斎藤幸平『マルクス解体』

祝日(春分の日)。雨。
胎金一如。
 
スーパー。各務原はにんじんの(そこそこ有名な)産地なのに、売っているのは遠い沖縄産。
雨已めどまた降り出す。金網からどぶ川に何かダイブしたと思ったら、セキレイだった。
 
昼。曇。
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。■ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第二番 op.129 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香、指揮はドミトリー・リス、ウラル・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。
 
晴なれど時雨れる。珈琲工房ひぐち北一色店。祝日のせいか混んでいた。おいしいコーヒーは元気が出る。
 図書館から借りてきた、斎藤幸平『マルクス解体』(2023)読了。副題「プロメテウスの夢とその先」。承前。第三部(第六、七章)と結論を読み終えた。前に何度も書いているとおり、本書はわたしの知識と能力を完全に超えているが、それでもおもしろくて読了できた。以下、どうでもいい感想を。
 第三部は、マルクスの「脱成長コミュニズム」と「富」について述べられていると、わたしは読んだ。
 しかし、「脱成長」か。著者も述べているとおり、脱成長という概念には人気がない。左派ですら、何とかこの言葉を肯定しないように気をつけているようだし、例えば内田樹などがバカにされるのも、彼の「脱成長主義」のせいもあると思われる。でも、資本主義は「永遠の成長」を要請するのであり、それによって自然(あるいは天然資源)を搾取し、地球環境を破壊し、遅かれ早かれ(地球に)限界がくる、いや、既にかなりの程度来ている、というのは、わたしのように素朴な人間に、説得力があるのだよね。しかし、皆知っているとおり、資本主義は成長を必須のものとするため、そして資本主義以外ありえないというのだから、我々は「絶望」するしかなくなる。
 いや、脱成長しかないというなら、資本主義はシンプルに(論理的に)ダメだということだ。確かにそれはそうなんだよね。で、著者は「コミュニズム」、それも「脱成長」のそれ、しかないという。うん、それはそうだ。
 ただ、本書で(資本主義のオルタナティブとしての)「コミュニズム」が何かというのは、まったく曖昧である。だって、ソ連コミュニズム(といっていいのか)はもう破産しているし。というのは他の左派の議論と同じで、例えば柄谷行人でも、「コミュニズム」が具体的に何かは曖昧模糊としている。生活協同組合活動が「コミュニズム」ってことでいいの?ってなる。
 「富」ってのも考えないと確かにいけないよね。本書では「協働的富 genossenschaftlicher Reichtum」というのが提唱されている。最近いわれる(それこそ内田なんかもいっている)「コモン(ズ)」ととりあえず同一視していいだろう。「富」か。いまの精神の貧困化した我々日本人は、「富」というと金銭や不動産などを第一に考える。この手の精神的貧しさはほとんど必然でどうしようもない。これからもどんどん我々の精神はその意味でさらに貧しくなっていくだろうと、予測できる。
 「富」といえば、どうでもいいけれど、わたしなんかは明らかに貧乏だが、でも、物質的にはほぼもう充分なんだよね。多くの人がそんな風になってしまったら資本(主義)は回らないので、我々の欲望を積極的に煽り立て、新たな消費を喚起していく必要が、資本(主義)にはある。なんてことは、もう言われすぎたけれど。
 なんて感じで、本書を読んでいろいろ考えさせられた。前にいったとおり、読み応えのある骨太の思想書だった。わたしにはあまりにむずかしかったけれどね笑。

本書は詳細にグランドセオリーを説くほとんどドン・キホーテ的試みであり、著者はほんとに勇気があると思う。でも、我々は日々の生活に精一杯で、「人新世と資本主義」みたいな大きなことをじっくり考える余裕がない。知識も能力もない。日々の生活は「地球の限界」よりも大事だ、というのは理性的態度でないが、でも、凡人にはしょうがないじゃないか、ってなるよね。
 
帰りに肉屋。
さすがに春分の日、夕方六時になってもまだ明るい。
 
夜。
風呂に入っていたら、外で強風がゴォーって吹き荒んでいるのが聞こえた。
 

NHK+ でサイエンスZERO「シリーズ原発事故2024 (2)最難関 取り出せるか“燃料デブリ”」を観る。核燃料がメルトダウンし、周囲の構造物を高温で溶かして固まった「燃料デブリ」は 880t もあるが、原発事故から13年が経ったいまでも、それはいまだ 1g も取り出せていない。ロボットアームによる調査・取り出しは、内部が複雑で狭すぎるため、困難を極めている。また、取り出す工法すら、まだはっきりと決まっていない。そして、取り出せたとして、高い放射能をもつその燃料デブリをどうやって、どこに保管するのか。福島県は(当然かも知れないが)すべて県外へ持ち出すよう要請している。
 科学者・技術者たちはやれることは懸命にやっている、そのことはよくわかるので、(こういう感情的反応はまちがっているが)ひどく哀しくなってしまった。ほんとうに取り出し、廃炉は可能なのだろうか? そういえば、「廃炉」というのがこの福島第一原発にあって、何を意味するのかもはっきりしていないそうである。
 
NHK+ で NHKスペシャル廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに」を観る。廃炉の科学・技術的なことは、サイエンスZERO の番組を観ればいいと思う。この Nスペでは、より社会的な観点が強調されていた。
 廃炉について、情報や議論を地元の人々や、一般人と共有すること――これは何ごとも密室で決めたものを押し付けるきらいのある日本人には、むずかしいことなんだなというのを、アメリカのスリーマイル島原発事故の事例と比較して思った。例えば処理水の海洋放出について、わたしは科学的な観点だけしか考えておらず、あとは住民への説明を丁寧にやっておけばいいだろう、みたいな考えでいたが、それは浅かったとわかった。実際、地元住民も処理水の海洋放出が科学的に問題が少ないことなんかはわかっているので、どうしてそれで反発が起きるか、それは端的にいって、国や東京電力と住民の間に、信頼関係がない、ということだったのだ。
 これはじつは国や東電だけの問題ではない。わたしのような考え方の日本人に対しても、福島の住民は信頼感をもたないだろうというのが、いまならよくわかる。浅はかで、考えが足りなかったと思う。