邵丹さん発見

祝日(天皇誕生日)。雨。寒い。
 
スーパー。
 
曇。
サブスクの時代になって、ますますコンテンツを享受しすぎで、ますます消化しきれなくなっているよね。めちゃくちゃに消費しているから、意味=方向が多数多様にバラバラで、総体としてホワイトノイズ化している。インプットしすぎで、アウトプットできない問題。まあ、アウトプットしなければいけないということは全然ないのだが、それにしても、大変な時代になったよ。
 
ただそれで意味=方向をむりやり捻じ曲げて意味づけると、よくある「かしこい評論」みたいな、わかったようで不誠実なものしかできないしな。ま、ネットなんか、そういうニセモノで溢れているっちゃあ、溢れているんだけれど。一方で、そもそもインプット・経験が足りない、「にわかほど語りたがる」(というのはプログラミングの世界の金言)ってのもふつうだし。あー、でも、そういう自意識過剰もめんどくせ。とりあえず「沈黙が銀」で、「金」が何かはわからない、ってところなんだろうな。
 
言葉によって沈黙する。
 

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番 op.47 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。いわゆるクロイツェル・ソナタ。名演。■フランクのヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。アルゲリッチがほとんど破綻寸前まで攻めているし、カピュソンも全力で対応しているが…、しかしそれでもこの曲の全貌に届き切っていないのかも。理想的に演奏するのが不可能な曲なのかも知れないな。いや、この曲は大好きで、よく知っていると思い込んでいるが、そういうわたしがわかっていないのかも知れない。フランクのレコードを聴いていて、気分が悪くなって庭に吐瀉したという小林秀雄の短い文章があったし、武満さんの出発点のひとつが、フランクだったり、ということを思い出した。この演奏は、音楽というものをはみ出している。それにしても、アルゲリッチの全盛期はいまですか。どういう人だ。

録音で聴くのではなくて、生でライブ会場で聴くべき演奏だろう。繰り返し聴けない気がする。
 
 
邵丹(ショウタン)なる若い中国人研究者の、『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』(2022)という研究書を読み始めたのだが、これ、めっちゃおもしろい! 何よりも文体がすばらしい。恐ろしく知的で、まことに軽く、高速に駆け抜けていく、切れ味の鋭い日本語だ。とにかく文体がすばらしくて(と強調したい)、現代に生きているので、どんどん読めてすらすら頭に入ってくる。また、ペダントリーを狙っているわけではないだろうけれど、無知なわたしなどは(よい意味で)ペダンティックに感じるほど、文献の扱いがカッコいい。いや、興奮させられる批評書だな。こんなのは、長らく出会っていない。 
夜。
『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』を貪り読み続ける。高度な批評を200ページ以上読み続けたなんてのは、いつ以来か。藤本和子について延々と語る本書はフェミニズム本でもあるが、いまはフェミニズムもここまできているのか。同時代のリアリティをひしひしと感じる。