セルゲイ・ババヤンというピアニストを聴く

日曜日。曇。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、セルゲイ・ババヤン(NML)。モーツァルトの傑作の、よい演奏。この曲についてはアルゲリッチはラビノヴィチ=バラコフスキーとの録音もあって(参照)、そちらの方が演奏の生命感はあると思うが、いまのわたしにはこれの方が好ましかった。この演奏は 2021.12.17 にも聴いているみたい。セルゲイ・ババヤンについてはわたしは何も知らないが、(一部で?)高い評価を受けているピアニストらしい。

プロコフィエフのピアノ協奏曲第五番 op.55 で、ピアノはセルゲイ・ババヤン、指揮はヴァレリーゲルギエフマリインスキー劇場管弦楽団NML)。セルゲイ・ババヤンを聴いてみた。なるほど、わたしも高く評価したい、が、いささかガチ勢向けかも知れない。何より、わかりやすい美しい音をもつわけでなく、地味に聴こえてしまうから、人気は決して出ないとわかるピアニストだ。感情よりも、知性に訴えかけるタイプのそれかも。いずれにせよ、めったにいないレヴェルだが、さて、CD もあまり出ていないんだよね。なお、この曲はわたしは恥ずかしながらよく知らない、初めて聴くかも。

プロコフィエフバレエ音楽「ロメオとジュリエット」 op.64 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、セルゲイ・ババヤン(NML)。ババヤンによる二台のピアノ向け編曲による。これまたパワフルな演奏で、聴くのがかなりしんどかった。すごいな、疲れたよ。ババヤン単独よりも、アルゲリッチが加わることでさらに奥深くなっている。なお、この曲も聴いたことがないんだな、恥ずかしながら。2017年の録音。
Prokofiev for Two

Prokofiev for Two

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少し時雨れる。
スーパー。五平餅を売るキッチンカーが駐車場に来ていた。それから、五倍ポイントの日(本当は昨日)の幟が片付け忘れてあった。かっぱえびせんを買う。
 
昼。
Bach, Concerto for Two Keyboards in C minor, BWV 1062 | YouTube
セルゲイ・ババヤンとダニール・トリフォノフ(ババヤンに師事した)による、バッハの 二台のピアノによる協奏曲 BWV1062。
Scarlatti - Sergei Babayan (2000) Various sonatas | YouTube
ババヤンによるスカルラッティ。悪くない。
 
 
時雨れる中、図書館。市民公園には日曜日恒例、店が出ていて、駐車場がほぼいっぱいだった。図書館を土日以外にした方がよいかもな。
いる人いる人、みなうつむいてスマホを見ている、歩きながらでも、家族でいてもそれぞれ見ている。

市の図書館を訪れるとなぜか気が滅入る。ちょっと前に話題になった、斎藤幸平さんの『マルクス解体』(2023)があってオッと思いつつ借りた。李琴峰さんの『肉を脱ぐ』(2023)は題にインパクトがある。あとは、四方田犬彦『詩の約束』(2018)、横尾忠則瀬戸内寂聴『往復書簡 老親友のナイショ文』(2021)、赤瀬川原平『仙人の桜、俗人の桜』(2000)、養老孟司&山極寿一『虫とゴリラ』(2020)など。さて、このうち何冊開くだろうか。
 
 
斎藤幸平『マルクス解体』を読み始める。第二章まで読み終えた。わたしにはむずかしく、中心概念のひとつである「物質代謝の亀裂」もしっかり理解できたわけではない。
 …しかし、現代の若き思想家が考えていることは、わかる限りでは、とても興味深い。著者は教条主義マルクス主義者ではまったくない。でなくて、資本主義がますます問題を撒き散らしながら驀進し、軌道修正もできない中で、その流れをなんとか変えるために、マルクスが利用できるのではないかという、スタンスでやっている、ようにわたしには見える。
 わたしもまた資本主義しか選択肢がない現在の「絶望」を、まさにその高度資本主義的コンテンツ消費の中で忘れかけていたが、若い思想家に「そんなことだけではいけない」といわれた気分である。まったく、ものわかりのよい、現状肯定的でしかないいまの優秀なアカデミシャン・知識人だけでは、確かに我々の「絶望」はどうしようもなかったっけな。むしろ彼らは、そんな「絶望」はまちがっている、いまの資本主義の路線どおりやっていけば、問題ないと、言ってくるのだったよ。
『「環境帝国主義」にはいわゆる「生態学的不等価交換 ecologically unequal exchange」が付随し、エネルギーと資源が周縁部から中核部へと向かって一方的に流出していく。その結果中核部はより多くの富を蓄積し、より豊かになる一方で、周縁は低開発のままか、場合によってはさらに貧しくなっていく。』(p.57)
 これは現代世界の先進国と後進国において当てはまるだけでなく、現代日本において、地方から東京への「人的資源と富の一方的流出」という「搾取」にも、みごとに当てはまる文章である。
 
夜。
【浅田彰×先﨑彰容】ウクライナvsロシアの2年と日本社会 2024/2/22放送<前編> | YouTube
【日本の今とこれからは】日本社会が向かう先 浅田彰×先﨑彰容 2024/2/22放送<後編> | YouTube
一時間以上視聴したが、あまり内容がなかった。浅田さんの圧倒的な、理路整然たる(ほとんど)「講義」はすごくて、先﨑とかいう人は浅田さんのあまりの頭のよさに、ちょっと気の毒な感じだった。浅田さんの解決策(?)は、「楽しく(議論で)闘争する」ってもので、まあ、そんなもんなのかな。わたしにはよくわからない。
 どうでもいいが、先﨑という人が「承認欲求」というタームを出したとき、浅田さんが直ちに遮ってアメリカの没落した白人中産階級(トランプの支持層)と結びつけていたが、ネットの「承認欲求」はもっと幼稚なもので、ただ、ネットを見るとなんか皆んなキラキラしていて、自分はダメだー、誰も自分を認めてくれないみたいな、そんな単純だが執拗な、感情だと思う。ほんと幼稚ではあるのだが、我々は広くそんなのに苦しんでいるのだ。(最近では、承認欲求を満たすことを積極的に認めていこうという空気になっているように見える。)浅田さんはかしこすぎて、そういう感情がわからなかったのだろう。
 思うに、ネット時代は簡単に数値(例えば「いいね数」)などで、自分と他人をまごうことなく比較してしまえるからな。