こともなし

晴。好天。
昨晩は深夜遅くまで Ruby の 'Ruby2D' という Gem で「ライフゲーム」を作っていた。こんな感じ。
20190320020235
まあいわゆるゲームではないのだけれど、そういう名前が付いているのですね。正式には「コンウェイGame of Life」という。一種の素朴な生態系シミュレーションであるともいえる。そんな大袈裟なものでもないけれど。記事はこちら
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ブレンドコーヒー270円。蜂飼耳さんの書評集を読む。まず印象的なのは見事な文体。どことなく古風で堀江敏幸さんの文章を思い出すところもあるが、蜂飼さんのはより落ち着いている。この人は詩人であるが、頭も相当によいのではないか。繊細な感性と上滑りしにくい論理性が同居している。本書ではその性格上淡々とした短い文章が多いが、どれも読ませる。僕は書評を参考にして本を探す・読むということを滅多にしないが、本書の書評で読んでみたいなと思う本が結構あった。まあ、たぶん読まないのだろうけれど。気に入ってどんどん読んでしまうので、半分ほど読んだところで中断する。

中川右介『巨匠たちのラストコンサート』

曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。どうでもいいけれど、NML の時間表記がめちゃくちゃなことが結構あるな。この曲が 13分で終わる筈ないでしょ。■モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNML)。いわゆる「リンツ」。モーツァルトの音楽がいかに推進力をもっているか、よくわかる。ブリュッヘンは、二十世紀後半を代表する古典的指揮者のひとりであるな。稀な人だった。

Mozart: Symphonies No.28 & 36

Mozart: Symphonies No.28 & 36

モーツァルトのピアノ協奏曲第九番 K.271 で、ピアノはルドルフ・フィルクシュニー、指揮はジョージ・セルロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NMLCD)。これはすばらしい演奏。名演といって差し支えあるまい。フィルクシュニーもセルもすばらしいな。この曲はモーツァルトも気合を入れて書いている感じだしな。■メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.11 La Buse variable, No.12 La Traquet rieur で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NMLCD)。

山形さん。

うーん、前回かなり気合いを入れたつもりなのに、反応が薄くてがっかりですよ。減価償却ガー、といったあたりですでにかなりみんなの理解力を超えたということなのかしら。

https://cruel.hatenablog.com/entry/2019/03/18/235006

え、反応薄かったの? でも、こういう中身のあるエントリが消化されるには時間がかかるので、がっかりしなくても、と思うのだけれど。しかしこの人はマジで真のエリートだな。こういう人こそが本当に人のためになることを(何にもいわずに)やっているのですよ。えらいなあ。僕は山形さんはあまり好きではないけれど、ほんとにリスペクトしているのだ。

ネッツトヨタでタイヤ交換。代車で帰ってくる。また夕方取りにいくのだ。

ヤナーチェクのピアノ・ソナタ 「1905年10月1日、街頭にて」で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NML)。

Réminiscences

Réminiscences

■ニムロッド・ボーレンシュタイン(1969-)の「幼年時代の思い出」 op.54 で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NML)。■松平頼則の「六つの田園舞曲」、「歌 I (呂旋法による)」、「歌 II (律旋法による)」、他で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。

車、返ってきた。代車とはだいぶ感覚がちがうな。自分の車はハイブリッドなので、アクセルのタッチに遊びが大きい感じ。なので、代車はアクセルを踏むとすぐにぐわっときて、ちょっと慣れなかった。ブレーキも固すぎる感じだったな。
タイヤのお値段は結構しましたね。これだけ乗って初めての交換だから、まあ保った方かな。


図書館から借りてきた、中川右介『巨匠(マエストロ)たちのラストコンサート』読了。いやー、なかなかおもしろかったね。著者は「クラシックジャーナル」の編集長らしい。わたしはこの雑誌は一二度立ち読みしたくらいしか知らないのだが。本書のおもしろい理由は、まずは「正直」、そして「俗っぽい」という感じがするためではないか。著者はとにかくカラヤンが好きだ。著者は本書で、この国で「カラヤンが好き」というのは直ちに音楽がわかっていないと見做されることをはっきり書いている。で、それとよく比較されて神格扱いされるフルトヴェングラーなどは、カラヤン信者の立場から「倒すべき敵」だとすら書く。いや、なんという俗物!と思われることであろうが、あんまり著者のいうことをそのまま鵜呑みにしてはいけない。著者は、いかに「高級な趣味」であるとされるクラシック音楽の「鑑賞」ですら、我々人間のすることであるから「俗っぽさ」を払拭できないということをよく知っているのだ。わたしは著者の音楽理解に関しては違和感を覚えるところ少なくないが、俗っぽさを排除しない著者の音楽との関わり方には、どこか爽快なものを感じずにはいられないのである。例えば本書にはロストロポーヴィチの「高邁な政治活動」がじつはかなり問題含みであることを丹念に記述しているところがあるが、そんなことは音楽に関係ないと思われるかも知れない。確かにそれは音楽には関係がないのだが、しかし、生きるということに関係があることは確実である。それは音楽を深く聴く助けにはならないが、音楽は生きることと深く繋がっていることを汲んでいるのだ。ちなみに著者は、けれども例えば政治を音楽の中に混ぜるようなことはまずしない。きちんと節度を守っているように思われる。ちょっと褒めすぎですか? ああ、本書の内容について何も書かなかった。いや、題名どおりです。おもしろかった。

巨匠たちのラストコンサート (文春新書)

巨匠たちのラストコンサート (文春新書)

なお、著者がカラヤン信者であることは上に書いたが、本書ではカラヤンの俗物たることを示すようなエピソードも別にふつうに書いてしまってある。そのあたりがなかなかなのであるな。それから、文章は吉田秀和さんのような特別立派なそれというのでもなく、しかし読みやすいプロの文章というのも、何となくそれっぽい(?)感じがする。

ちょっと話は逸れるが、吉田秀和さんは、音楽家人間性とか政治信条だとか、そういうことは少なくとも文章には一切あらわさなかった。それは吉田さん一流の考えがあってのことであるというのは確実であるが、吉田さんはどうしてもクラシック音楽は政治信条などを超えた、高級・高邁な文化活動であるという発想から(少なくとも仕事の上では)自由ではなかったと思う。さらに敷衍すると、例えば事実としては吉田さんのいうようにクラシック音楽は、例えばポピュラー音楽やジャズより「価値が高い」のかも知れないが、そういう考え方はいまという時代では残念ながら(?)通用しなくなった。いまや、political correctness(政治的正しさ)の時代であり、理念としてクラシック音楽はポピュラー音楽やジャズと同列に置かれねば許されない時代になったのである。PC はもはやよい悪いの段階を超えている。PC を基礎づけるのもまた PC なのだ。それは無限後退の矛盾であるが、ゆえに無条件で「正義」になってしまっている、なぜなら、矛盾を前提とする命題は常に真だから。

なお、わたしはクラシック音楽の方がポピュラー音楽やジャズより高級であるという考えはもたないが、それはたんに無知によるものである。クラシック音楽は多少でも聴いてきたが、ポピュラー音楽やジャズはほとんど知らないから、比較のしようがない。ちなみに、わたしの音楽体験は高校生の頃まではふつうにポピュラー音楽であり、学生のときもポピュラー音楽は意図的にそれなりに聴いて、いまでもそれらが自分の体に残っていることは確実である。じつに、いまやポピュラー音楽やジャズにまで手が及ばないというのが実情だ。

福島紀幸『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』 / ホルヘ・ルイス・ボルヘス『夢の本』

晴。

NML で音楽を聴く。■スクリャービンの十二の練習曲 op.8、二つの詩曲 op.69、三つの練習曲 op.65、他で、ピアノはドミートリー・アレクセーエフ(NMLCD)。op.8-12 とか好きだなあ。何でスクリャービンがこんなに好きなのだろう。まあ、ロマンティカーだね。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第二番 op.5-2 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。
 
HTML5 の audio タグ遊びがおもしろいので、スクリャービンの練習曲 op.42-5 を貼っておきます。ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル

メシアンの「鳥のカタログ」 ~ 第六曲 モリヒバリ、スクリャービンのピアノ・ソナタ第二番 op.19、モーツァルトの幻想曲 K.397 で、ピアノはクララ・ミン(NML)。まったく知らないピアニストであるが、選曲の巧みさに唸らされて聴かざるを得なかった。選曲はメシアンの「鳥のカタログ」から二曲、スクリャービンの二曲のソナタと「炎に向かって」、それにモーツァルトの K.397 というもので、それも配列が対称的なサンドイッチ構造になっている。とりあえず半分聴いたが、選曲の妙は見事に効いていますね。ピアノの音が甘美で、特にスクリャービンは絶品である。若いピアニストなのだろうか、ここまで聴いただけで将来性を判断できるほどの耳はわたしにはないけれども、これだけ個性的な音はなかなか稀でしょう。もちろん技術も問題ないと思う。残りを聴くのが楽しみ。

Evocation

Evocation

検索してみたところ、クララ・ミンは韓国の若いピアニストで、いまアメリカで売れているとのこと。これまで出ているディスクはほぼ NML で聴ける感じですね。


昼から米屋。肉屋。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。図書館から借りてきた、福島紀幸『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』読了。ついに読み終えてしまったかという感じ。あんまり下らぬ感想とか書きたくもないのであるが、まあ少しだけ書くか。本書は長谷川四郎の評伝というべきだろうが、長谷川四郎自身の文章が(意図的に)かなり引用してあって、わたしのように長谷川四郎をよく知らない読者には格好の長谷川四郎入門だったとしてよいと思う。そしてここに浮かび上がってくる長谷川四郎という人は、わたしにはじつに魅力的なのだが、わたしはまあそんな貧しい言葉しか持ち合わせがない。とにかく、これから(ぼちぼちではあろうが)長谷川四郎を読んでいくのは間違いないのじゃないかな。それから、本書を読んでいると、じつに多士済々であるなあと、ちょっとその時代がうらやましいような気もした。まあ、わたしが現代の才能たちをよく知らないせいもあろうが。いろいろ読んでみたい人が増えたのであるが、それはここには書かないけれど、花田清輝だけはちょっと挙げておこうかな。僕は花田清輝とは正反対のような人間なのであるが、そんなに読んでいないわけでもないし、きらいでもない、というかかなり好きである。あの、独特のスタイリッシュな文章が特に好きなのですね。でも、たくさん読んだというわけではないし、もう長いこと読んでいない。本書を読んで、図書館で花田清輝を探してみようかなという気になりました。
 しかし、ちょっとだけ思ったけれども、いまの時代だったら、長谷川四郎のような人はまったく表に出てこないでしょうね。誰も理解せず、歴史の闇の中に消えていくだけだと思う。だから、まだ具眼の士が少なからずいたかの時代は、長谷川四郎にとってはよかった。様々な理解者がいたからこそ、全集まで出たのでしょう。いまは、ホンモノは忘れられ、よいものは消えていく時代であることをわたしは確信している。あまりにも悲観的でありましょうか。けれども、現実を見つめねば、それこそ何ともしようがないのだ。
 いや、つまらぬことを書いた。じつは図書館でさっそく長谷川四郎の文庫本を借りてきています。それにしても文庫本の人である筈の自分がまったく見落としていたのだから、わたしの目もどうも大したことはないものだ。

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

 
時代遅れの人間の繰り言。ただそれであるな。


モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。■松平頼則(1907-2001)のピアノ・ソナタで、ピアノは野平一郎(NML)。

松平頼則 ピアノ作品選集

松平頼則 ピアノ作品選集

 
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『夢の本』読了。堀内研二訳。ボルヘスによる夢に関するアンソロジー。わたしのもっとも好む類の本である。

こともなし

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノは岡田美和(NMLCD)。■モーツァルトのセレナード第十二番 K.388 で、演奏はヨーロッパ室内管弦楽団ウィンド・ソロイスツ(NMLCD)。ショパンマズルカ op.30 (全四曲)で、ピアノは Antonio Barbosa (NMLCD)。

リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ op.18 で、ヴァイオリンはレヴォン・アンバルツミャン、ピアノはアナトーリ・シェルジャコフ(NML)。この曲は実際はもう少しオシャレでカッコいい曲なのだが、とりあえずは演奏してくれただけでも感謝しよう。室内楽の好きな人でもしこの曲を知らない方がいたら、お勧めしておきたいと思う。

Bartok/Strauss, R.: Violin Son

Bartok/Strauss, R.: Violin Son

 
何もしたくない。何だかものすごく眠いので夕方寝(?)。

夕御飯を食べすぎてお腹がいっぱい。


何となく聴きたくなったので、ひさしぶりに(何年ぶりのことだろう)山下達郎の『僕の中の少年』を聴く。こんなに感動するとは思っていなかった。自分はずっと忠実な山下達郎の追従者だったな。わたしにも青春というものがあったのだ。

僕の中の少年

僕の中の少年

各2分づつどうぞ。

新・東京ラプソディー

踊ろよ、フィッシュ

僕の中の少年

なお、mp3 ファイルの編集には ffmpeg を、サーバーには GitHub を使っています。

石田英敬&東浩紀『新記号論』

昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■バッハのバッハのトリオ・ソナタ第六番 BWV530 で、オルガンはベンヤミン・リゲッティ(NMLCD)。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第一番 op.5-1 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NML)。

Beethoven: Sonatas for Cello & Piano

Beethoven: Sonatas for Cello & Piano

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番 op.19 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はベルナルト・ハイティンクロンドン交響楽団NML)。ピリスには納得がいかない。特に第一楽章など、寝ぼけた dull な演奏。この曲は若々しくも潑溂とした、フレッシュな曲ですよ。ピリス(とハイティンク)の名前で釣るアルバムなのだから、これはよくないと思う。

 
晴。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー386円。一時間ぶっ通して『ぼくの伯父さん』の続きを読む。おもしろいおもしろい。どんどん読める。こちたい感想など書く気が起きない。コーヒー三杯を飲み、三章読んだところで止めにする。興が乗ってくると速く読みすぎるのはまったくわたしのよくない癖だ。

帰りに県図書館に寄る。市の図書館も悪くないが、県図書館で本を探したり選んでいるときは楽しい。さすがに県の図書館なので、本屋や市の図書館などでは思いもよらない本がそこいらに転がっている。まあ、わたしの行きつけの本屋だって決して悪くないのだけれどね。本の環境は、わたしのそれは決して悪くない。恵まれていると思う。大都市を羨むまい、田舎でこれなら上出来だ。

珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。オムカレーセット900円。満足。もちろんコーヒーもおいしい(また飲んでる)。さらに『ぼくの伯父さん』をもう一章読んでいい加減にしておく。

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

 

■ペルトの「スターバト・マーテル(ソプラノ、カウンターテノー、テノールと弦楽三重奏版)」で、指揮はクライン・クーツフェルト、レ・ヌオーヴェ・ムジケ(NMLCD)。ペルトは僕には結構微妙だな。少なくとも、現代音楽だとはまったく思わない。だからいけないとかいうわけではないが。きれいな音楽なのだけれどね。■メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.10 Le Merle de roche で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NMLCD)。■メシアンの「われ死者の復活を待ち望む」で、指揮はピエール・ブーレーズクリーヴランド管弦楽団NMLCD)。■バーバーの「遠足」 op.20 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。なかなかおもしろい。

Barber;Music for Solo Piano

Barber;Music for Solo Piano

 
内田樹氏のブログを読んでいて、30年前平成が始まったとき、世界が、日本が、こんな(ひどい)風になっているとは予想していなかった、どうして予想はここまで外れたのかというようなことが書いてあった。内田氏は30年後、日本は世界一の金持ち国の地位を謳歌していると思っていたそうである。わたしはそれはまあどうでもよいが、平成が始まったとき、時代はバブルでありわたしは学生であった。そして当時自分のまわりの同時代の人間たちを見ていて、さていまの日本は決して意外なものではないというのが現在の偽らざる感想である。わたしは別に大した人間ではないが、そのことに関してはあるいは先見の明があったといってよいかも知れない。そしてこれまでやってきた仕事によっていまの若い人たちの自分なりの像ももっているが、それもまた決して楽観できるものではない。わたしはいまの他のある種の大人たちのように、いたずらにいまの若い人たちを賛美しようとは思わない。ただ、我々よりマシかといえば、まあそうかも知れないとは思う。いずれにせよ、わたしはこれから若い人たちのやることにあまり興味はない、好きにやったらよいし、彼ら彼女らは当然そうするであろうと思っている。それよりもわたしは自分勝手にわたし自身のことが重要で、ある程度わかっていつつ何もできなかった無力に、そう、これもある程度の落とし前だけはつけておきたい気持ちだ。まあ、他人にはどうでもよいことながら。

ちなみに、わたしはいまの日本が失ったものについて、世界における経済的地位などいうものはその失った最大のものなどではないと思っている。さて、では我々は何を失ったのか。まあしかし、そんなことは時代遅れの人間の繰り言であり、もはや客観的にはどうでもよいものなのであるが。であるから、あるいはいまを謳歌する人たちに、失われたものなどない、といってもよい。なーんだ、そんなことか、であるな。


石田英敬東浩紀『新記号論』読了。

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

こともなし

晴。気持ちのよい天気だ。

昼から図書館。またいろいろ借りてくる。
和菓子「餅信」。ドラッグストア。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、チェンバロはイグナシオ・プレーゴ(NML)。この曲をゆっくり目のテンポで聴きたかった。極ふつうの演奏だと思うけれど、これで充分。

Bach, J.S.: the French Suites

Bach, J.S.: the French Suites

■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、チェンバロはイグナシオ・プレーゴ(NML)。■シューマンの「交響的練習曲」 op.13 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。ごつごつしていて上手い感じではないが、よい演奏だ。終曲の迫力も充分。しかし、ここでもシューマンの死後ブラームスによって出版された五つの変奏をどうするか、問題含みだ。確かにこれらの五曲は魅力は充分にあり、カットするのは惜しいが、シューマン自身が実際に省いたように、これを入れると全体の流れが悪くなってしまう。これは誰もいわないので僕だけの感覚かも知れないが、第一変奏から第二変奏、また第七変奏から第八変奏への推移は、個人的には絶対に中断してほしくないのだが、この演奏ではいずれもぶった切られてしまってつらい。僕はやはりこれらを敢て入れないか、それともポリーニのようにあまり邪魔にならないところにまとめて入れるか、それしかないと思うのだが、最近の傾向はその真逆で、五変奏をばらばらにしてあちこちに入れているのがふつうだ。わたしにはどうも納得できないのだが、まあこちらがおかしいのかも知れないけれども。■ショーソンの「愛と海の詩」 op.19 で、ソプラノはヴェロニク・ジャンス、指揮はアレクサンドル・ブロック、リール国立管弦楽団NML)。僕の好きなショーソン。幸福感。
Poeme de L'amour Et de la Mer / Symphonie 20

Poeme de L'amour Et de la Mer / Symphonie 20

ブラームスクラリネット五重奏曲 op.115 で、クラリネットはダニー・グラナドス、フィデリス弦楽四重奏団NML)。すばらしい名演でした。正直、感涙を禁じ得なかった。現代的な、聴き応えのある演奏。僕にはこの曲は、自分のために書かれたと感じる何曲かのひとつなのですね。モーツァルトに同編成の名曲があって、それと比較して吉田秀和さんは「かわいそうなブラームス!」と仰ったのだけれど、僕は好きなのです。まあなんとも、自分の凡庸たることを感じずにはおれません。まさにセンチメンタルな曲ですし。それにしても、終楽章の変奏曲は、よくできているな。最後に第一楽章の冒頭動機が回帰して終わるところなど、寂寥感に満ちている。
Tribute to Danny Granados

Tribute to Danny Granados

■バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、チェンバロはイグナシオ・プレーゴ(NML)。どうもこのチェンバリストはよいチェンバリストであるとの疑惑が。聴いていてなかなかよいのでジーグに注目していたところ、これは驚きました。わかってるなあ。この曲はもちろんこのジーグで生きもし、死にもするのだが、これはなかなかに見事。この人のジーグはわかってないと思われる方は、わたくしもまたわかっていないと思って下さって結構です。いや、感心した。


ボルヘスの編んだアンソロジーを読んで寝る。

吉田敏浩『横田空域』

寝る前にボルヘスの編んだ夢に関するアンソロジーを読んでいたせいであろう、昼寝程度の時間寝ただけで目が覚めてしまった。寝る前に、永遠を呼吸している本など読むものではないということであろうか。これは自分のもっとも好む類の文学書(?)なのであるが。夜明けまですらまだ何時間かあるが、すぐには眠り直せないことはわかっている。

NML で音楽を聴く。■バッハのバッハのトリオ・ソナタ第五番 BWV529 で、オルガンはベンヤミン・リゲッティ(NMLCD)。■モーツァルトのセレナード第十一番 K.375 で、演奏はヨーロッパ室内管弦楽団ウィンド・ソロイスツ(NMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第二番 op.51-2 で、演奏はアマデウス四重奏団(NMLCD)。初期のアマデウスQ、なかなかよいな。

朝、何時間か眠る。

■ペルトの「マニフィカト」、「ヌンク・ディミティス」、「七つのマニフィカト・アンティフォナ」で、指揮はクライン・クーツフェルト、レ・ヌオーヴェ・ムジケ(NML)。

MAGNIFICAT/STABAT MATER

MAGNIFICAT/STABAT MATER

 

昼からネッツトヨタで定期点検。待っている間に福島紀幸という人の『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』という本を読む。ブログ「本はねころんで」で度々紹介されていて興味をもっていたところ、図書館の新刊コーナーで見つけたので借りてきたものである。わたしは長谷川四郎自体よく知らなくて、これも同ブログで教えられたところが多く、一冊のエッセイ集以外はこれも教えられた訳書の『デルスー・ウザーラ』くらいしか読んだことはない(しかしこの訳書は非常におもしろかった。ここここに拙い感想が記してある)。しかし、読み始めたばかりだが、この評伝は興味がつきない感じだ。まず、出てくる固有名詞になつかしい名前が少なくなくて、へえ、こんな人とつながっているのかという感じ。そして、主人公の長谷川四郎という人が、わたしにはとても魅力的に思える。ぶっきらぼう、寡黙ぽくって親しみやすいのかはわからないが、人間嫌いというわけでもなくて、なかなか複雑な人というのが既に受け取れる。さて、この印象が読んでいくうちどうなるか。ネッツトヨタで読んだのは、ちょうどソ連軍の捕虜になってシベリアで強制労働に従事させられ始めるあたりまで。
 ブログ「本はねころんで」の本書関連エントリをざっと読んで、福島紀幸さんというのは長谷川四郎さんの全集の編集をされた方だというのがわかる。なるほど、わたしのような者が本書を読んでわかるのかしらと思うところもあるが、先に本書を読んで長谷川四郎さんの世界に入ってもよいわけであろう。読書の世界は深いことである。わたしなどはそのほんの一端を掠めたに過ぎぬことを痛感させられる。

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

 
『ぼくの伯父さん』を読み続ける。第三章まで読了。すごくおもしろい。いつもの自分の悪癖で、速く読みすぎる感じ。ちょっと中断しよう。
シベリアで捕虜だったときの記述が本書において極小であったのには驚いた。一瞬で終わる。なるほど、そういう書き方もあるのか。

吉田敏浩『横田空域』読了。本書の「横田空域」とは一般に「横田ラプコン」と呼ばれるもので、米軍横田基地を中心に、神奈川県から東京都、さらには遠く新潟県に至る日本の首都上空でその管制権が米軍に属するところの、その広大な空域を指す。簡単に言うと、日本の首都の上空は米軍の支配下にあって、原則的に日本の航空機が立ち入ることはできないといってよいであろう。この事実は最近ではかなり知られてきたのであるが、まずは日本人の間で一般常識になってよい、重大な事実であると思われる。
 本書はまずはその「横田ラプコン」について詳しく記述してあるものであるが、それに関しては自分には特に予想を裏切られるような記述はなかった。「横田ラプコン」は日本の「対米従属」の、そのあらわれ方のひとつであろう。そして「日米合同委員会」が「横田ラプコン」運用の根拠であるというのは、本書のいうとおり。この「委員会」の権能は日本政府のそれを上回るものである。本書で自分にとって有意義であったのは、それを超える記述があったことである。まず、日本上空における米軍の(日本政府の許可を得る必要がないという意味で)自由な活動は、実際は横田ラプコン等に限られず、無制限に日本の上空でなされているということ。実際、米軍の低空飛行訓練が無制限に実施されていることがわかっており、日本政府もそれを当然としているのである。これはさらに、「空域」、つまり空だけの話ではないこともわかっている。その根拠はほぼ謎というか、おとぎ話のような不思議なものである。
 それからもうひとつ。この米軍の活動の日本全土における制限のなさ、つまり何でもできるというのは、もともと日本政府はそれを認めていなかったのであり、恐らくそこからなし崩し的にそうなっていった原点が、ほぼ特定できたということ。これは田中角栄内閣のとき、大平外務大臣の下で、アメリカの大統領・国務長官以下による強大な圧力によって極秘にそれを認めてしまったことが本書で特定されている。これはわたしは知らなかったことである。あとは(推測であるが)一瀉千里の過程であったようだ。最初はやはり、政治家がそうしたのであったということがわかった。
 本書を読んでいままで自分の考えが進んでいなかったところをだいぶ考えさせられた。とりあえずは、現段階の「対米従属」は政治家というより、むしろ官僚の問題であると自分は思っている。自分がいま欲しているのは、対米従属の観点から見た官僚の生態学とでもいうようなものである。たぶん、いまの政治家はもはや細かいところがまったくわかっておらず、この問題においてもすべては官僚のいうがままであることが、いろいろなところから透けて見える。そこまで官僚がやってよいのかということが、特に責任意識もなく(政治家ならば、さすがに責任がないということは考えられまい)決定されてしまっている。これはおそらく彼ら彼女らの「無意識レヴェル」にまで浸透しており、もはやこれを覆すのはほぼ絶望的かとも思われる。可能性があるとすれば国民の態度如何であろうが、それもまた「対米従属」に慣らされてしまっているというのがわたし個人の実感ではある。まあ、国家に主権など必要ない、「対米従属」で何が問題かという(わたしからすれば)開き直りのような意見さえ、いまのネット上には見られる。さてはて、どうなることやら、ただ、とにかく我々はまず事実を知るべきであり、まだまだそれは充分におこなわれていないとは、わたしは思うのである。

なお、政治家の「対米従属」に関しては、与党も野党もないことは指摘せねばならない。現与党である自民党は、保守政党にもかかわらず国家主権を蔑ろにしている。現野党にあっても、旧民主党は政権時代、「対米従属」ということに関してはいまの自民党と何も変わらなかった(むしろよりひどかったくらいである)。いまの政治家に期待できることは残念ながらないという他ない。

わたしは、本当はこういう聞いた風なことは書きたくないのである。ただ、そんなことはどうでもよいといい切るのもまたどうかと思うので、書いたにすぎない。それに、実際書いてもムダではあるし。まあ、愚かなことを自分はする。それでしかない。

以下もあまり書きたいことではないが、一応書いてみる。いまツイッターを見ていて裁判所があるレイプ事件を無罪としたことに非難が集まっていて、斎藤環氏などは裁判官の名前まで挙げて揶揄していたが、これらはつまり日本の裁判官はレイプに甘い(だからクソ)という論旨だと思う。しかし、これは実際に生じていることとは少しズレているかも知れない。あくまでも自分はよく知らなくて法律の専門家の受け売りだが、ことの本質は刑法38条本文の「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」という規定にあるらしい。これがあるために、レイプする側の「合意があったと思った」という弁解をなかなか崩せないということである。裁判というのはある意味で「ルールに則ったゲーム」のようなものなので、必ずしも裁判官の意識が古い悪いオッサンだとか、そういうことではないらしいのである。これが一般的な通念からすれば法律の方がズレているとすれば、性的暴行については(交通事故のように)罪を犯す意志を前提とせず、相手に性行為への同意がなかった場合のセックスはすべて処罰されるよう、法改正が必要だということではないか。以上、素人の判断なので、まちがっているかも知れませんが。