー528円。
 図書館から借りてきた、岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)読了。まずは道元をわたしに一気に近づけてくれて、ありがとうといいたい。徹底して主観的な道元の読解であり、まさにこうでなくては。著者独自の「柄」と「地」という二項対立を使ったりして道元を読み込み、著者と道元が渾然一体となっている。そんなすばらしい本だ。以前は『正法眼蔵』とかとても読む気がしなかったのだが、いまは(どーせ理解できないだろうけれど)読んでみてもいいかなと思っている。
 それにしても、よくこんな(文化人類)学者がいたもんである。生粋の東洋的精神。もう、皆んなかしこくなってしまったから、ほとんど誰も理解しまい。

 
夜。
去年10~12月のブログ本を読む。
 
『トモちゃんは女の子!』第9話まで観る。うん、思っていたよりずっと中身の詰まった作品だな。キャロルは天然の変人かと思ったら、みすずも読みまちがえていて、じつは真っ直ぐな女の子だった。雨降って地固まる。みすずとキャロルのやり取りは、見応えがあってちょっと感銘を受けてしまった。ここではトモちゃんは脇役でした。いい作品。