わたしにとって詩とはとりあえず何か / 「旦那が何を言っているかわからない件」(2014)を観る

晴。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。エビグラタンパイ+ブレンドコーヒー446円。少し年配の男性が、めずらしいことにひとりでずっと読書していた。単行本で、誰の本かはわからなかったが。岐阜という田舎で、読書する人を見かけるのはめったにないことである。
 四方田犬彦『詩の約束』(2018)を読み始める。わたしは四方田さんのよい読者でないが、これはとっても惹かれる。人文学の全領域にわたる博識、ペダンティックな博覧強記を見せつける、圧倒的に「豊かな」本だ。いま読んだだけでも、中世イランの世界的詩人ハーフィズから始まり、日本では萩原朔太郎をかすめて西脇順三郎寺山修司を経、谷川俊太郎に至る、錚々たる詩人たちが取り上げられている。そこに、パゾリーニ(わたしはパゾリーニがまず詩人であり、映画監督としてはのちの姿であることを初めて知った)や西條八十、平岡公威(三島由紀夫)のほとんど知られていない詩を挟み、また、T・S・エリオットエズラ・パウンド吉田健一について言及する。たった90ページ読んだだけで、すでにこれだ。「豊か」、と言わざるを得ないではないか。
 さて、わたしは「詩」をどう考えるか。暫定的にではあるが、記し留めておこう。わたしにとって詩とはまず、世界から立ち上がってきた「存在」(ポエジー)を名付ける行為である。その際、「存在」が我々の身体性を通過し、集合的無意識ユングから言葉を借りたが、ユング心理学の意味ではない)の「函数」として迸り出るのが「韻律」である。
 吉本さんは、古代人が海を見て「う」といった、それが「うみ」という言葉の原初である、というようなことをかつていって、柄谷行人らの嘲笑をかった。しかし、わたしには、柄谷行人(ら)の(近代的言語理解に基づくであろう)嘲笑は、底が浅いように思える。この問題に関しては、吉本さんが「正しい」と、わたしは思う。
 ま、そんなことはいい。本書の四方田さんは、たぶんこの柄谷行人を支持するように思える。ここで「詩」は、国語の全歴史における表現活動の末として、つまり「文学」として理解される。ところで、現代日本において詩は既にほとんど無意味になっている。それは、我々にもはや「存在」が立ち上がってこないこと(存在忘却)と、「集合的無意識」の貧困化の二つの側面から理解できるとわたしからは理解される。
 とでもいってみる、あくまでも暫定的にだが。
 
まあ、わたしに文学はわからないし、だから「詩」もわからないんだけれどね。我々の心は既製品の「言葉」で埋め尽くされている。我々はコンテンツの残骸によっていわば擦り切れていて、もう何も感じない。それが「知的である」ということである。
 

 
昼。曇、あるいは黄砂か。
老母がドラッグストアへ歩いて大量買い出しにいってふらふらになって帰ってきたので、昼食にパスタを作る。
 
ごろごろぼーっとする。
 
旦那が何を言っているかわからない件』(2014)第13話(最終話)まで観る。一話3分半のショートアニメ。わはは、クッソワロタ。ひさしぶりに超下らんアニメ、観たな。これ、オタクの旦那じゃなくて、妻のカオルちゃんの方が主人公かな。オタクの旦那が何をいってるか、よくわからんカオルちゃんだけど、夫婦仲円満でとにかくイチャコラしている。最後、おめでたでよかったね。2期もあるから観よう。

 
寝ころがりながら iPad miniシューマンのピアノ協奏曲を聴く(NML)、テキトーに聴いていたのだが、アラウのピアノはさすがで、思わず耳を欹てた。モーツァルトクラリネット五重奏曲を聴く(NML)。
 
夜。
だらだらしながら iPad miniモーツァルトの「グラン・パルティータ」を聴く(NML)。Decca のウィーン管楽八重奏団の録音がまとめて NML に入ったな。どれもハイレヴェル(だろう、たぶん)。
 
『葬送のフリーレン』第21話まで観る。フォル爺の回は泣いた。ザインなんて僧侶、いたんだな、忘れてたが、いいキャラだ。第18話から一級魔法使い選抜試験で、初めて対人戦闘が出てきてもう震えちゃう。どうやら、原作の既読のところまでくらいでアニメも終わりそうだが…。