昧爽起床。風雨強し。
朝食に昨日買ってきたドーナツを食う。
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ三重奏曲第二番 K.498 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NML、CD)。実直で地味な、これで充分な演奏。自分(たち)は才能ある演奏家なんだぞ、みたいな衒いがまったくなく、気持ちがよい。いわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」で、もともとクラリネット、ヴィオラ、ピアノという特殊な編成だが、ここではクラリネットの代わりにヴァイオリンで演奏されている。
■ブラームスの交響曲第四番 op.98 で、指揮はリッカルド・ムーティ、フィラデルフィア管弦楽団(NML、CD)。マジメで、ダサく、古くさく、田舎くさいブラームスが大好きだ。また、ムーティの演奏がとってもいい。でもね、古くさいっていったって、ご存知のとおり、シェーンベルクに「進歩主義者ブラームス」って論文があるし、晩年の武満さんも、ブラームスを認めていたんだぜ。まあ、ブラームスの「新しさ」を強調するつもりはなくて、ブラームスはそこからいろんな方向へ行ける十字路なのであり、バッハやベートーヴェンの方へ行ってもいいし、現代音楽、人文学、あるいはアニメへすら行けるんだと、わたしは思う。
■ベートーヴェンの交響曲第三番 op.55 「英雄」で、指揮はチャールズ・マッケラス、スコットランド室内管弦楽団(NML、CD)。マッケラスという天才を聴け。
昼。雨あがる。
ウチの桜開花。残念ながら、コンデジのピントがうまく合わず撮れない。去年の開花は 3.19 なので、他でもいわれているように、今年はだいぶ遅い。
●松田聖子/一千一秒物語 | YouTube
先日その一部が頭に浮かんで、いったいなんだっけってなった曲。詞をよく吟味して(?)曲名を思い出した。1981年のリリース、わたしは中学生か(松田聖子のたぶん最初の4枚のアルバム、カセットテープでもっていた筈である。いまなら高く売れたかも)、若い頃の記憶力はすごいな。詞は松本隆、曲は大瀧詠一で、もちろんイナガキタルホをイメージしているわけである、高級ですな。なんたって「空にペイパームーン/銀のお月様」ですよ。
いい天気で外気21℃と、車内は陽射しで暑いくらい。珈琲工房ひぐち北一色店にて、種村季弘訳のシェーアバルト『小遊星物語』の続きを読む。承前。いい季節になって、コーヒーを飲みながら読書していると、眠くなってくる。あまり集中できず、70ページほど読んで切り上げる。外は青い空に白い雲、になってきた、もう春も闌(たけなわ)だ。
光の方向が変わって、開花した桜をなんとか撮れた。
まだオトメツバキ。
夜、中沢さんを読み返す。
『吉本隆明全集27』を読む。吉本さんはいまの「加速主義」に近いことをいっている。ある種のエコロジーなど、進歩する科学・技術を制限するのはまったくダメで、むしろ資本主義を「加速」することで、科学・技術を進歩させてその力で問題を解決すべき、という考え方である。
確かに、資本主義を前提とする限り、それは正しいし、それ以外の正解はない。さらに、資本主義のオルタナティブはいまのところ存在しない。ゆえに、吉本さんの発想は正しい、となる。
しかし、そういうやり方は、持続可能でない、という考えは、わたしごときには説得力をもってしまう。資本主義は常に拡大するしかなく、それではいずれにせよ、自然からの収奪に限界が来る。我々は、常なる拡大で、みずからを破滅させてしまう、そういう未来にリアリティが感じられるような時代が、来てしまった。それが「人新世」である。
たぶん人類には「加速主義」しか選択肢がなく、デッドエンドは避けられない未来であると、わたしには思われる。まあ、地球環境なんぞどうなろうが、我々大衆は自分の日々のおまんまのことだけ、考えていればいいのさ、てか。
それから、吉本さんは都会っ子なので、自然というものに触れ合う感覚がほとんどない。たぶん、自然がめちゃめちゃに破壊され、生活環境が都会しかなくなっても、吉本さんは何の痛痒も感じなかったであろう。実際いま、地方の人間ですら、自然の中で生きる感性を大きく失ってしまっているし、そもそも地方にその中で生きるべき自然がなくなっているところが多い。むろん、大部分の人間に、そんなことがどうでもいいのは、よくわかっているし、実際どうでもいいのかも知れない。