吉田敏浩『横田空域』

寝る前にボルヘスの編んだ夢に関するアンソロジーを読んでいたせいであろう、昼寝程度の時間寝ただけで目が覚めてしまった。寝る前に、永遠を呼吸している本など読むものではないということであろうか。これは自分のもっとも好む類の文学書(?)なのであるが。夜明けまですらまだ何時間かあるが、すぐには眠り直せないことはわかっている。

NML で音楽を聴く。■バッハのバッハのトリオ・ソナタ第五番 BWV529 で、オルガンはベンヤミン・リゲッティ(NMLCD)。■モーツァルトのセレナード第十一番 K.375 で、演奏はヨーロッパ室内管弦楽団ウィンド・ソロイスツ(NMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第二番 op.51-2 で、演奏はアマデウス四重奏団(NMLCD)。初期のアマデウスQ、なかなかよいな。

朝、何時間か眠る。

■ペルトの「マニフィカト」、「ヌンク・ディミティス」、「七つのマニフィカト・アンティフォナ」で、指揮はクライン・クーツフェルト、レ・ヌオーヴェ・ムジケ(NML)。

MAGNIFICAT/STABAT MATER

MAGNIFICAT/STABAT MATER

 

昼からネッツトヨタで定期点検。待っている間に福島紀幸という人の『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』という本を読む。ブログ「本はねころんで」で度々紹介されていて興味をもっていたところ、図書館の新刊コーナーで見つけたので借りてきたものである。わたしは長谷川四郎自体よく知らなくて、これも同ブログで教えられたところが多く、一冊のエッセイ集以外はこれも教えられた訳書の『デルスー・ウザーラ』くらいしか読んだことはない(しかしこの訳書は非常におもしろかった。ここここに拙い感想が記してある)。しかし、読み始めたばかりだが、この評伝は興味がつきない感じだ。まず、出てくる固有名詞になつかしい名前が少なくなくて、へえ、こんな人とつながっているのかという感じ。そして、主人公の長谷川四郎という人が、わたしにはとても魅力的に思える。ぶっきらぼう、寡黙ぽくって親しみやすいのかはわからないが、人間嫌いというわけでもなくて、なかなか複雑な人というのが既に受け取れる。さて、この印象が読んでいくうちどうなるか。ネッツトヨタで読んだのは、ちょうどソ連軍の捕虜になってシベリアで強制労働に従事させられ始めるあたりまで。
 ブログ「本はねころんで」の本書関連エントリをざっと読んで、福島紀幸さんというのは長谷川四郎さんの全集の編集をされた方だというのがわかる。なるほど、わたしのような者が本書を読んでわかるのかしらと思うところもあるが、先に本書を読んで長谷川四郎さんの世界に入ってもよいわけであろう。読書の世界は深いことである。わたしなどはそのほんの一端を掠めたに過ぎぬことを痛感させられる。

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

ぼくの伯父さん: 長谷川四郎物語

 
『ぼくの伯父さん』を読み続ける。第三章まで読了。すごくおもしろい。いつもの自分の悪癖で、速く読みすぎる感じ。ちょっと中断しよう。
シベリアで捕虜だったときの記述が本書において極小であったのには驚いた。一瞬で終わる。なるほど、そういう書き方もあるのか。

吉田敏浩『横田空域』読了。本書の「横田空域」とは一般に「横田ラプコン」と呼ばれるもので、米軍横田基地を中心に、神奈川県から東京都、さらには遠く新潟県に至る日本の首都上空でその管制権が米軍に属するところの、その広大な空域を指す。簡単に言うと、日本の首都の上空は米軍の支配下にあって、原則的に日本の航空機が立ち入ることはできないといってよいであろう。この事実は最近ではかなり知られてきたのであるが、まずは日本人の間で一般常識になってよい、重大な事実であると思われる。
 本書はまずはその「横田ラプコン」について詳しく記述してあるものであるが、それに関しては自分には特に予想を裏切られるような記述はなかった。「横田ラプコン」は日本の「対米従属」の、そのあらわれ方のひとつであろう。そして「日米合同委員会」が「横田ラプコン」運用の根拠であるというのは、本書のいうとおり。この「委員会」の権能は日本政府のそれを上回るものである。本書で自分にとって有意義であったのは、それを超える記述があったことである。まず、日本上空における米軍の(日本政府の許可を得る必要がないという意味で)自由な活動は、実際は横田ラプコン等に限られず、無制限に日本の上空でなされているということ。実際、米軍の低空飛行訓練が無制限に実施されていることがわかっており、日本政府もそれを当然としているのである。これはさらに、「空域」、つまり空だけの話ではないこともわかっている。その根拠はほぼ謎というか、おとぎ話のような不思議なものである。
 それからもうひとつ。この米軍の活動の日本全土における制限のなさ、つまり何でもできるというのは、もともと日本政府はそれを認めていなかったのであり、恐らくそこからなし崩し的にそうなっていった原点が、ほぼ特定できたということ。これは田中角栄内閣のとき、大平外務大臣の下で、アメリカの大統領・国務長官以下による強大な圧力によって極秘にそれを認めてしまったことが本書で特定されている。これはわたしは知らなかったことである。あとは(推測であるが)一瀉千里の過程であったようだ。最初はやはり、政治家がそうしたのであったということがわかった。
 本書を読んでいままで自分の考えが進んでいなかったところをだいぶ考えさせられた。とりあえずは、現段階の「対米従属」は政治家というより、むしろ官僚の問題であると自分は思っている。自分がいま欲しているのは、対米従属の観点から見た官僚の生態学とでもいうようなものである。たぶん、いまの政治家はもはや細かいところがまったくわかっておらず、この問題においてもすべては官僚のいうがままであることが、いろいろなところから透けて見える。そこまで官僚がやってよいのかということが、特に責任意識もなく(政治家ならば、さすがに責任がないということは考えられまい)決定されてしまっている。これはおそらく彼ら彼女らの「無意識レヴェル」にまで浸透しており、もはやこれを覆すのはほぼ絶望的かとも思われる。可能性があるとすれば国民の態度如何であろうが、それもまた「対米従属」に慣らされてしまっているというのがわたし個人の実感ではある。まあ、国家に主権など必要ない、「対米従属」で何が問題かという(わたしからすれば)開き直りのような意見さえ、いまのネット上には見られる。さてはて、どうなることやら、ただ、とにかく我々はまず事実を知るべきであり、まだまだそれは充分におこなわれていないとは、わたしは思うのである。

なお、政治家の「対米従属」に関しては、与党も野党もないことは指摘せねばならない。現与党である自民党は、保守政党にもかかわらず国家主権を蔑ろにしている。現野党にあっても、旧民主党は政権時代、「対米従属」ということに関してはいまの自民党と何も変わらなかった(むしろよりひどかったくらいである)。いまの政治家に期待できることは残念ながらないという他ない。

わたしは、本当はこういう聞いた風なことは書きたくないのである。ただ、そんなことはどうでもよいといい切るのもまたどうかと思うので、書いたにすぎない。それに、実際書いてもムダではあるし。まあ、愚かなことを自分はする。それでしかない。

以下もあまり書きたいことではないが、一応書いてみる。いまツイッターを見ていて裁判所があるレイプ事件を無罪としたことに非難が集まっていて、斎藤環氏などは裁判官の名前まで挙げて揶揄していたが、これらはつまり日本の裁判官はレイプに甘い(だからクソ)という論旨だと思う。しかし、これは実際に生じていることとは少しズレているかも知れない。あくまでも自分はよく知らなくて法律の専門家の受け売りだが、ことの本質は刑法38条本文の「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」という規定にあるらしい。これがあるために、レイプする側の「合意があったと思った」という弁解をなかなか崩せないということである。裁判というのはある意味で「ルールに則ったゲーム」のようなものなので、必ずしも裁判官の意識が古い悪いオッサンだとか、そういうことではないらしいのである。これが一般的な通念からすれば法律の方がズレているとすれば、性的暴行については(交通事故のように)罪を犯す意志を前提とせず、相手に性行為への同意がなかった場合のセックスはすべて処罰されるよう、法改正が必要だということではないか。以上、素人の判断なので、まちがっているかも知れませんが。