エコクリティシズム批判 / 「徒然チルドレン」(2017)を観る

薄曇り。
 
昼。
自動車保険の保険屋が来る。
 
読書しようと「ひぐち」へ行ったら定休日だった、ボケていたな。
ドラッグストアで牛乳と歯磨き粉とかっぱえびせんを買う。
 
庭の花たち。

ネモフィラと芝桜。

桃。

クズ球根のチューリップだが、小さいのが却ってかわいらしい。


椿(ツバキ)二種。
 
 
図書館から借りてきた、結城正美『文学は地球を想像する――エコクリティシズムの挑戦』(2023)をテキトーに速読した。テキトーにしか読めなかったのでもしかしたらいい加減なことをいうかも知れないが――まあ、頑張っているところもあるけれど、根本的にダメ本であると思う。著者はいろいろむずかしい理屈を頑張ってこねているが、言語というものがそもそも「自然(=現実)からの疎外」であるという基本的事実に気づいていない。おそらく、本書でいうエコクリティシズム自体が、それに気づいていないのだと思う。どれだけ言葉を費やそうが、象徴構造は現実(=自然)より貧しい、ということが押えられていない。言葉は、「自然」の代わりにはならないのである。
 ただ、別の観点から見ると、優れた「文学」の如きが「自然を感受する感性」を涵養する、ということはあるかも知れない。(本書でも言及されている)石牟礼道子、あるいは大江健三郎の小説など、まるで自然のように複雑に絡み合った「豊かな」テクストが、こちらにセンサーを作り上げる可能性は、読み手によってはあり得る。しかし、それらの作家は例外的存在であり、実際、象徴構造に還元されない「豊かな」テクストはいまやめったに書かれることがないし、また我々の貧しさゆえ、そのようなテクストから富が得られることもめったにない。そして、本書は例えばいくら石牟礼道子を喋々しようが、そのような豊かなテクストでない。
 エラソーでマジごめん。

もちろん、わたしのこのブログだって、その意味で貧しいんだぜ。それはわかっている。
 
 
夜。
徒然チルドレン』(2017)第12話(最終話)まで観る。一話12分半のショートアニメ。いやこれ、笑った笑った、大爆笑。でもってキュンキュンする神ラブコメ。ラスト、マジで泣いたわ。最初は、絵柄が合わねーなーとか思ってたんだが、観ていくうちにこれはこれでストーリーにぴったりと感じるようになった。たくさんのラブストーリーが同時進行するというもの、皆んなはどの二人が好き? いやー、我ながらキモすぎるおっさんだが、じつによかったよ。騙されたと思って観てみ。
 原作は四コママンガなんだな、その雰囲気はよく出ている。

「葬送のフリーレン」(2023)を観る

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ベルクのピアノ・ソナタ op.1 で、ピアノはイヴォンヌ・ロリオNMLCD)。■シェーンベルク弦楽四重奏曲第三番 op.30 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット (NML)。

Schoenberg: Chamber Music

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モーツァルトピアノ三重奏曲第三番 K.502 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。さっぱりして気持ちがよい。
 
二度寝。晴。
 
シェーンベルクの管楽五重奏曲 op.26 で、演奏はウィーン管楽合奏団(NML)。ウィーン・フィルのメンバーによる驚くべき名演。この聴きにくい曲を優雅に、鋭くもやわらかく、古典的にして前衛的に、完璧な技術でもって演奏している。現代の奏者たちでも技術的に完璧に演奏するだろうが、ここまでの典雅さを醸し出しながらは不可能だろう。1976年の録音。 
Debussy: La mer | Bernard Haitink and the Royal Concertgebouw Orchestra | YouTube
ハイティンク+コンセルトヘボウ管によるドビュッシーの「海」。定番的演奏。
 

 
昼食に桜エビと(自家製)ショウガの炊き込みご飯。
 
県営プール。いい天気(外気20℃)、そこそこ人が来ていた。
帰りに肉屋。外へ出るのに上着を着ない季節になったな。
 
 
録画しておいた BS日テレの「読響プレミア」にて、藤田真央(1998-)のピアノでブラームスのピアノ協奏曲第二番 op.83 を聴く。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ、読売日本交響楽団。2024.1.10 のライブ録音。
 藤田は全体的にまあまあというところ。国内の若手ピアニスト(そんなに知っているわけではない)では、頭ひとつ抜けた才能をもっていると思う(ただ、わたしの独断では、福間洸太朗に及ばない)。この曲はたいへんな難曲だが(素人なりにしか知らない)、それなりに聴かせる。ただ、第二楽章の冒頭を聴いても、藤田はもしかしたらパワー不足ではないか(それもあって、この楽章は途中から飛ばした)。第三楽章のようなじっくり聴かせる音楽はぴったりで、これがこの演奏のベストだと思う。終楽章はブラームスがユーモアや軽みを見せているめずらしい例だが、藤田はそこまで表現し切れていなかった。
 ヴァイグレ+読響は初めて聴いたが、凡庸で、特に語ることを見い出せなかった。
 繰り返すが、藤田は国内レヴェルではいいと思う。この演奏も、(第二楽章以外は)ちゃんと聴けた。しかし、才能はあるが、パワー不足というのはどうなんだろうか。これからの練習でカバーできるのか。
 エラソーでごめんね。
 
MyBooks.jp でブログ(2024.1.1~2024.3.31)を書籍化する。PDFを確認後、注文確定。
 
 
夜。
『葬送のフリーレン』(2023)第28話(最終話)まで観る。すばらしいアニメだった。原作に忠実だったが、そうすれば傑作になるとも限らないんだよね。魔法戦闘のおもしろさだけでも一級品だが、人間ドラマとしてもよくできていた。坦々としたたわいもない話だけなのに、惹きつけられてあっという間に一話が終わったり。
 もちろん、作画、音楽も最高レヴェル、特に OP1曲の YOASOBI 「勇者」はアニメに合わせてチューニングされていて、じつに YOASOBI はまさに覇権フラグみたいになってるな。いやー、うまく形容する言葉がないが笑。2期はいつになるのかな、しかし、原作ストックはあるのか? ちょうどわたしの知っているところまでで、アニメが終わったんだが。

パウル・シェーアバルト『小遊星物語』 / 四方田犬彦『詩の約束』

日曜日。晴。黄砂か。
 
ドラッグストア。スーパー、野菜が高い。なんでこんなにというくらい。老父の畑の野菜は、端境期なんだよねー、それで買わざるを得ない。
まわりの低山に山桜のピンクが点在する。一気にだな。
庭が花で埋め尽くされている。モンシロチョウだけでなく、アゲハチョウが飛び始める。
 
昼。曇。
長時間、ごろごろぼーっとする。空疎。この空疎さこそがわたしでないと、誰にいえよう。何の価値もない、意識の空白であり、たんなる怠惰である。こんなことをいくら繰り返したところで、精神の高みに至ることなどまちがってもあり得ない。意味のあることばかりしておられる忙しい現代人である皆さんに、何やら申し訳ない気持ちでいっぱいではないか。
 
パウル・シェーアバルト『小遊星物語』(平凡社ライブラリー版1995)読了。種村季弘訳、附「宇宙の輝き」。承前。前にも記したが、イナガキタルホ的無用の書。こういう本は精神の健康にいい。じつに種村さんらしい翻訳だ。

 
四方田犬彦『詩の約束』の続きを読む。おもしろい。
こういう言い方はよくないかも知れないが、四方田犬彦という人は死後に正当に評価されるかも知れないな。生きているうちは、リアクションに困る人、っていう扱いを受けているような気がする。死後、四方田犬彦全集は出るのか。著作集ならまだ現実的だが、それだけ彼の文章に愛着をもつ編集者、出版社があるのだろうか。でも、将来、読みたい人は単行本を苦労して探す(ま、いまはネット古書で、金さえ出せばすぐに集まってしまうだろうが)、というのがふさわしい文筆家かも知れない。
 
夜。
四方田犬彦の続きを読む。しかし、わたし程度が四方田の詩論を読むとは、何ごとであるか。いったい、そんなことが許されるのか。猫に小判とは、このことだろう。
 
図書館から借りてきた、四方田犬彦『詩の約束』(2018)読了。著者はこの貧困な時代に、豊かさを体現するという時代錯誤的行為をなしている。人文学の仮想的な統一アーカイブを参照しながら詩を語るとは、何という贅沢だろう! 我々という貧困な時代に読書する者たちは、そのような「統一アーカイブ」の存在が煩わしくて仕方がない。もはやそれは重荷であり、そんなものを背負って歩くのは、耐えられないのである。それが現代における(敢ていうが)資本主義的な(精神の)貧困そのものだ(そのような貧しさは、資本主義の否応なくもたらす害悪の中でもトップクラスのそれである)。何も知らない、無知の中に生きる我々に、言葉は重層的でなく、軽さの極みである。いってみれば、我々の言葉には様々な風味をもつ、歴史的コノテーションそのものが貧しいのだ。

わたしにとって詩とはとりあえず何か / 「旦那が何を言っているかわからない件」(2014)を観る

晴。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。エビグラタンパイ+ブレンドコーヒー446円。少し年配の男性が、めずらしいことにひとりでずっと読書していた。単行本で、誰の本かはわからなかったが。岐阜という田舎で、読書する人を見かけるのはめったにないことである。
 四方田犬彦『詩の約束』(2018)を読み始める。わたしは四方田さんのよい読者でないが、これはとっても惹かれる。人文学の全領域にわたる博識、ペダンティックな博覧強記を見せつける、圧倒的に「豊かな」本だ。いま読んだだけでも、中世イランの世界的詩人ハーフィズから始まり、日本では萩原朔太郎をかすめて西脇順三郎寺山修司を経、谷川俊太郎に至る、錚々たる詩人たちが取り上げられている。そこに、パゾリーニ(わたしはパゾリーニがまず詩人であり、映画監督としてはのちの姿であることを初めて知った)や西條八十、平岡公威(三島由紀夫)のほとんど知られていない詩を挟み、また、T・S・エリオットエズラ・パウンド吉田健一について言及する。たった90ページ読んだだけで、すでにこれだ。「豊か」、と言わざるを得ないではないか。
 さて、わたしは「詩」をどう考えるか。暫定的にではあるが、記し留めておこう。わたしにとって詩とはまず、世界から立ち上がってきた「存在」(ポエジー)を名付ける行為である。その際、「存在」が我々の身体性を通過し、集合的無意識ユングから言葉を借りたが、ユング心理学の意味ではない)の「函数」として迸り出るのが「韻律」である。
 吉本さんは、古代人が海を見て「う」といった、それが「うみ」という言葉の原初である、というようなことをかつていって、柄谷行人らの嘲笑をかった。しかし、わたしには、柄谷行人(ら)の(近代的言語理解に基づくであろう)嘲笑は、底が浅いように思える。この問題に関しては、吉本さんが「正しい」と、わたしは思う。
 ま、そんなことはいい。本書の四方田さんは、たぶんこの柄谷行人を支持するように思える。ここで「詩」は、国語の全歴史における表現活動の末として、つまり「文学」として理解される。ところで、現代日本において詩は既にほとんど無意味になっている。それは、我々にもはや「存在」が立ち上がってこないこと(存在忘却)と、「集合的無意識」の貧困化の二つの側面から理解できるとわたしからは理解される。
 とでもいってみる、あくまでも暫定的にだが。
 
まあ、わたしに文学はわからないし、だから「詩」もわからないんだけれどね。我々の心は既製品の「言葉」で埋め尽くされている。我々はコンテンツの残骸によっていわば擦り切れていて、もう何も感じない。それが「知的である」ということである。
 

 
昼。曇、あるいは黄砂か。
老母がドラッグストアへ歩いて大量買い出しにいってふらふらになって帰ってきたので、昼食にパスタを作る。
 
ごろごろぼーっとする。
 
旦那が何を言っているかわからない件』(2014)第13話(最終話)まで観る。一話3分半のショートアニメ。わはは、クッソワロタ。ひさしぶりに超下らんアニメ、観たな。これ、オタクの旦那じゃなくて、妻のカオルちゃんの方が主人公かな。オタクの旦那が何をいってるか、よくわからんカオルちゃんだけど、夫婦仲円満でとにかくイチャコラしている。最後、おめでたでよかったね。2期もあるから観よう。

 
寝ころがりながら iPad miniシューマンのピアノ協奏曲を聴く(NML)、テキトーに聴いていたのだが、アラウのピアノはさすがで、思わず耳を欹てた。モーツァルトクラリネット五重奏曲を聴く(NML)。
 
夜。
だらだらしながら iPad miniモーツァルトの「グラン・パルティータ」を聴く(NML)。Decca のウィーン管楽八重奏団の録音がまとめて NML に入ったな。どれもハイレヴェル(だろう、たぶん)。
 
『葬送のフリーレン』第21話まで観る。フォル爺の回は泣いた。ザインなんて僧侶、いたんだな、忘れてたが、いいキャラだ。第18話から一級魔法使い選抜試験で、初めて対人戦闘が出てきてもう震えちゃう。どうやら、原作の既読のところまでくらいでアニメも終わりそうだが…。

こともなし

昧爽起床。風雨強し。
朝食に昨日買ってきたドーナツを食う。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第二番 K.498 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。実直で地味な、これで充分な演奏。自分(たち)は才能ある演奏家なんだぞ、みたいな衒いがまったくなく、気持ちがよい。いわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」で、もともとクラリネットヴィオラ、ピアノという特殊な編成だが、ここではクラリネットの代わりにヴァイオリンで演奏されている。
ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はリッカルド・ムーティフィラデルフィア管弦楽団NMLCD)。マジメで、ダサく、古くさく、田舎くさいブラームスが大好きだ。また、ムーティの演奏がとってもいい。でもね、古くさいっていったって、ご存知のとおり、シェーンベルクに「進歩主義ブラームス」って論文があるし、晩年の武満さんも、ブラームスを認めていたんだぜ。まあ、ブラームスの「新しさ」を強調するつもりはなくて、ブラームスはそこからいろんな方向へ行ける十字路なのであり、バッハやベートーヴェンの方へ行ってもいいし、現代音楽、人文学、あるいはアニメへすら行けるんだと、わたしは思う。
ベートーヴェン交響曲第三番 op.55 「英雄」で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。マッケラスという天才を聴け。
 
 
昼。雨あがる。
ウチの桜開花。残念ながら、コンデジのピントがうまく合わず撮れない。去年の開花は 3.19 なので、他でもいわれているように、今年はだいぶ遅い。
 
松田聖子/一千一秒物語 | YouTube
先日その一部が頭に浮かんで、いったいなんだっけってなった曲。詞をよく吟味して(?)曲名を思い出した。1981年のリリース、わたしは中学生か(松田聖子のたぶん最初の4枚のアルバム、カセットテープでもっていた筈である。いまなら高く売れたかも)、若い頃の記憶力はすごいな。詞は松本隆、曲は大瀧詠一で、もちろんイナガキタルホをイメージしているわけである、高級ですな。なんたって「空にペイパームーン/銀のお月様」ですよ。
 
 
いい天気で外気21℃と、車内は陽射しで暑いくらい。珈琲工房ひぐち北一色店にて、種村季弘訳のシェーアバルト『小遊星物語』の続きを読む。承前。いい季節になって、コーヒーを飲みながら読書していると、眠くなってくる。あまり集中できず、70ページほど読んで切り上げる。外は青い空に白い雲、になってきた、もう春も闌(たけなわ)だ。
 

光の方向が変わって、開花した桜をなんとか撮れた。

まだオトメツバキ。
 
 
夜、中沢さんを読み返す。
 
吉本隆明全集27』を読む。吉本さんはいまの「加速主義」に近いことをいっている。ある種のエコロジーなど、進歩する科学・技術を制限するのはまったくダメで、むしろ資本主義を「加速」することで、科学・技術を進歩させてその力で問題を解決すべき、という考え方である。
 確かに、資本主義を前提とする限り、それは正しいし、それ以外の正解はない。さらに、資本主義のオルタナティブはいまのところ存在しない。ゆえに、吉本さんの発想は正しい、となる。
 しかし、そういうやり方は、持続可能でない、という考えは、わたしごときには説得力をもってしまう。資本主義は常に拡大するしかなく、それではいずれにせよ、自然からの収奪に限界が来る。我々は、常なる拡大で、みずからを破滅させてしまう、そういう未来にリアリティが感じられるような時代が、来てしまった。それが「人新世」である。
 たぶん人類には「加速主義」しか選択肢がなく、デッドエンドは避けられない未来であると、わたしには思われる。まあ、地球環境なんぞどうなろうが、我々大衆は自分の日々のおまんまのことだけ、考えていればいいのさ、てか。
 それから、吉本さんは都会っ子なので、自然というものに触れ合う感覚がほとんどない。たぶん、自然がめちゃめちゃに破壊され、生活環境が都会しかなくなっても、吉本さんは何の痛痒も感じなかったであろう。実際いま、地方の人間ですら、自然の中で生きる感性を大きく失ってしまっているし、そもそも地方にその中で生きるべき自然がなくなっているところが多い。むろん、大部分の人間に、そんなことがどうでもいいのは、よくわかっているし、実際どうでもいいのかも知れない。

李琴峰『肉を脱ぐ』

未明起床。曇。
 
昼寝。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。家族の分 6個と、わたしのはエンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。祇園辻利とのコラボのせいだろう、列が出来てめっちゃ並んでいた。わたしも家族の分のうち 4個はそのコラボ商品。
 全部でドーナツ 7個買ったわけだが、店の人が「8点ですね」というので、アレ、7点じゃないのというと、コーヒーの分もですと返されて、ああ、ごめんなさいと納得笑。
 図書館から借りてきた、李琴峰さんの『肉を脱ぐ』(2023)を一気に読み切る。じつに不愉快の詰まった長篇(いや、中篇かな?)で、おもしろかったというのは変かも知れないが、でも、おもしろかった。
 いままで読んだ李琴峰さんの小説とはちがい、ネガティブな話。主人公はレズビアンで、SMショーを実体験してみたりという描写はあるが、それは(いままでとちがい)本作ではあまり重要ではないと思う。主人公は会社勤めをしながら小説を書いているという設定だが、なにより自分の肉体性が不愉快な人として描かれている。肉体は魂の牢獄、という感じで、反出生主義的なところもあり、とにかく生きるのが不愉快でしかたがない。
 駆け出しの(売れない)小説家として、エゴサをして不愉快になったり、他人が評価してくれなくて不愉快になったり、他人と自分を比較して不愉快になったり、果ては SNS でトラブルになる。ラストの描写はちょっとわかりにくいが、バッドエンドであることは確かだろう。
 なんでこんな陰気な小説がおもしろいのか、よくわからないが、読ませる筆力のせいもある。しかし、著者はマイノリティ(の苦しみ)を描きながら、基本的にポジティブな人、いや、ポジティブな小説を書く人だと思ってきたので、そこはちょっと気にならないでもなかった。主人公は、これまで生きてきて、シンプルに楽しかったことが何もなかったかのように、読める。容姿も凡庸、能力も凡庸。そして、他人と自分を比較して苦しんで、嫉妬したり、そうやってネガティブ・スパイラルに陥っていく。確かに、いまのネット時代、これは我々に避けられないことなのかも知れない。わたしも、この負のスパイラルから、どうやって脱出したらよいのか、よくわからないのだ。その意味で、現代的な小説といっていいのだと思う。

まあ、刺激というもののほとんどない田舎で家族とだけ暮らすわたしには、関係ないような東京の小説だが、それでもおもしろかったのは不思議だな。なんか、活を入れられるような感じもする。李琴峰さんはもっと読むつもり。
 
帰り、雨になる。肉屋、ガソリンスタンドに寄る。
 
世の中、かわいくてエロい女の子に満ちていて、男はバカだからそういうのが好きだが、それが多くの女性を苦しめている。これって、誰が悪いの? 我々バカな男が悪いの? フェミニズムはそれを「ルッキズム」と名付けて、差別だと糾弾する。わたしのようなバカな男にも、それがわからないことはない。で、どーすんのさ。むずかしすぎて、わたしなどはどうしていいかわからない。
 

 
夜。雨強し。
【主題歌解禁】TVアニメ『狼と香辛料 MERCHANT MEETS THE WISE WOLF』本予告/2024.04.01 25:30~ ON AIR | YouTube
うーん、『狼と香辛料』リメイク版、観るかどうか微妙だなー。ホロは萌えキャラじゃないんですけど。3期作ってくれれば、よかったのに。海外でたいへんに人気のある作品だから、それを当てこんでいるんだろうけど。
 
『葬送のフリーレン』第11話まで観る。うん、うろ覚えでああこんなだったかと思い出すけれど、原作よりいいな。魔族との初めての本格的な戦闘がおもしろかった。中二病的なのじゃなくって、地味で大袈裟でないのがこの作品らしい。でも、タイトル回収のところは震えたね。これ、いい作品。YOASOBI の OP曲も毎回楽しみ。

タラの芽はうまいが、何がうまいのかわからない

晴。
よく寝た。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第一番 K.496 で、ヴァイオリンはヴィルモーシュ・サバディ、チェロはチャバ・オンツァイ、ピアノはマルタ・グヤーシュ(NML)。三日前にピリス、デュメイ、ワンで聴いたせいで、この曲が頭に残っていた。過不足ない、ごくふつーの演奏で、これに至るまで NML を結構探した。ハンガリーの堅実な音楽家たちという感じで、この中ではマルタ・グヤーシュ(ハンガリー人なので、グヤーシュ・マルタの順に表記すべきかも知れないが、いちおう NML のそれに従った)がピアノ教師としてわりと検索に引っ掛かる。たぶん、有名な演奏でも何でもないと思うが、よかった。

 
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番|メナヘム・プレスラー、パーヴォ・ヤルヴィ、パリ管弦楽団 | YouTube
メナヘム・プレスラー(1923-2023)、全然知らないおじいさんだ、指もちょっと回っていないところがある。でも、絶品モーツァルトだ、高評価1万超えも納得。たぶん、現代音楽とか、あまり弾いたことがないんじゃないか、オーソドックスで、自分の芸術を大切に磨いてきて、玲瓏玉のごとくなった、というすばらしい例である。若い人は、こういうのを退屈っていっちゃあ、いけないんですよ。
 パーヴォ・ヤルヴィは現代の人気指揮者の中で、わたしは好感をもっている。ここでもきちんとモーツァルトが振れていて、プレスラーを温かく包んでいるのが好ましい。2012.10.17 のライブ録音。
 そうか、メナヘム・プレスラーさんはボザール・トリオの設立者か。じゃあ、全然知らないわけじゃなかったな。99歳まで長生きされた。庄司紗矢香とのデュオ・アルバムがあるんだな、NML には入っていないが。
 
 
すごくいい天気。ウラの紫の木蓮が蕾いっぱいで、少し咲き始めている。庭のムスカリもきれい、チューリップがにょきにょき立っている。庭や畑が花だらけになってきた。
スーパー。近くの早い桜(エドヒガンか?)、咲く。
ツバメ来る。毎年いちばん早い場所で見かけた。うれしい。少しずつ、季節が進んでいく。
 
昼。
県営プール。日野の岐阜環状線から鵜飼い大橋を渡り、長良川沿いに下るルート、好天ですばらしい景色。眼で撮影できたらなと思う。

上は岐阜メモリアルセンター駐車場脇の通路から。外気18℃、泳いでいていい気持ち。
 プールから出てポカリスエットを買おうと自販機のボタンを押したら、伊藤園の特濃コーンポタージュが落ちてきた。まちがったのを押したかと思わず見返したが、そもそもこの商品はここで売っていないのである。まあ、なんだか知らないけど、当たりだと思おう。ポカリスエットを買い直す。
 
75分散歩。

ウチのムスカリ(青)とハナニラ(白)。

ウチの木蓮

畑の上の電線で一日中ぴいぴい鳴き続けるモズ。子どもらしい。

鷺(サギ)。

ナズナ。いわゆるペンペン草。

道路が通るとなくなる風景なので、いまのうちに目に収めておく。

ヒヨドリ

ムスカリ

タンポポ

オキザリス、らしい。


菜の花。


ネモフィラ

左奥の小高いのは前一色山。





世界が美しく、とてもカメラには入らない。
 
夜。
プールへ行った上に強風の中を散歩したので、花粉症がひどい。
 
夕飯に鱈(タラ)とタラの芽の天ぷらを食う。タラの木が庭に生えていて、その「芽」は旬の味。もちろんうまかったのだが、タラの芽の「うまさ」って何だろうねって話になる。例えば、甘いわけでも、旨味成分があるわけでもない。たぶん、子供にはわからないそれだろう。
 
早寝。