中川右介『巨匠たちのラストコンサート』

曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。どうでもいいけれど、NML の時間表記がめちゃくちゃなことが結構あるな。この曲が 13分で終わる筈ないでしょ。■モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNML)。いわゆる「リンツ」。モーツァルトの音楽がいかに推進力をもっているか、よくわかる。ブリュッヘンは、二十世紀後半を代表する古典的指揮者のひとりであるな。稀な人だった。

Mozart: Symphonies No.28 & 36

Mozart: Symphonies No.28 & 36

モーツァルトのピアノ協奏曲第九番 K.271 で、ピアノはルドルフ・フィルクシュニー、指揮はジョージ・セルロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NMLCD)。これはすばらしい演奏。名演といって差し支えあるまい。フィルクシュニーもセルもすばらしいな。この曲はモーツァルトも気合を入れて書いている感じだしな。■メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.11 La Buse variable, No.12 La Traquet rieur で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NMLCD)。

山形さん。

うーん、前回かなり気合いを入れたつもりなのに、反応が薄くてがっかりですよ。減価償却ガー、といったあたりですでにかなりみんなの理解力を超えたということなのかしら。

https://cruel.hatenablog.com/entry/2019/03/18/235006

え、反応薄かったの? でも、こういう中身のあるエントリが消化されるには時間がかかるので、がっかりしなくても、と思うのだけれど。しかしこの人はマジで真のエリートだな。こういう人こそが本当に人のためになることを(何にもいわずに)やっているのですよ。えらいなあ。僕は山形さんはあまり好きではないけれど、ほんとにリスペクトしているのだ。

ネッツトヨタでタイヤ交換。代車で帰ってくる。また夕方取りにいくのだ。

ヤナーチェクのピアノ・ソナタ 「1905年10月1日、街頭にて」で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NML)。

Réminiscences

Réminiscences

■ニムロッド・ボーレンシュタイン(1969-)の「幼年時代の思い出」 op.54 で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NML)。■松平頼則の「六つの田園舞曲」、「歌 I (呂旋法による)」、「歌 II (律旋法による)」、他で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。

車、返ってきた。代車とはだいぶ感覚がちがうな。自分の車はハイブリッドなので、アクセルのタッチに遊びが大きい感じ。なので、代車はアクセルを踏むとすぐにぐわっときて、ちょっと慣れなかった。ブレーキも固すぎる感じだったな。
タイヤのお値段は結構しましたね。これだけ乗って初めての交換だから、まあ保った方かな。


図書館から借りてきた、中川右介『巨匠(マエストロ)たちのラストコンサート』読了。いやー、なかなかおもしろかったね。著者は「クラシックジャーナル」の編集長らしい。わたしはこの雑誌は一二度立ち読みしたくらいしか知らないのだが。本書のおもしろい理由は、まずは「正直」、そして「俗っぽい」という感じがするためではないか。著者はとにかくカラヤンが好きだ。著者は本書で、この国で「カラヤンが好き」というのは直ちに音楽がわかっていないと見做されることをはっきり書いている。で、それとよく比較されて神格扱いされるフルトヴェングラーなどは、カラヤン信者の立場から「倒すべき敵」だとすら書く。いや、なんという俗物!と思われることであろうが、あんまり著者のいうことをそのまま鵜呑みにしてはいけない。著者は、いかに「高級な趣味」であるとされるクラシック音楽の「鑑賞」ですら、我々人間のすることであるから「俗っぽさ」を払拭できないということをよく知っているのだ。わたしは著者の音楽理解に関しては違和感を覚えるところ少なくないが、俗っぽさを排除しない著者の音楽との関わり方には、どこか爽快なものを感じずにはいられないのである。例えば本書にはロストロポーヴィチの「高邁な政治活動」がじつはかなり問題含みであることを丹念に記述しているところがあるが、そんなことは音楽に関係ないと思われるかも知れない。確かにそれは音楽には関係がないのだが、しかし、生きるということに関係があることは確実である。それは音楽を深く聴く助けにはならないが、音楽は生きることと深く繋がっていることを汲んでいるのだ。ちなみに著者は、けれども例えば政治を音楽の中に混ぜるようなことはまずしない。きちんと節度を守っているように思われる。ちょっと褒めすぎですか? ああ、本書の内容について何も書かなかった。いや、題名どおりです。おもしろかった。

巨匠たちのラストコンサート (文春新書)

巨匠たちのラストコンサート (文春新書)

なお、著者がカラヤン信者であることは上に書いたが、本書ではカラヤンの俗物たることを示すようなエピソードも別にふつうに書いてしまってある。そのあたりがなかなかなのであるな。それから、文章は吉田秀和さんのような特別立派なそれというのでもなく、しかし読みやすいプロの文章というのも、何となくそれっぽい(?)感じがする。

ちょっと話は逸れるが、吉田秀和さんは、音楽家人間性とか政治信条だとか、そういうことは少なくとも文章には一切あらわさなかった。それは吉田さん一流の考えがあってのことであるというのは確実であるが、吉田さんはどうしてもクラシック音楽は政治信条などを超えた、高級・高邁な文化活動であるという発想から(少なくとも仕事の上では)自由ではなかったと思う。さらに敷衍すると、例えば事実としては吉田さんのいうようにクラシック音楽は、例えばポピュラー音楽やジャズより「価値が高い」のかも知れないが、そういう考え方はいまという時代では残念ながら(?)通用しなくなった。いまや、political correctness(政治的正しさ)の時代であり、理念としてクラシック音楽はポピュラー音楽やジャズと同列に置かれねば許されない時代になったのである。PC はもはやよい悪いの段階を超えている。PC を基礎づけるのもまた PC なのだ。それは無限後退の矛盾であるが、ゆえに無条件で「正義」になってしまっている、なぜなら、矛盾を前提とする命題は常に真だから。

なお、わたしはクラシック音楽の方がポピュラー音楽やジャズより高級であるという考えはもたないが、それはたんに無知によるものである。クラシック音楽は多少でも聴いてきたが、ポピュラー音楽やジャズはほとんど知らないから、比較のしようがない。ちなみに、わたしの音楽体験は高校生の頃まではふつうにポピュラー音楽であり、学生のときもポピュラー音楽は意図的にそれなりに聴いて、いまでもそれらが自分の体に残っていることは確実である。じつに、いまやポピュラー音楽やジャズにまで手が及ばないというのが実情だ。