アニメにおける「型」あるいは「冴えカノ」におけるそこからの逸脱

日曜日。曇。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第二番 BWV1067 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンはパトリツィア・コパチンスカヤ、ピアノはファジル・サイNMLCD)。コパチンスカヤとサイ、すばらしいコンビだな。非因習的。ラディカル。
 
昼。
停滞して YouTube を見てばかりいるので、頑張って扉を開けて中に入る。
インスタントコーヒーに柿の種。
 
ウェーベルンの五つの楽章 op.5 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。エマーソンSQ はモダンなカルテットでかつては好きだったし、何でもそれなりに聴かせると思うが、いまだとちょっと線が細く感じてしまうな。別に嫌いではないのだが。まあ、前とはわたしの再生システムもちがうけれども。

ウェーベルンの五つの楽章 op.5 で、演奏はパリジー四重奏団(NML)。少なくともこの曲の演奏に関する限り、エマーソンSQ よりパリジーQ のそれの方がウェーベルンらしいと思う。エマーソンSQ のように消毒してしまうと、ウェーベルンが後期ロマン派の延長線上にあることがわかりにくくなってしまう。ウェーベルンの五つの楽章 op.5 で、指揮はピエール・ブーレーズベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。弦楽オーケストラ版。ベルリン・フィルの合奏力に圧倒される。
Complete Webern

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夜。
あるマイナーアニメ好きの人のブログで、「石鹸枠」という言葉を知っておもしろく思った。検索してみると、この言葉は曖昧に使われているが、おおよそ「B級(あるいはそれ以下)テンプレアニメ」という意味らしい。「テンプレ」は「テンプレート」の略で、アニメにはハーレム、妹、幼馴染、ツンデレヤンデレ、百合、セカイ系タイムリープ異世界転生、などなどと、(テキトーに一部挙げてみたが)様々なテンプレがある。これ、日本の伝統芸能にある、「型」の発生そのものだよね。ここから大議論に繋げるつもりは毛頭ないが、ただ、先日観ていた「冴えカノ」(『冴えない彼女の育てかた』)なんかは、型=テンプレをものすごく意識して作られた、でも結局そこからの逸脱の作品だなと思う。主人公の安芸倫也はガチオタで、「テンプレ大事」「テンプレ上等」っていうことを何度も作中でいっているが、最終的に負けヒロインになる澤村・スペンサー・英梨々霞ヶ丘詩羽は、完全にそのテンプレどおりの魅力的な造形であり、実際アニメ1期では中心的な役割を果たして物語を駆動する。そうする中で、2期、劇場版と、これまでのテンプレになかったふつーの女の子である加藤恵が次第に浮上してきて、すべてをかっさらう。これは完全に計算し尽くされていて、「冴えカノ」は「とらドラ!」クラスの神アニメだと個人的に考えているが、「とらドラ!」が魂の作であるのに対し、「冴えカノ」は徹底した計算の作だというのがわたしの思うところ。いや、アニメ初級者が失礼いたしました。
アニメは確かにアニメというだけでおおよそ下らなくて、ふつうの大人が観るようなものではない、というのはまあそのとおり。でも、「下らない」ってことを認めてしまえば、それはそれで広くて深くもある領域だなとわたしは思う。そしてわたしには、アニメが「下らない」というのは、ひとつの救いかも知れない。そのせいか、ジブリのそれのような立派な「アニメ」は、それはそれですごいが、わたしにはちょっとちがうという気もしてしまうのである。
 
 
ストライク・ザ・ブラッド」第12話まで観る。