パウル・シェーアバルト『小遊星物語』 / 四方田犬彦『詩の約束』

日曜日。晴。黄砂か。
 
ドラッグストア。スーパー、野菜が高い。なんでこんなにというくらい。老父の畑の野菜は、端境期なんだよねー、それで買わざるを得ない。
まわりの低山に山桜のピンクが点在する。一気にだな。
庭が花で埋め尽くされている。モンシロチョウだけでなく、アゲハチョウが飛び始める。
 
昼。曇。
長時間、ごろごろぼーっとする。空疎。この空疎さこそがわたしでないと、誰にいえよう。何の価値もない、意識の空白であり、たんなる怠惰である。こんなことをいくら繰り返したところで、精神の高みに至ることなどまちがってもあり得ない。意味のあることばかりしておられる忙しい現代人である皆さんに、何やら申し訳ない気持ちでいっぱいではないか。
 
パウル・シェーアバルト『小遊星物語』(平凡社ライブラリー版1995)読了。種村季弘訳、附「宇宙の輝き」。承前。前にも記したが、イナガキタルホ的無用の書。こういう本は精神の健康にいい。じつに種村さんらしい翻訳だ。

 
四方田犬彦『詩の約束』の続きを読む。おもしろい。
こういう言い方はよくないかも知れないが、四方田犬彦という人は死後に正当に評価されるかも知れないな。生きているうちは、リアクションに困る人、っていう扱いを受けているような気がする。死後、四方田犬彦全集は出るのか。著作集ならまだ現実的だが、それだけ彼の文章に愛着をもつ編集者、出版社があるのだろうか。でも、将来、読みたい人は単行本を苦労して探す(ま、いまはネット古書で、金さえ出せばすぐに集まってしまうだろうが)、というのがふさわしい文筆家かも知れない。
 
夜。
四方田犬彦の続きを読む。しかし、わたし程度が四方田の詩論を読むとは、何ごとであるか。いったい、そんなことが許されるのか。猫に小判とは、このことだろう。
 
図書館から借りてきた、四方田犬彦『詩の約束』(2018)読了。著者はこの貧困な時代に、豊かさを体現するという時代錯誤的行為をなしている。人文学の仮想的な統一アーカイブを参照しながら詩を語るとは、何という贅沢だろう! 我々という貧困な時代に読書する者たちは、そのような「統一アーカイブ」の存在が煩わしくて仕方がない。もはやそれは重荷であり、そんなものを背負って歩くのは、耐えられないのである。それが現代における(敢ていうが)資本主義的な(精神の)貧困そのものだ(そのような貧しさは、資本主義の否応なくもたらす害悪の中でもトップクラスのそれである)。何も知らない、無知の中に生きる我々に、言葉は重層的でなく、軽さの極みである。いってみれば、我々の言葉には様々な風味をもつ、歴史的コノテーションそのものが貧しいのだ。