養老孟司&山極寿一『虫とゴリラ』 / 「ゲーマーズ!」(2017)を観る

晴。
精神の回転と流動性を妨げるストッパーを潰していくこと。ここでも基本から。
 
この数日、寒いな。いったんひどく暖かくなってからのせいもあるかも知れない。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの弦楽五重奏曲第四番 K.516 で、演奏はクイケン四重奏団、ヴァイオリンは寺神戸亮NML)。クイケンQ のモーツァルトはよいな。こんなによいモーツァルトはまことに稀である。

 
昼。
シェーンベルク弦楽四重奏曲第四番 op.37 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。シェーンベルク弦楽四重奏曲にずっと挑戦し続けてきたが、いまだに歯が立たないと感じる。彼の音楽の中でも、ひときわむずかしいそれのように思える。■ベント・セアンセン(1958-)の「Alman」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NMLCD)。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。きなこリング+ブレンドコーヒー451円。
 養老孟司&山極寿一『虫とゴリラ』(2020)を読み始める。第五章まで読んだ。養老先生は虫、山極先生はゴリラ(類人猿)と、概念や情報に還元されてしまわないリアルへの通路をもっている人たちだから、仰ることにいちいち内実がある。わたしは共感することばかりだ。もう、こういう人たちがアカデミズムにいる(いた)というのは、最後の世代かもしれないな。
 若い人にお勧め。たぶん、読んでもよくわからないだろうが、本当に中身のある、豊かであるというのはそういうことなのである。「情報操作」や「概念分析」としての本ではないんだから。
 
イオンモール3F の未来屋書店がリニューアルされたので、寄ってきた。本を減らして文具を増やすとか、そういうのを予想していたが、棚の背を高くし、通路も狭くして、本の量が増えたかも知れない。意外。中沢さんの『精神の考古学』があったし、またシモーヌ・ヴェイユアドルノなどもあった。いずれにせよ、いまの本屋というものは(わたしには)気が滅入る場所だが。
 
 
図書館から借りてきた、養老孟司&山極寿一『虫とゴリラ』読了。いちいち共感しながら読み終えた。いわば「希望」を探す本だが、わたしには既に七割くらいは「絶望」しかない。
 言語化されていないものが、見えず、いわば「存在」していない。概念化され、システム化した「モノと情報の操作」だけで生きる時代が既に来ている。我々個人個人の「生命としての自分」は、もはや社会システムからはみ出たノイズに過ぎないという話が、本書にあった。これが世界中で遅かれ早かれ極限まで進み、人間からリアルが消滅する時代が来ると思っているし、一部の人はもはやそうなっているとも思う。我々は、言葉で覆われた日常にリアルを欠いて(ハイデガーのいう存在忘却)、いったい何のために生きているのか、って素朴な疑問が最重要になっている。これが、我々にはもうわからなくなっているのだ。しかし、人新世の時代になって、世界史規模の巨大なカタストロフィが起きて、既存の社会システムの多くが破壊され、世界が一変してしまうことが、ないとはいえないが。ただそれを、「希望」とは呼べまい。
 
 
夜。
Brian Eno - All I Remember | YouTube
 
ゲーマーズ!』(2017)第12話(最終話)まで観る。なるほど、こういう終わりか、最終話はサービス回で、温泉回なわけね。ま、星ノ守さんは負けヒロイン確定して、でもゲーム同好会は仲良く続くわけだ。ほぼハッピーエンドといっていいだろう。コメディ色の強いラブコメで、おもしろかったな。

こともなし

晴。
夜の間に雪が降ったらしい。畑などに薄く積もっている。(8:00)
 
昼飯のほうれん草の味噌汁がうまかった。滋賀や奈良で買ってきたしばらく使っていた味噌がよかったのだが、ひさしぶりの地元の農協の味噌も悪くない。
 
散髪。すっきりした。風が冷たい。髪を切ってもらいながらうとうとしてテレビのワイドショーを聴いていたので、大谷翔平の通訳の違法賭博問題に詳しくなった。
 
床屋から歩いて帰る途中にツクシを見つける。
寒風(陽差しはある)の中、ツクシを摘みに行く。そこだけでは少なかったので、確かあそこにあった筈、という場所へ行ったら、なんとかあった。

ツクシの袴(はかま)を取り除く。灰汁(アク)で指先が黒くなった。老母に卵とじにでもしてもらおう。
 大昔(5歳より前)、祖母と堤防へツクシと芹(セリ)を取りに行った記憶があるのだが、もし本当にそうなら、わたしのもっとも古い記憶のひとつということになる。でも、生まれてまだ3歳くらいだった妹もいたように覚えているので、はたして本物の記憶なんだろうか。ありえない話ではないと老母はいうのだが。ツクシの卵とじを食べた記憶はちゃんとある。味も覚えていると思っている。50年ぶりくらい?
 
インスタントコーヒーを飲む。かっぱえびせん
 
夜。
夕飯にツクシの卵とじを食った。昔なつかしい、春の味。老父母もよろんで食べた。

 
少女終末旅行』第5話まで観る。
 
ゲーマーズ!』(2017)第7話まで観る。第6話の最後、爆笑させられたな! とってもかわいいヒロインズだが、みんな残念系なのが笑えるラブコメ。ってコメディが強い作品だが、第7話で天道さんがデレ出して、いやもうここで最終回でもいいでしょ、ってくらい。しかし、学校一の成績優秀、金髪ロング美人のマジメな天道さんがいちばん残念な女の子ってのがいいよねー。顔芸してる。あとは、景太君と犬猿の仲なのに、じつは裏で相性最高の星ノ守さんがどうなるんだろうってところだな。景太君の友だちの上原がまた、笑えるいいキャラだよ。続きが楽しみ。

斎藤幸平『マルクス解体』

祝日(春分の日)。雨。
胎金一如。
 
スーパー。各務原はにんじんの(そこそこ有名な)産地なのに、売っているのは遠い沖縄産。
雨已めどまた降り出す。金網からどぶ川に何かダイブしたと思ったら、セキレイだった。
 
昼。曇。
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。■ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第二番 op.129 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香、指揮はドミトリー・リス、ウラル・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。
 
晴なれど時雨れる。珈琲工房ひぐち北一色店。祝日のせいか混んでいた。おいしいコーヒーは元気が出る。
 図書館から借りてきた、斎藤幸平『マルクス解体』(2023)読了。副題「プロメテウスの夢とその先」。承前。第三部(第六、七章)と結論を読み終えた。前に何度も書いているとおり、本書はわたしの知識と能力を完全に超えているが、それでもおもしろくて読了できた。以下、どうでもいい感想を。
 第三部は、マルクスの「脱成長コミュニズム」と「富」について述べられていると、わたしは読んだ。
 しかし、「脱成長」か。著者も述べているとおり、脱成長という概念には人気がない。左派ですら、何とかこの言葉を肯定しないように気をつけているようだし、例えば内田樹などがバカにされるのも、彼の「脱成長主義」のせいもあると思われる。でも、資本主義は「永遠の成長」を要請するのであり、それによって自然(あるいは天然資源)を搾取し、地球環境を破壊し、遅かれ早かれ(地球に)限界がくる、いや、既にかなりの程度来ている、というのは、わたしのように素朴な人間に、説得力があるのだよね。しかし、皆知っているとおり、資本主義は成長を必須のものとするため、そして資本主義以外ありえないというのだから、我々は「絶望」するしかなくなる。
 いや、脱成長しかないというなら、資本主義はシンプルに(論理的に)ダメだということだ。確かにそれはそうなんだよね。で、著者は「コミュニズム」、それも「脱成長」のそれ、しかないという。うん、それはそうだ。
 ただ、本書で(資本主義のオルタナティブとしての)「コミュニズム」が何かというのは、まったく曖昧である。だって、ソ連コミュニズム(といっていいのか)はもう破産しているし。というのは他の左派の議論と同じで、例えば柄谷行人でも、「コミュニズム」が具体的に何かは曖昧模糊としている。生活協同組合活動が「コミュニズム」ってことでいいの?ってなる。
 「富」ってのも考えないと確かにいけないよね。本書では「協働的富 genossenschaftlicher Reichtum」というのが提唱されている。最近いわれる(それこそ内田なんかもいっている)「コモン(ズ)」ととりあえず同一視していいだろう。「富」か。いまの精神の貧困化した我々日本人は、「富」というと金銭や不動産などを第一に考える。この手の精神的貧しさはほとんど必然でどうしようもない。これからもどんどん我々の精神はその意味でさらに貧しくなっていくだろうと、予測できる。
 「富」といえば、どうでもいいけれど、わたしなんかは明らかに貧乏だが、でも、物質的にはほぼもう充分なんだよね。多くの人がそんな風になってしまったら資本(主義)は回らないので、我々の欲望を積極的に煽り立て、新たな消費を喚起していく必要が、資本(主義)にはある。なんてことは、もう言われすぎたけれど。
 なんて感じで、本書を読んでいろいろ考えさせられた。前にいったとおり、読み応えのある骨太の思想書だった。わたしにはあまりにむずかしかったけれどね笑。

本書は詳細にグランドセオリーを説くほとんどドン・キホーテ的試みであり、著者はほんとに勇気があると思う。でも、我々は日々の生活に精一杯で、「人新世と資本主義」みたいな大きなことをじっくり考える余裕がない。知識も能力もない。日々の生活は「地球の限界」よりも大事だ、というのは理性的態度でないが、でも、凡人にはしょうがないじゃないか、ってなるよね。
 
帰りに肉屋。
さすがに春分の日、夕方六時になってもまだ明るい。
 
夜。
風呂に入っていたら、外で強風がゴォーって吹き荒んでいるのが聞こえた。
 

NHK+ でサイエンスZERO「シリーズ原発事故2024 (2)最難関 取り出せるか“燃料デブリ”」を観る。核燃料がメルトダウンし、周囲の構造物を高温で溶かして固まった「燃料デブリ」は 880t もあるが、原発事故から13年が経ったいまでも、それはいまだ 1g も取り出せていない。ロボットアームによる調査・取り出しは、内部が複雑で狭すぎるため、困難を極めている。また、取り出す工法すら、まだはっきりと決まっていない。そして、取り出せたとして、高い放射能をもつその燃料デブリをどうやって、どこに保管するのか。福島県は(当然かも知れないが)すべて県外へ持ち出すよう要請している。
 科学者・技術者たちはやれることは懸命にやっている、そのことはよくわかるので、(こういう感情的反応はまちがっているが)ひどく哀しくなってしまった。ほんとうに取り出し、廃炉は可能なのだろうか? そういえば、「廃炉」というのがこの福島第一原発にあって、何を意味するのかもはっきりしていないそうである。
 
NHK+ で NHKスペシャル廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに」を観る。廃炉の科学・技術的なことは、サイエンスZERO の番組を観ればいいと思う。この Nスペでは、より社会的な観点が強調されていた。
 廃炉について、情報や議論を地元の人々や、一般人と共有すること――これは何ごとも密室で決めたものを押し付けるきらいのある日本人には、むずかしいことなんだなというのを、アメリカのスリーマイル島原発事故の事例と比較して思った。例えば処理水の海洋放出について、わたしは科学的な観点だけしか考えておらず、あとは住民への説明を丁寧にやっておけばいいだろう、みたいな考えでいたが、それは浅かったとわかった。実際、地元住民も処理水の海洋放出が科学的に問題が少ないことなんかはわかっているので、どうしてそれで反発が起きるか、それは端的にいって、国や東京電力と住民の間に、信頼関係がない、ということだったのだ。
 これはじつは国や東電だけの問題ではない。わたしのような考え方の日本人に対しても、福島の住民は信頼感をもたないだろうというのが、いまならよくわかる。浅はかで、考えが足りなかったと思う。

文明と反文明の中間点と日本

深夜起床。
まだ外が真っ暗な中、PC の画面を眺めてぼーっとする。
 
NML で音楽を聴く。■シェーンベルクの「浄められた夜」 op.4 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット、ヴィオラはウラディミール・ブカチ、チェロはペトルプラウセ(NML)。シェーンベルクよ、この貧しい時代を切り裂け!

■ブルーノ・マントヴァーニの「パウル・クレーのための五つの小品」で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。
 
日本が文明的に先進国から転げ落ちつつあるというのが徐々に我々に明らかになってきているが、それがもし日本人の無意識が志向しているところだとすると、興味深いと思う。いまの先端的文明(中国を始めとするアジア、また中東、アフリカの各最先端都市を見よ)の高度な超都市化は、あまりにも行き過ぎているという、それはバランス感覚なのか。もしかしたら、日本人は「文明と反文明の中間点」を無意識的に見出そうとしているのかも知れないが、そうだとすれば、それはまだ世界史において何者も試みたことのない、極めて重要な企てである。もっともそれは、あまりにも日本人を買いかぶりすぎであり、たんに最先端文明に追いつこうとして、能力的に不可能である、というだけのことかも知れないのだけれど。(6:55)
 
タルコフスキーは1972年に『惑星ソラリス』において東京を「未来都市」として撮ったが、それを思うと、ヴィム・ヴェンダースが2023年に『PERFECT DAYS』で東京を「禅的」に描いたのが、意義あることに思えてくるではないか。って、わたしのこじつけだけどね笑。
 

 
薄曇り。
モーツァルト弦楽四重奏曲第十七番 K.458 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。クイケン四重奏団のこのハイドン・セットは、わたしに個人的にとても可能性がある。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はクイケン四重奏団NML)。以前だったらこの演奏が凄いってことが、わたしにわかったか、疑問だな。クイケン四重奏団って、とんでもないの、見つけちゃったな。NML にあまりないのだけが残念。モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。クリスティアン・ツァハリアスはよく知らない、と思ったら、過去にけっこう聴いているらしい。わからないもんだな。マリー=ルイーズ・ヒンリクスについては何も知らない。

■上のツァハリアスとヒンリクスの K.448 をもう一度聴く(NML)。■ツァハリアスのピアノにデイヴィッド・ジンマンの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第二十番 K.466 の冒頭を聴いてみたが、ピアノも指揮も平凡というしかない(NML)。続けて聴く気がせず。
 
 
昼飯に焼きそばを作る。
 
YouTube でセルゲイ・ババヤンのスカルラッティの続きを聴く。悪くない。K.491 っていい曲だな。
スカルラッティソナタ K.491 をアンジェラ・ヒューイットのピアノで聴く(NML)。ヒューイットは音がちょっと汚いな。よさそうな演奏を NML でつまみ食いしながら探してみたが、思ったようなのがなかった。やっぱりババヤンのがいいかな。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 斎藤幸平さんの『マルクス解体』の続きを読む。コーヒーを二度おかわりして、がんばって第三章から第五章まで、第二部までを読了。承前。わたしの知識と能力の足りてないのは明らかで、それでもと敢ていうが、じつにおもしろい。以下、わたしごときの貧しい感想をちょっと書いておこう。
 恥をさらすが、前にも書いたとおり、勉強不足で、「社会」という語のデノテーション(語の指している対象)がわからない。しかし本書を読んでいて、「自然と社会」が二項対立概念として扱われているところで、なるほどと思った。世界Wの中に自然Nは包含される(N⊂W)が、社会Sは、Nの補集合(S=W-N)として理解できる、ということである。そして敢ていえば、社会Sは「人間に関する領域」であり、そこから自然Nは「非人間的」であるというコノテーションをもつ。
 と、とりあえず理解したのであるが、第三章でルカーチが丁寧に読み込まれる中で、「自然と社会」という二項対立をもつルカーチへの批判(それはマルクスへの批判でもある)が再批判される。例えばラトゥールなどは一元論者として「自然と社会」をぴったり重ね合わせ、そこからルカーチの二元論を批判できるが、著者は、そのような二元論はもともと世界がそのように二元論的であるゆえに、「方法論的二元論」として敢て保持されねばならないというのだ。
 これはわたしには非常におもしろかった。確かに例えば現代の主流経済学では自然は「外部性」として領域の外へ放逐されているが、一元論ではそのような主流経済学(それは資本主義を当然ながら肯定する)を批判できない。いや、わたし自身ラトゥールに似た一元論的なところがあるが、それでは「肯定」しか生まれず、「社会批判」(資本主義批判)が可能でなくなるのだ。
 以上の議論は第四章、第五章でさらに深められている。
 とりあえずここまでにしておこう。本書はわたしの知識と能力を超えているが、著者のマルクスの読みを(よたよたと)たどると、マルクス(わたしは文庫本でそれなりに目を通したが、ほとんど何も理解しなかった)が非常によく世界が見えていたことを痛感する。いまさらだが、さすがに「1000年に一人の思想家」だと実感するのだ。また、それを読む著者も、じつに骨太の思想家だとわかる。最近の若い人たちの中で、よく見えている人だなって印象を受けるのである。
 
 
夜、深夜までかけていちおうやれるところまで貫く。

こともなし

昧爽起床。晴なれど雲多し。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はクイケン四重奏団NML)。終楽章が聴きたかったので。やわらかい演奏を選んだ、クイケンQ は古楽器アンサンブル。これいいよ。ただ、CD にはハイドン・セット全曲が収められているのに、NML では四曲しかない。残念、K.421 も聴きたかったのにな。

モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はクイケン四重奏団NML)。クイケンQ はやわらかいが、現代的なキビキビしたところもあるな。それにしても DENON でたくさん CD が出ているのに、NML ではあまり聴けないのが残念、って残念ばかりだね。
 
 
自分の CD からリッピングした .wavファイルをフォルダごと Dropbox に放り込んで、Linux Mint から iPad mini に移したのだが、さてこれを連続再生ってどうやってやるんだろとあれこれ調べてトライしてみたら、「Documents」というファイル管理アプリを使うといいとわかった。結構有名なアプリなのだが(ちなみにウクライナ製らしい)、有料機能がいろいろあるらしくて(PDFをいじったりとか、ファイルを圧縮したりとか、あと何故か VPN まで使える)、一週間後に課金を訊いてくるという。まあ、検索してみると基本的に無料で使えるみたいだが。
 
昼。
冷たい強い風の中、米屋へ。途中、コンビニでほうじ茶を買う。
餃子の王将
 
米屋でついでに買ったさくら餅、草餅、ぼた餅のセットを老父母と食う。農協の素朴なやつで、これはこれでうまいんだよな。熱い緑茶が合う。
 
ひさしぶりに Ruby で遊ぶ。「ああ、確かああいうメソッドがあったけれど、どんな名前だったっけ」の連続だった。AtCoder の作法も随分と忘れていた。
 
夜。
風呂を出てから、灯りもエアコンも PC も点けっぱなしで早く寝てしまう。

セルゲイ・ババヤンというピアニストを聴く

日曜日。曇。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、セルゲイ・ババヤン(NML)。モーツァルトの傑作の、よい演奏。この曲についてはアルゲリッチはラビノヴィチ=バラコフスキーとの録音もあって(参照)、そちらの方が演奏の生命感はあると思うが、いまのわたしにはこれの方が好ましかった。この演奏は 2021.12.17 にも聴いているみたい。セルゲイ・ババヤンについてはわたしは何も知らないが、(一部で?)高い評価を受けているピアニストらしい。

プロコフィエフのピアノ協奏曲第五番 op.55 で、ピアノはセルゲイ・ババヤン、指揮はヴァレリーゲルギエフマリインスキー劇場管弦楽団NML)。セルゲイ・ババヤンを聴いてみた。なるほど、わたしも高く評価したい、が、いささかガチ勢向けかも知れない。何より、わかりやすい美しい音をもつわけでなく、地味に聴こえてしまうから、人気は決して出ないとわかるピアニストだ。感情よりも、知性に訴えかけるタイプのそれかも。いずれにせよ、めったにいないレヴェルだが、さて、CD もあまり出ていないんだよね。なお、この曲はわたしは恥ずかしながらよく知らない、初めて聴くかも。

プロコフィエフバレエ音楽「ロメオとジュリエット」 op.64 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、セルゲイ・ババヤン(NML)。ババヤンによる二台のピアノ向け編曲による。これまたパワフルな演奏で、聴くのがかなりしんどかった。すごいな、疲れたよ。ババヤン単独よりも、アルゲリッチが加わることでさらに奥深くなっている。なお、この曲も聴いたことがないんだな、恥ずかしながら。2017年の録音。
Prokofiev for Two

Prokofiev for Two

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少し時雨れる。
スーパー。五平餅を売るキッチンカーが駐車場に来ていた。それから、五倍ポイントの日(本当は昨日)の幟が片付け忘れてあった。かっぱえびせんを買う。
 
昼。
Bach, Concerto for Two Keyboards in C minor, BWV 1062 | YouTube
セルゲイ・ババヤンとダニール・トリフォノフ(ババヤンに師事した)による、バッハの 二台のピアノによる協奏曲 BWV1062。
Scarlatti - Sergei Babayan (2000) Various sonatas | YouTube
ババヤンによるスカルラッティ。悪くない。
 
 
時雨れる中、図書館。市民公園には日曜日恒例、店が出ていて、駐車場がほぼいっぱいだった。図書館を土日以外にした方がよいかもな。
いる人いる人、みなうつむいてスマホを見ている、歩きながらでも、家族でいてもそれぞれ見ている。

市の図書館を訪れるとなぜか気が滅入る。ちょっと前に話題になった、斎藤幸平さんの『マルクス解体』(2023)があってオッと思いつつ借りた。李琴峰さんの『肉を脱ぐ』(2023)は題にインパクトがある。あとは、四方田犬彦『詩の約束』(2018)、横尾忠則瀬戸内寂聴『往復書簡 老親友のナイショ文』(2021)、赤瀬川原平『仙人の桜、俗人の桜』(2000)、養老孟司&山極寿一『虫とゴリラ』(2020)など。さて、このうち何冊開くだろうか。
 
 
斎藤幸平『マルクス解体』を読み始める。第二章まで読み終えた。わたしにはむずかしく、中心概念のひとつである「物質代謝の亀裂」もしっかり理解できたわけではない。
 …しかし、現代の若き思想家が考えていることは、わかる限りでは、とても興味深い。著者は教条主義マルクス主義者ではまったくない。でなくて、資本主義がますます問題を撒き散らしながら驀進し、軌道修正もできない中で、その流れをなんとか変えるために、マルクスが利用できるのではないかという、スタンスでやっている、ようにわたしには見える。
 わたしもまた資本主義しか選択肢がない現在の「絶望」を、まさにその高度資本主義的コンテンツ消費の中で忘れかけていたが、若い思想家に「そんなことだけではいけない」といわれた気分である。まったく、ものわかりのよい、現状肯定的でしかないいまの優秀なアカデミシャン・知識人だけでは、確かに我々の「絶望」はどうしようもなかったっけな。むしろ彼らは、そんな「絶望」はまちがっている、いまの資本主義の路線どおりやっていけば、問題ないと、言ってくるのだったよ。
『「環境帝国主義」にはいわゆる「生態学的不等価交換 ecologically unequal exchange」が付随し、エネルギーと資源が周縁部から中核部へと向かって一方的に流出していく。その結果中核部はより多くの富を蓄積し、より豊かになる一方で、周縁は低開発のままか、場合によってはさらに貧しくなっていく。』(p.57)
 これは現代世界の先進国と後進国において当てはまるだけでなく、現代日本において、地方から東京への「人的資源と富の一方的流出」という「搾取」にも、みごとに当てはまる文章である。
 
夜。
【浅田彰×先﨑彰容】ウクライナvsロシアの2年と日本社会 2024/2/22放送<前編> | YouTube
【日本の今とこれからは】日本社会が向かう先 浅田彰×先﨑彰容 2024/2/22放送<後編> | YouTube
一時間以上視聴したが、あまり内容がなかった。浅田さんの圧倒的な、理路整然たる(ほとんど)「講義」はすごくて、先﨑とかいう人は浅田さんのあまりの頭のよさに、ちょっと気の毒な感じだった。浅田さんの解決策(?)は、「楽しく(議論で)闘争する」ってもので、まあ、そんなもんなのかな。わたしにはよくわからない。
 どうでもいいが、先﨑という人が「承認欲求」というタームを出したとき、浅田さんが直ちに遮ってアメリカの没落した白人中産階級(トランプの支持層)と結びつけていたが、ネットの「承認欲求」はもっと幼稚なもので、ただ、ネットを見るとなんか皆んなキラキラしていて、自分はダメだー、誰も自分を認めてくれないみたいな、そんな単純だが執拗な、感情だと思う。ほんと幼稚ではあるのだが、我々は広くそんなのに苦しんでいるのだ。(最近では、承認欲求を満たすことを積極的に認めていこうという空気になっているように見える。)浅田さんはかしこすぎて、そういう感情がわからなかったのだろう。
 思うに、ネット時代は簡単に数値(例えば「いいね数」)などで、自分と他人をまごうことなく比較してしまえるからな。

こともなし

晴。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十三番 K.590 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。■モンポウ前奏曲集〜No.5, 6, 7, 8, 9, 10 で、ピアノはオレナ・クシュプラー(NML)。2024.2.27 などに聴いてヤナーチェクがよかったクシュプラーだが、このモンポウもなかなかいい。ほぼ無名のピアニスト。2011年の録音。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第三十五番 K.526 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香フォルテピアノはジャンルカ・カシオーリ(NMLCD)。前に書いたとおり、鋭くてきたない音の巨大なモーツァルト。まるで現代音楽だ、驚いてしまう。これが庄司紗矢香なのだなあ。楽しくも何ともないモーツァルトで、それは必ずしも悪い意味でない。■ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第一番 op.77 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香、指揮はドミトリー・リス、ウラル・フィルハーモニー管弦楽団NML)。つかれたー。わたしごときに庄司紗矢香はしんどい。この曲はよく知らない、初めて聴くかも知れないが、そうだとすれば、(わたしの)損失だったな。まだまだである。2011年の録音。 
老母が作った、お墓に立てる仏花。

ラッパスイセンと菜の花。連翹(レンギョウ)もあるしモンキチョウも飛ぶから、春は黄色が多いと老母がいった。
 
ほんとだ、モンシロチョウやモンキチョウが庭や畑を飛び始めたな。ようやく意識した。
 
昼。
NHK+ でサイエンスZERO「シリーズ原発事故2024 (1)最新報告 汚染水・処理水との戦い」を観る。
 福島第一原発における「処理水の海洋放出」は政治問題になっているが、いまでも汚染水は一日90トン発生しており、とにかく処理水の保管スペースが足りなくて、海洋放出せざるを得ないのだな。廃炉作業において、現在この処理水の増加の問題がいちばんであり、様々な方法でそれを減らすべくたいへんな努力がなされているのを知って、哀しくなってしまった。
 あと、知らなかったのが、「スラリー」の問題。スラリーとは汚染水から ALPS(多核種除去設備)によって抜き取られた、高濃度の放射性物質を含む「汚泥」のことで、高い放射線量をもつ。これが保管能力の限界に近づきつつあり、それをどうするか、ということ。ほんと、どーすんだよって感じ。
 以上、報道は科学的であり、ためになった。ってわたしが知っても、どうしようもないことだが、知らないよりはマシかも知れない、廃炉作業の現在については、ほとんど何も知らないので。
 しかし、こういうのを観ると、確かに気候変動問題で原発が必要って意見もわからないことはないが、やっぱり素朴に「原発ムリ」って感じもするな。テキトーなことをいって、もし原発事故がまた起きたりしたら、それに責任を取れるのかという。
 

 
さくら荘のペットな彼女』(2012)を第3話まで観返してみる。なつかしー、よくできてるな。2021年の春に観ていた、たぶん、深夜アニメを意図的に観始めた、その最初の頃だ。古いアニメ、好き。
 『さくら荘』の原作者・鴨志田一先生は、『青ブタ』の原作者でもある。
 
夕方、金柑を食う。めっちゃ甘くてうまい。

ヒヤシンス。

ボケ(木瓜)。

スイセン

連翹(レンギョウ)。

カランコエ
いっぱい咲き出した。