岐阜県美術館で第11回円空大賞展を観る

晴。
よく寝た。九時間以上眠った。夢を見ないと書いたら、ものすごく大きな家に住む夢を見た。新しい、きれいな家。まだ引っ越し中で、部屋にあまりものが入っていない。庭もある。屋根の上にも登ったらしい。
 
心の深いところへ降りてゆく。異質なものが融合されていく。じつに地道な作業だ。
「るつぼ」はダメで「サラダボウル」はいい、って紋切り型の PC があるが、異質なもののハイブリッドを作っていくことは大事だとわたしは思っている。どんどん「混血」しちゃえ、ってこと。それこそが差別や分断を本当に解消する、たぶん唯一の道だ。
 
 
気持ちがよくて、ほんといい天気。細胞がすみずみまで浄化されてゆくかのよう。
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。ミックストーストやカツパンを食う。うまいな。
このところ一日中なんか眠くて(たぶんアニメの領域を融合中)、ずっと部屋に閉じ籠もってだらしなく寝ていたい気分なのだが、なぜか外へ出る予定のある日々。
 

 
県図書館へ。途中コンビニで麦茶を買ったのだが、麦茶ごときに100円も出すと、妙においしいものがいただけますな。
継続更新したもの以外で借りたのは、まずはナディン・ゴーディマの『バーガーの娘』(邦訳全2冊)。閉架にあった。それから新着で、アウルス・ゲッリウスの『アッティカの夜』の第一冊目。もちろん京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」本で、出版が2016年なのに、いま新着なのは謎である。これ、大した本ではないが、昔からちょっと読みたかった。アウルス・ゲッリウスは二世紀ローマの読書人(?)で、本書はゲッリウスが読み散らした本からの雑多な引用や抜書き、感想で埋まっており、いまでは散逸した書物がそこから伺われるというもの。なので古くから有名で、西洋の古典を読んでいると本書の名前は(注などに)結構よく見かけるのだった。しかし、アウルス・ゲッリウスみたいなものが翻訳されるとは、我が国の「西洋研究」も、成熟してきたものだと思う。誰得ですが。

ちょっと中を覗いてみると、とても通読するような本じゃないな。
 
 

県図書館のとなりが県美術館なので、ついでに「第11回円空大賞展」を観てきた。まあ、作品の感想は書かない。ところどころに円空仏が置いてあって、コラボレーションしている。学生らしき女子三人組が(円空仏が)カワイーとかいっていたので、こういうことも意味があるのだなと思った。別室では、所蔵品である陶器による、コンピュータ・グラフィックスを使ったインタラクティブな展示が行われていて、「丸の中に入って両手を挙げて下さい」とか書いてあるのでやってきたが、おっさんには恥ずかしいね。若いカップルがきゃーきゃーいいながらやっていて、ああいうのが吉だと思った。所蔵品展は蒐集品の大量のルドンがいつもながらすばらしく、特に今回は長いモノクロの時代をすぎて、あふれんばかりに色彩の開花したルドンがたくさん見られ、貴重だった。
 
美術館のテキトー写真。


 
夜。
中沢さんの『レンマ学』再読了。本書は創造性を失い、硬直化しつつある「知」の世界において、もう一度堅固な土台を作り出すための巨大な一歩だが、なにぶんあまりにもむずかしい。結局「四法界」については自分で納得してみる他ないが…。それに関しては付録三「心のレンマ学」がかなり理解の助けになる。あと、『華厳五教章』は読まないといけないだろうな。文庫本でもっている筈だが、取り出しにくいところにあるんだよなあ。本書は続けて三周目、するつもり。また冒頭から読み始めると、文章の高揚した調子と自負に、感銘を受けずにはいない。ついにこの書が語られるのだ、という感動がある。それにしても、ロゴス的知性によって作動する AI(人工知能)のすさまじい勢いでの発展が、レンマ的知性の存在を陰画のように浮き彫りにしたというのが興味深い。まさに、いま書かれるべくして書かれた、本なのだ。