西村紗知という才気ある批評家

晴。
 
僕らはみんな河合荘」(2014)第2話まで観る。
居間のエアコンの修理のため、昼食が遅れる。
 
 
webちくまで連載されている、 西村紗知(このブログで過去に言及している筈だが、リンクタイトルを引用しただけのようでブログ検索で見つからない)の『愛のある批評』がおもしろい。才気のある優秀な批評家が出てきたなあという感じである。音楽が好きな人間としては特に、ここ数回の「「丸サ進行」と反復・分割の生」は、現在の日本の若いポピュラー音楽シーンを、「丸サ進行」というコード進行の流行を分析的に捉えることによって浮き彫りにして、じつに才気を感じる。題名そのままだが、「丸サ進行」の流行から若い人たちの生に漂う「雰囲気」を指摘して、なるほどなと思わないでもない、って、ネット以外で世間と接していないわたしに、日本の若い生がどれだけわかるか、疑問だが。わたしは YOASOBI も相対性理論も Ado もずっと真夜中でいいのに。も、YouTube でときどき聴く(あるいはかつて聴いていた)程度のもので、西村を読んでへーって感心するだけであるが、「丸サ進行」におけるウェルメイドな「差異と反復」(とは西村はいっていないが)を問題にしているのは、わたしもむかし読んだ(で、よくわからなかった)ドゥルーズの(?)問題圏に現代日本がいまだ囚われているという、まあそんなふうにおっさん的にいってしまってもいいのかしらと思わされた。しかしそれにしても、ここにある「差異」たちは、あまりにも微小ではないだろうか。ぶっちゃけ、わたしは例えば「夜に駆ける」にコロッとハマったが、そこから YOASOBI は様々な楽曲を作り、それらは一般に支持され、またそれなりに楽曲間の「差異」も工夫されたのだろうが(このへんは分析的に考察すべきところだが、単純に能力的にわたしにはムリだ)、それにしても「差異」はあっても、やはり印象はどれもあまりに似通っている。また、逆に印象がガラリと変わってしまえば、「固定客」を失うかも知れない。そこらのむずかしさが、微小な「差異」の繰り返しを続けざるを得ない「堕落」に陥ってしまうのだと思う。これこそが、さて、まさに高度資本主義的に「資本に消費されてしまう」ことに他ならず、それは僕らの時代から変わっていなくて、いやますます病状は進行している。それが至りついたのが、西村のいう「反復・分割の生」なのかなと、いまのむずかしい時代を思う。
 
結局、ちょっとの「差異」というスパイスをふりかけるだけで、基本的に「反復」であり新しさを粧うだけではあるが、それでも「新しさ」は必要とされているのであり、「分割組み合わせと反復」にすぎない大量のコンテンツが生み出され、そこそこよいコンテンツがポピュラーになって消費されながら、時と共に流されていく。新しい世代には、いま流通しているものが享楽すべき現在にすぎず、歴史的に見れば「反復」なのだが。それは、このままでは仕方がないことなのであり、議論を跳躍してみせればつまり、いまの我々の生は結局はフェイクなわけだ。それでも、生まれてきた以上は、何かをして何者かになって、生きていくしかない。まあ、その「フェイクな生」という見方が、現在の価値観によって自家中毒しているだけ、といえないこともないのだが。
 
強固な「モダン」の崩壊というジレンマ - オベリスク備忘録
さても、西村紗知という優秀で才気ある批評家が、強固なモダンを延命させる方向に向かわないことを祈りたい。才気と共に、バカになってほしいものである。それができそうな感じがあるのだが。リアルは、バカにしか訪れないのだ。
 

 
ブログを書籍化したもの(2022.7.1~2022.9.30)落掌。自分のブログがおもしろすぎて読み耽ってしまう。ほんとアホ。
でもこのブログなんて、誰も読んでいないべ? 自分がいちばんの愛読者なのだ笑。
 
夜。
僕らはみんな河合荘」第7話まで観る。第4話でようやく気づいた、このアニメ、舞台は岐阜市じゃないか! 宇佐くんと律ちゃんがいつも歩いて渡ってる橋、長良橋だな。金華山岐阜城も、遠景に出てくる。だから、OP で和傘とかさるぼぼとか、登場すんのね。
 検索してみたら、そうかー、原作マンガの作者が岐阜市在住なのね。ファンの「聖地巡礼」もたくさんネットに上がってる。二人の通う学校は、岐阜北高校なんだ。
 岐阜県が舞台のアニメ、自分が気づいただけでも結構ある。大ヒットした「君の名は。」の「聖地」が飛騨古川とか、「聲の形」の大垣とかは有名。じつはわたしの住んでいる各務原も、航空自衛隊岐阜基地が舞台となったアニメがあるんだよねー、どうでもいいけれど笑。あと、「青ブタ」で咲太と麻衣さんが逃避行(?)する先が、大垣だったのは地味にうれしかったな。JR の有名な「大垣夜行」に乗ってね。

邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』

晴。
 
昼から県営プール。
外気15℃。いい天気で暖かく、気持ちがよい。
 
インスタントコーヒーを二杯飲んで、ぼけーっとする。

金柑とみかん。
 
NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812 で、チェンバロエヴァ・ムロフツァ(NML)。

The French Suites

The French Suites

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■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、チェンバロエヴァ・ムロフツァ(NML)。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、チェンバロエヴァ・ムロフツァ(NML)。
 
夜。
ウェーベルンパッサカリア op.1 で、指揮はピエール・ブーレーズベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。静かなところとかはいいが、ベルリン・フィルという鈍器で殴りつけるの、ちょっとやりすぎなようにも思える。これはもう音楽じゃない、感が強い。ブーレーズのことだから、ハッタリをかましているわけではないとは思うが。■ウェーベルン管弦楽のための六つの小品 op.6 で、指揮はピエール・ブーレーズベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。
 
 
邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』の続きを読む。承前。この長大な研究書も、あと少しになった。前書いたとおり、軽くスピーディーな、すばらしい文体。それに、すごい熱量だ。切れ味するどすぎて、圧倒される。本書は翻訳論という体裁ながら、藤本和子(とフェミニズム及びブローティガン)論とカート・ヴォネガット(とその日本での受容)論でもあるといっていい。日本のある側面のサブカルチャー論として、新たな地平を切り開いたと評価してもいいのではないか、といっても、わたしは頭が古くさすぎて、本書の斬新さを正当に評価できないとわかっている。わたしは高校生の時、ほとんど SF しか読まなかったのだが、メインストリームの SF作家ばかり読んでいて、肝心のヴォネガットは読んだことがないか、あるいは読んでもよくわからなかったか、どちらかだろう。いまからでも、『スローターハウス5』他を読んでみよう。それにしても、サブカルチャーはメインストリームの「文化的権威」というものがあってのサブカルだったわけだが、メインストリームの権威が消滅しサブカルだけになった今、サブカルはどこへ行くのだろうな。もちろん、いまではサブカルこそがメインストリームなわけである。
 
図書館から借りてきた、邵丹(ショウ・タン)『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』読了。アカデミックな文学研究の本はあまり読んだことがないので徒手空拳だが(もっともこのブログに書くことなんて、すべてその類いである)、とにかくおもしろい研究書だった。なお、村上春樹については、陽にはそれほどは触れられていないです。

玄侑宗久『化蝶散華』 / 「Angel Beats!」(2010)を観る

日曜日。晴。
 
玄侑宗久『化蝶散華』読了。

 
ヒヨドリが金柑の実を咥えて飛んでいった。金柑なんか喰うんだ。
スーパー。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン協奏曲 BWV1041 で、ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー、シュトゥットガルト室内管弦楽団NMLCD)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はズスケ・クァルテット(NMLCD)。■ヴォーン・ウィリアムズのヴァイオリン・ソナタ イ短調で、ヴァイオリンはチャーリー・シーム、ピアノはイタマール・ゴランNML)。
Violin Sonatas

Violin Sonatas

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スクリャービンのピアノ・ソナタ第三番 op.23 で、ピアノはウラディーミル・アシュケナージNML)。1972年の録音。若い頃のアシュケナージの、きれいに抜ける強音がすばらしい。

 
Angel Beats!」第9話まで観る。名作っていうわりによくわからんくてそれほどおもしろくないかな、って観ていたら、第9話、やられましたわ。鼻ぐずぐずいわせながら観ていた。物語の世界観が逆転する。それから、OP もいいけれど、ひどく抒情的な ED が僕は好き。
 これ、何となくノベルゲームっぽいんだが、アニメが先でゲームはあとで作られたんだな。
 
夜。
Angel Beats!」(2010)第13話(最終話)まで観る。やっぱり名作だった…。悲しい終わりで、単純なハッピーエンドではないし、でもバッドエンドでもないな。最初の方の、バカバカしいような話がここに繋がるのか。原作・音楽の麻枝准という人は、有名なんだな。「Charlotte」とかも観てみるか。正直いって絵は古くさいし、キャラクターデザインもそんなに好みではない。でも、ストーリーの勝利だな。死後の、生前に未練を残した若者が来る場所、っていうアニメ的な荒唐無稽の世界を、とてもうまく使っている。

岡本太郎の禍々しいヴィジョン

晴。
 
岡本太郎のヴィジョンには何か禍々しいものを感じる。人類が滅び去ったあと、その悪意だけを凝縮したギョロギョロ目玉の化物たちが、永遠の不毛の闘争を繰り返している、とでもいったような。あまり明るいものを感じない。しかし一方で、これは正確なヴィジョンではないかと、納得させられてしまうところもある。これが我々の未来だ、と。いや、ほとんど現在かも知れない。
 
愛と欲望が我々を破滅させる。コミュニケーションはマウンティングに行き着き、人を傷つけるだけだ。お互いに理解し合えるなんてことはない。自分という球体に閉じ込められていて、自分だけがかわいいのだ。
 
 
昼から風強し。外でビュービューいっている。
ごろごろ。
 
youtu.be
 
台風かという強風の中、50分散歩。いつもと同じ写真です。









このところ部屋に閉じ籠もることを追求していたので、散歩はひさしぶりだな。2023.2.2 以来か。
金柑。インスタントコーヒーとウチのみかんと柿の種。ミルクチョコレート。
 
NML で音楽を聴く。■ヨゼフ・スークのピアノ三重奏曲 op.2 で、演奏はトリオ・カレニーヌ(NML)。

Suk - Dvorak

Suk - Dvorak

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■バッハのヴァイオリン協奏曲 BWV1042 で、ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー、シュトゥットガルト室内管弦楽団NML)。アルヴォ・ペルトの「フラトレス」で、ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー、シュトゥットガルト室内管弦楽団NML)。■アルヴォ・ペルトの「鏡の中の鏡」で、ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー、ピアノはピーター・フォン・ヴァインハルト(NML)。
 
夜。
基本に戻り、すべてが繋がる。
 
Angel Beats!」(2010)第5話まで観る。

愛知県美術館で「岡本太郎展」を観る


愛知県美術館へ、「岡本太郎展」を観にいってきた。以前からずっと楽しみにしていたもの。国道22号で名古屋まで一時間あまりかかるので、わたしにとって運転は瞑想みたいなものだから、ベストコンディションという感じで展覧会に入れた。
 
会場に入ると、「えっ、人が多い」というのがまずは素朴な第一印象。岡本太郎、人気あるな。岡本太郎は書くものや言うことはすばらしいが、実作は(失笑)という浅田さんみたいな評価が結構あるので、どんなもんだろう、マンガみたいなものだろうかと期待していたわけだが、全部観て、とにかく「パワーありすぎでめっちゃ疲れた!!!」ってのが、幼稚ながら正直な感想である。現物は、予想をはるかに超えてなまなましい。岡本太郎自身が「芸術は呪術だ」ということをいっているそうであるが、とても分別ある言葉で表現できるような絵画(絵画が中心の展示だった)ではない。理性的な「言語=象徴」をとおして絵を観る人は、そりゃつまらないだろうな、というのがはっきりとわかる。太郎の「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という言葉はよく知られているが、まさにそのとおり、趣味が最悪というか、人の感覚を逆なでしてくるというか、うまくもないし、きれいでもないし、ここちよくもない絵たちだ。だから、自分もだが、何のためにわざわざ岡本太郎なんか観にいくのか、ってことがある。これは、呪われた原始的な生命力でとりすまし白ちゃけた現代文明を根底から破壊していくようなもので、岡本太郎がそのまま正確に受け取られたら、そこにあるのは日常の崩壊と革命だろう。でも、そうはならないのは、僕たちの感受性がとことんにぶいからで、それだから美術館で爆発的な岡本太郎を体験したって、日常は滞りなく進んでいくのである。

ほぼすべての作品が撮影可能なので、SNS でも検索してもらえば観られるだろう。上はテキトーに撮った、人ごみの様子。
 
いつものごとくコメダ珈琲店春日店にて昼食。これもいつものごとく、ミックストースト+ブレンドコーヒー1160円。これでようやく一息つき、購入した展覧会カタログの文章を読む。帰りは名古屋江南線をずっと北上して、雨の中をゆっくりと帰宅。道道、ぼーっと展覧会についての感想を考えるともなく頭の中で転がしていた。運転は、瞑想みたいなものだから。

邵丹さん発見

祝日(天皇誕生日)。雨。寒い。
 
スーパー。
 
曇。
サブスクの時代になって、ますますコンテンツを享受しすぎで、ますます消化しきれなくなっているよね。めちゃくちゃに消費しているから、意味=方向が多数多様にバラバラで、総体としてホワイトノイズ化している。インプットしすぎで、アウトプットできない問題。まあ、アウトプットしなければいけないということは全然ないのだが、それにしても、大変な時代になったよ。
 
ただそれで意味=方向をむりやり捻じ曲げて意味づけると、よくある「かしこい評論」みたいな、わかったようで不誠実なものしかできないしな。ま、ネットなんか、そういうニセモノで溢れているっちゃあ、溢れているんだけれど。一方で、そもそもインプット・経験が足りない、「にわかほど語りたがる」(というのはプログラミングの世界の金言)ってのもふつうだし。あー、でも、そういう自意識過剰もめんどくせ。とりあえず「沈黙が銀」で、「金」が何かはわからない、ってところなんだろうな。
 
言葉によって沈黙する。
 

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番 op.47 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。いわゆるクロイツェル・ソナタ。名演。■フランクのヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。アルゲリッチがほとんど破綻寸前まで攻めているし、カピュソンも全力で対応しているが…、しかしそれでもこの曲の全貌に届き切っていないのかも。理想的に演奏するのが不可能な曲なのかも知れないな。いや、この曲は大好きで、よく知っていると思い込んでいるが、そういうわたしがわかっていないのかも知れない。フランクのレコードを聴いていて、気分が悪くなって庭に吐瀉したという小林秀雄の短い文章があったし、武満さんの出発点のひとつが、フランクだったり、ということを思い出した。この演奏は、音楽というものをはみ出している。それにしても、アルゲリッチの全盛期はいまですか。どういう人だ。

録音で聴くのではなくて、生でライブ会場で聴くべき演奏だろう。繰り返し聴けない気がする。
 
 
邵丹(ショウタン)なる若い中国人研究者の、『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』(2022)という研究書を読み始めたのだが、これ、めっちゃおもしろい! 何よりも文体がすばらしい。恐ろしく知的で、まことに軽く、高速に駆け抜けていく、切れ味の鋭い日本語だ。とにかく文体がすばらしくて(と強調したい)、現代に生きているので、どんどん読めてすらすら頭に入ってくる。また、ペダントリーを狙っているわけではないだろうけれど、無知なわたしなどは(よい意味で)ペダンティックに感じるほど、文献の扱いがカッコいい。いや、興奮させられる批評書だな。こんなのは、長らく出会っていない。 
夜。
『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』を貪り読み続ける。高度な批評を200ページ以上読み続けたなんてのは、いつ以来か。藤本和子について延々と語る本書はフェミニズム本でもあるが、いまはフェミニズムもここまできているのか。同時代のリアリティをひしひしと感じる。

岐阜県美術館で第11回円空大賞展を観る

晴。
よく寝た。九時間以上眠った。夢を見ないと書いたら、ものすごく大きな家に住む夢を見た。新しい、きれいな家。まだ引っ越し中で、部屋にあまりものが入っていない。庭もある。屋根の上にも登ったらしい。
 
心の深いところへ降りてゆく。異質なものが融合されていく。じつに地道な作業だ。
「るつぼ」はダメで「サラダボウル」はいい、って紋切り型の PC があるが、異質なもののハイブリッドを作っていくことは大事だとわたしは思っている。どんどん「混血」しちゃえ、ってこと。それこそが差別や分断を本当に解消する、たぶん唯一の道だ。
 
 
気持ちがよくて、ほんといい天気。細胞がすみずみまで浄化されてゆくかのよう。
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。ミックストーストやカツパンを食う。うまいな。
このところ一日中なんか眠くて(たぶんアニメの領域を融合中)、ずっと部屋に閉じ籠もってだらしなく寝ていたい気分なのだが、なぜか外へ出る予定のある日々。
 

 
県図書館へ。途中コンビニで麦茶を買ったのだが、麦茶ごときに100円も出すと、妙においしいものがいただけますな。
継続更新したもの以外で借りたのは、まずはナディン・ゴーディマの『バーガーの娘』(邦訳全2冊)。閉架にあった。それから新着で、アウルス・ゲッリウスの『アッティカの夜』の第一冊目。もちろん京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」本で、出版が2016年なのに、いま新着なのは謎である。これ、大した本ではないが、昔からちょっと読みたかった。アウルス・ゲッリウスは二世紀ローマの読書人(?)で、本書はゲッリウスが読み散らした本からの雑多な引用や抜書き、感想で埋まっており、いまでは散逸した書物がそこから伺われるというもの。なので古くから有名で、西洋の古典を読んでいると本書の名前は(注などに)結構よく見かけるのだった。しかし、アウルス・ゲッリウスみたいなものが翻訳されるとは、我が国の「西洋研究」も、成熟してきたものだと思う。誰得ですが。

ちょっと中を覗いてみると、とても通読するような本じゃないな。
 
 

県図書館のとなりが県美術館なので、ついでに「第11回円空大賞展」を観てきた。まあ、作品の感想は書かない。ところどころに円空仏が置いてあって、コラボレーションしている。学生らしき女子三人組が(円空仏が)カワイーとかいっていたので、こういうことも意味があるのだなと思った。別室では、所蔵品である陶器による、コンピュータ・グラフィックスを使ったインタラクティブな展示が行われていて、「丸の中に入って両手を挙げて下さい」とか書いてあるのでやってきたが、おっさんには恥ずかしいね。若いカップルがきゃーきゃーいいながらやっていて、ああいうのが吉だと思った。所蔵品展は蒐集品の大量のルドンがいつもながらすばらしく、特に今回は長いモノクロの時代をすぎて、あふれんばかりに色彩の開花したルドンがたくさん見られ、貴重だった。
 
美術館のテキトー写真。


 
夜。
中沢さんの『レンマ学』再読了。本書は創造性を失い、硬直化しつつある「知」の世界において、もう一度堅固な土台を作り出すための巨大な一歩だが、なにぶんあまりにもむずかしい。結局「四法界」については自分で納得してみる他ないが…。それに関しては付録三「心のレンマ学」がかなり理解の助けになる。あと、『華厳五教章』は読まないといけないだろうな。文庫本でもっている筈だが、取り出しにくいところにあるんだよなあ。本書は続けて三周目、するつもり。また冒頭から読み始めると、文章の高揚した調子と自負に、感銘を受けずにはいない。ついにこの書が語られるのだ、という感動がある。それにしても、ロゴス的知性によって作動する AI(人工知能)のすさまじい勢いでの発展が、レンマ的知性の存在を陰画のように浮き彫りにしたというのが興味深い。まさに、いま書かれるべくして書かれた、本なのだ。