伊藤比呂美『木霊草霊』

曇。

スーパー。

午前中、ごろごろ。

昼からもごろごろ。インスタントコーヒーを飲みながらぼーっとする。
 
20211217160800

NML で音楽を聴く。■ショパンの練習曲集 op.25 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニNMLCD)。この完璧さは、ショパン本人のまったく予想しなかったところのものだろうな。■モーツァルトの二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、セルゲイ・ババヤン(NMLCD)。ルガーノ音楽祭での演奏。相手のピアニストがアルゲリッチに比べちょっと落ちるかなという気もするが、何より曲がすばらしい。確か、モーツァルトが姉のナンネルと弾くために書かれた曲だった筈で(後記:ちがった、Wiki によると、ピアノの上手い弟子とのためだという)、ナンネルもまた一流ピアニストだったので、そんなに簡単な曲ではないらしい。アルゲリッチは誰か知らんとすばらしい録音を残しているのだが、誰だったっけ。ラビノヴィチだったかな?

夜。
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図書館から借りてきた、伊藤比呂美『木霊草霊』読了。承前

犬も人も、まくろな目で見れば、この青い惑星の上で生きたり死んだりをくり返す、流れの中の点に過ぎない。点ですらない。もっと小さい。もっと留まらない。植物の死と再生と、あるいは再生しない死と、どれだけの違いがある。(p.160-161)

伊藤さんは本書で何度も繰り返す。「死ぬ」は「生きる」で「生きる」は「死なない」というのが、植物の法であり、それを私は発見したと。本当に伊藤さんは日本人というか、アジア人というか。そしてその意味での日本人が、急速に絶滅に向かっているのをわたしは感じる。伊藤さんは東京生まれであるが、熊本と縁が深く、これこそが「地方の文学」のひとつの方向であるという気が、わたしにはする。数少ない希望のひとつがそこにあるのだが、まあ、そんなことを言ってもな。いや、「死ぬ」は「生きる」で「生きる」は「死なない」、のだから、人々がゾンビ化する中でも、憂うに及ばないのかも知れない。しかし、我々はいったい何のために生きるのか? そんな無意味な問いを、つい発してみたくもなるというものだ。諸行は無常であるな。

伊藤さんの『河原荒草』という詩は是非読んでみたい。が、図書館にもないし、古書でしか手に入らないようで、しかも高価だ。どうする?