晴。早起き。
昨日の京都行きの写真で、ボツにしたものから。基本的にゆる目で強度の低いものですが。
JR岐阜駅、加納口から。
JR京都駅。
地下鉄東山駅から、京セラ美術館へ歩く途中。
京セラ美術館ファザード。
京セラ美術館庭園、村上隆が鎮座しています。
キュビスム展から。
京都府立図書館。
地下鉄東山駅まで歩いて戻る途中。
木屋町の高瀬川。建築は知る人ぞ知るもの。
三条通。
木屋町通の高瀬川。
路地。
路地にある岬神社。
河原町通のドン・キホーテ。
たぶん四条通だと思う。
岐阜へ戻って。奥は JR岐阜駅前の、岐阜で(たぶん)いちばん背の(価格も?)高いマンション。
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●La Nuit transfigurée de Schönberg à la Philharmonie de Paris, sous la direction de Klaus Mäkelä - Radio Classique
クラウス・マケラ+パリ管のシェーンベルク「浄められた夜」 op.4。この曲は後期ロマン派の噎せ返るような濃厚なロマンティシズムをぷんぷん発散する傑作だとわたしは思っているのだが、マケラのこの演奏はそれ以前のように思われる。いつもどおり、音響的には見事で、美しい弦楽合奏という他ないが、まるで心に響いて来ず、退屈だ。正直いって底が浅く、よくいわれる言い方をすれば、音楽がシェーンベルクに reach していない。途中で聴き止める。
マケラはいわれるとおり確かに(特に音響面で)たいへんな才能をもっているけれど、わたしが聴いた限り(それほど聴いていないが)、とにかく心に響かない演奏が多い。まだきわめて若く、もっと勉強が必要だと思うんだけれど、こんなに周りがチヤホヤしていいもんだろうかと、極東の一田舎者は思ったりもする。ほんと、才能はあるんですよ。
同じ日の演奏会配信にはマーラーの第四番もあるようなので、あとで聴く。
スーパー。うどん用の天ぷらを買わないと安上がり。
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものミックストースト+ブレンドコーヒー。
クラウス・マケラ+パリ管のマーラー、交響曲第四番の冒頭を聴く。オケからはきれいな音が出ているのだが、退屈。テキトーに聴き止める。マケラには、音楽の生命感みたいなのが欠けている感じがするな。
図書館から借りてきた、伊藤比呂美『森林通信』(2023)読了。老母から回してもらったもの。承前。鈴木六林男という人に「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」という句があるらしいが、伊藤さんはそれを読んで、死んだのは自分だということしか考えられないと書いている(p.134)。鴎外フリークの伊藤さんだからね。そして、大岡昇平さんの『野火』の、戦場の様々な死骸の様子を、「私がそうなったように」として、引用している。さて、わたしが戦場に行かなければならなかったのなら、何の岩波文庫を選んでいただろう。和歌集か、俳句か。いや、想像もつかない、だって、いまのわたしは、自分が戦場に行くなど、心の奥ではまったく思っていないから。鴎外を選んで戦死した青年(?)も、熟考する暇はなかったかも知れないけれど。でもとにかく、いまも他の国では若い人が戦場に出ているわけだ、あるいは強制的に。だからどうだというのだ、と?
それにしても、伊藤さんの文章を読んでいると世界はすごい才能に満ちているように思えるし、伊藤さん自身ももちろん才能がある。すばらしい。もっとも、(わたしは凡人だけれど)高度資本主義の要請するとおり、時代が無数の「才能」に埋め尽くされていることをわたしはいちども疑ったことはなかったっけな。
夜。
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はカール・ベーム、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(NML)。風呂で湯船に浸かりながらこの曲を頭の中で演奏していたら、自分でうるっときてしまったので(アホだ)、かつて CD で何度も聴いた録音を聴いてみた。華やかで大好きな曲、ベームによる冒頭の長いオーケストラ提示部からして、感動して、涙腺が崩壊させられる。最晩年のヨボヨボの筈のベームが、圧倒的にみずみずしくて、もうどうしようもなくすばらしい。小澤征爾さんも、何であのほとんど動きのないベームの指揮から、こんなすばらしい音楽が出てくるのか、あれだけはわからないと仰っていたが。また、30代半ばの若きポリーニが、大理石の彫像のように明晰かつ apollinisch で、完璧にベートーヴェンを弾き切っている。どこもすばらしいが、特に第二楽章のポリーニには泣かされた。ベートーヴェンが聴かれる限り、これからもこの演奏の価値がなくなることはないだろう。1978年5月の録音。