強固な「モダン」の崩壊というジレンマ

晴。
 
スーパー。ロマネスコというへんな野菜を見つける。ブロッコリーみたいだが、何か形状がフラクタル構造っぽくて、ちょっと気持ちが悪い。熊本産だった。
 
YouTube では最近、やくしまるえつこ相対性理論を時々聴いている。CD をレンタルしようかとずっと思っているのだが、なにせめんどうくさがりで放ってあるのがいけない。それから、超どうでもいいんだけれど、「可愛いだけじゃない式守さん」の編集動画を外国の人たちがいっぱい上げていて、驚かされる。アニメの「式守さん」、日本では酷評されてるんだけれど。僕は「式守さん」、結構好きですね。動画も時々観ている。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。春めいてきて、車を運転していても世界が何とも美しい。
『コレクション瀧口修造8』の続きを読む。この巻はもう二箇月くらい読んでいるが、まだ読み終えない。さて、思うのは、「モダン」(近代・現代)ということである。もう「ポストモダン」という時代さえ過去のものになってしまったように思われているが、我々現代社会に生きる者にとって、まだまだそのすべての感受性は「モダン」のそれに支配されていて、非常に強固だ。「前衛」(アヴァンギャルド)というのはその「モダン」の支配からの脱却・破壊であったといってよく、二十世紀の芸術運動はそれゆえに豊饒であったといってもいいが、いまから見てわかるのは、そのような運動もまた「モダン」に統合され、「モダン」自体の感性はいまだにゆるぎないという事実である。
 美術においては、「モダン」は印象派以降の運動であり、シュルレアリスム抽象絵画もまたそれに統合され、ついにはモダン・アートとして(紆余曲折はあっても最終的に)陳腐化した。瀧口修造を読んでいるとその流れが誠実に捉えられているが、それだけなら現在において瀧口を読む意義はあまりない。しかし、わたしが瀧口修造などという「過去の遺物」を読んでちっとも後悔しないのは、瀧口には何か不透明なもの、「モダン」に回収されてしまわないものがあるからだ。それは何だろうと思っている。本当は、そういうのが「ポストモダン」といわれるべきものだった気がするが、もちろん、そうした意味でその語が使われることはなかった。
 「モダン」が壊れるとは、一切の価値判断をなしている基盤が壊れ、宙吊りになってしまうということだ。一切の言説は崩壊する。何も言うことはなくなってしまう。わたしたちはそんな中で生きていけるものではなく、ゆえにいまでも「モダン」は延命され続けている。壊れてきているのに、壊れたら死ぬ。そのジレンマが、いまの若い人たちの、あるいはわたしのような人間の、絶望だといってしまっていいような気もする。
 
ちなみに現在における「哲学」や「科学主義」というのは、まさに(上で記した意味での)「モダン」の延命以外の何ものでもない。
 
何かむずかしすぎることを書いた。困ったもんだ。
 

 
夜。
ストライク・ザ・ブラッド OVA」(2015)全2話を観る。しょうもないもん観てるなあ、オレ笑。

iPad mini をふとんに持ち込んでダラダラ観ております。アニメが捗るが、さて、視力が落ちた…。