宇野重規『日本の保守とリベラル』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二番 op.2-2 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第二番 op.51-2 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NML)。

 
昼。
ブログの一部(2022.10.1~2022.12.31)を MyBooks.jp で書籍化する作業をする。行空けの修正などをしていたら、夕方になっちゃった。
 
 
宇野重規先生の『日本の保守とリベラル』(2023)を読み始める。第二章まで読了、とてもわかりやすく、クリアだ。そもそも、「保守」と「リベラル」はもともと対立概念ではない。「保守」と対立するのはむしろ「革新」であり、また「リベラル」の根底にあるのは「自由」で、ここでいう「自由」とは、他人の意志に拘束されず、自分の意志で主体的に行動しうる、おおまかにそんな意味である。だから、「保守」と「リベラル」が結びつくこともあり得、実際にヨーロッパではそのようなニュアンスで「リベラル」という言葉が使われていることがめずらしくない(アメリカはまた異なる)。
 日本では「保守」と「リベラル」が対立概念のように見做されていることが多いが、それは「保守」も「リベラル」も日本語の意味が曖昧だからともいえる。実際、日本人として代表的な保守主義者、リベラリストを異論なく挙げるのは、なかなかむずかしい、等等。しかし、「意志」か。「意志」って突き詰めると何だろう。特に何もしたくないわたしに、「意志」なんてあるのか。わたしは日々「反復」で生きているだけなのではないか。そして、「反復」こそが幸福である、と。
 
まあ、よく考えると、日本においては「保守」であろうが、「リベラル」であろうが、具体的な政策はそんなにちがいがないように思えるんだよね。だから、「保守」とか「リベラル」という概念が、いまひとつ肌身に食い込んでこないところがある。つまり、日本人はあんまりイデオロギー(=抽象概念)で政治をしないのだ。それが、よくも悪くも日本なのだと思う。
 

 
夜。
■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001 で、ヴァイオリンはトーマス・ツェートマイアーNML)。1982年の録音。 
宇野重規『日本の保守とリベラル』読了。後半はわたしにはむずかしかったな。丸山眞男とか、あんまり読んだことがない。いまさらだけれど、読んでみるか。それから上にも書いたけれど、わたし、全然「主体」じゃないよね。さらに、「社会的主体」とか、じつに遠い。それにしても、我々大衆はそんなに「国家」のことを考え、「国家」に政治的にコミットしていかないといけないのだろうか。所詮我々「大衆」の考える程度のことは、「床屋政談」の域を出ることはむずかしいのではないか。我々が皆んな、東大教授ほどの知的能力を有しているとは限らないわけで。その東大教授ですら、常に明確な「正解」をもっているとはいえないだろうし。

「お兄ちゃんはおしまい!」(2023)を観る

日曜日。曇。
 
Ruby でカードゲームのブラックジャックを実装し始める。ブラックジャックは以前にも実装したのだが、今回はオブジェクト指向プログラミング(OOP)で。
 
スーパー。
かたつむりが車庫の前にいて車で踏んづけそうだったので、避難させてやる。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第二番 BWV813、第三番 BWV814 で、ピアノはマレイ・ペライアNMLCD)。■ストラヴィンスキーの「春の祭典」で、指揮はクラウス・マケラ、パリ管弦楽団NML)。心が乏しくてしばしばうるさいが、浅はかな聴き手を騙せるくらいには見事な音の塊になっていると思う。いわゆる爆演。まあ、最後まで聴けたので、それなりのことはあるんじゃないか。

 
珈琲工房ひぐち北一色店。
ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』の続きを読む。承前。おもしろい。亀山郁夫さんは楽曲分析も含めて詳細にショスタコーヴィチを論じていて感心させられるが(上から目線でいっているわけではありません)、「音楽における解釈とは、所詮、言葉の戯れにすぎず、端的にいえば、フォークロア*1であり、言いようによっていくらでも勝手にこじつけられる」(p.192)というショスタコーヴィチの信念を、根底で認めているところがあるように思える。そこがよい。逆にいえば、「言葉の戯れ」の可能性を認めながら、徹底的に音楽を論じる、ともいえるだろう。ここいらは、なかなかむずかしい。音楽を聴くのに、音楽以外のことをどこまで知った方がよいのか、という問題は常にある。わたしは、何よりも音楽(を感じる心)そのものが第一という、いわば常識的なスタンスであるが。しかし、ショスタコーヴィチにおいて政治的な問題は音楽と直結していて、ほんとにむずかしいのである、本書はそれを浮き彫りにする。さらにいえば、音楽を聴く以上に、(ショスタコーヴィチの)音楽を演奏する方に、解釈の困難があるようにも思える。
 それにしても、スターリン政権下に、豊かな(芸術的)才能をもって生きていくというのは、何と危険なことであったろうか。もっとも、いまの虚無的な世の中でも、才能をもって生まれることの(別種の)「危険」はあるかも知れない。まあ、わたしにそんな才能はないわけであり、よくわからないといえばそうなのであるが。虚無であり精神の貧しい時代の、才能。
 
 
スクリャービンの三つの小品〜op.2-1、練習曲 op.8-12、幻想ソナタ 嬰ト短調 WoO6 で、ピアノは福間洸太朗(NML)。これはよいスクリャービン。特にロマンティックな op.8-12 がすばらしい。エチュード全曲の録音なんか、あってもいいんじゃない?って期待しちゃう。2022年の録音。福間洸太朗はかつて武満さんのピアノ曲を集めたアルバムを聴いているのだな。過去の自分は、なかなか高く評価したみたい。■スクリャービンのピアノ・ソナタ第二番「幻想ソナタ」 op.19 で、ピアノは福間洸太朗(NML)。すばらしい第二番。とりわけ第一楽章に心奪われた。■スクリャービンの「左手のための二つの小品」〜夜想曲 op.9-2、幻想曲 ロ短調 op.28 で、ピアノは福間洸太朗(NML)。よい。
 
ショスタコーヴィチ交響曲第六番 op.54 で、指揮はマリス・ヤンソンスバイエルン放送交響楽団NML)。 
 
夜。
■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻〜第五番 BWV850 - 第七番 BWV852 で、ピアノはツィモン・バルト(NML)。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』(2023)第12話(最終話)まで観る。TS変態アニメだが、最後しんみりとハッピーエンドで収めたな。いや、おもしろかったー。日常系? やっぱりアニメ、ぶっ飛んでるわ。作画はカラフルお洒落で、ヌルヌル動くし、最高だった。冬アニメでいちばん盛り上がってたし、2期来そうな感じ。しかしオレ、何観てるんだよ…笑。

*1:引用者注。何で「フォークロア」? ここでこの語はちょっと唐突でわからない。

こともなし

祝日(昭和の日)。曇。
 
午前中から夕方まで、RubyAtCoder。ABC277, 276, 299 を解く。頭の調子のよくないときは、プログラミングで遊ぶのがいちばん精神衛生上よいな。
 
副産物でプログラミング・ブログのエントリを書く。
辞書順で何番目か(Ruby) - Camera Obscura
 
夜、雨。
AtCoder の ABC275 を解く。

こともなし

晴。
 
長時間、昼寝。
心がカラッポ。心のないところに心を作り出していくこと。胎蔵界
 
肉屋。GW でも通常営業だな。てゆーか、もう GW かよ。
柿の種+ Ghana Roast Milk +インスタントコーヒー。
 
NML で音楽を聴く。■シューベルトの「楽興の時」 D780 で、ピアノはヴァルター・ギーゼキングNML)。ギーゼキングはそっけないように見えて、じつは「心」で満ちている。■石田秀実(1950-2017)の「ファエンツァ」で、ピアノは高橋悠治NML)。

クロマ 石田秀実作品集

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夜。
『お兄ちゃんはおしまい!』第8話まで観る。この変態アニメ…。いや、おもしろいね、つい続きを観てしまう。ほのぼの系ということなのかな。まひろが戸惑いながら女の子っぽくなっていくのが何ともいえない笑。しかし、いまでもアニメ、まだまだ狂ってるよ、感心しちゃうね。

「川っぺりムコリッタ」(2021)を観る

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ベルリオーズの「幻想交響曲」 op.14 で、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNML)。何という瑞々しい、フレッシュな音楽だろう! ありきたりの表現で申し訳ないが、小澤征爾はとても大病後の老人とは思えない。まるで、新しく生まれ変わった「幻想交響曲」だ。まさにこれこそ超一流、現代の最高峰。そしていまさらだが、サイトウ・キネン・オーケストラもまた(常設ではないものの)これ以上のオーケストラは現代にないといいたいくらい。第二楽章のワルツや、演奏後など、胸がいっぱいになってしまった。

 
いい天気。スーパー。
琴塚の山にツブラジイの花が見事に咲いていた。金華山にはこの樹が多く、ツブラジイの華が黄金色に見えることからその名がある。花はクリのそれに似た精液っぽい強烈な独特の匂いを放つ。岐阜市の木だそうだ。
 

モンキチョウ
 
昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ほうじ茶シュー 栗あんわらびもち+ブレンドコーヒー495円。
亀山郁夫さんの『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(2018)を読み始める。たちまち惹き込まれ、コーヒーを二回おかわりして一気に第一部130ページを読み切る。わたしはショスタコーヴィチを政治的な側面をあまり知らずに聴いてきたなと痛感する。もっとも、ショスタコーヴィチはこれまであまりにも政治的に聴かれてきたのであり、つまりはソビエト政権への公式的追従者として、見做されてきた。わたしは比較的ショスタコーヴィチの内心に近いであろう、室内楽を中心に彼を聴いてきたので、却って政治的な「雑音」を気にせずにきたといえるだろうし、それはむしろ幸運だったかも知れない。わたしが読んだのは、せいぜいヴォルコフの(有名な)『ショスタコーヴィチの証言』くらいであり、それもまともに受け取ったというわけではない(この本については Wikipedia にまとめられている。かつては中公文庫で容易に入手できた)。しかし、それはそれとして、本書はとてもおもしろい。ショスタコーヴィチ、それもわたしのあまり聴いてこなかった交響曲その他を、もっと聴きたくなる好著である。亀山さん、やるじゃんって感じ。 
 
夜。
『川っぺりムコリッタ』(2021)を観る。監督は荻上直子サブアカウントをもっている老母が U-NEXT のポイントで観たので、期限内にと観てみた。薄っすらとしたかなしみがずっと瀰漫していて、まあ途中では実際(おセンチなことに)ちょっと泣いたが。出てくるやさしい人たち皆んな、容易ならざる過去をもっているらしくて、彼らとかかわることにより、親の愛を受けられなかった前科者の山田(松山ケンイチ)がささやかな幸せを自分も感じていいと、そのことに気づいていく。現実ならたぶんそんなことはなかなかあり得ないかも知れないが、そこが映画のファンタジーで、人との交流をもって世界を肯定できるのだ。最後はアパートの皆んなが列になって、川べりをゆっくりと歩いて山田の父親(孤独死した)の葬儀とする。それが、ポジティブな終わりでよかった。老母の推しの荻上直子監督、初めて観たが、とってもよかったです。

こともなし

雨。
 
ごろごろ。ひさしぶりにかなりキツいな。
 
雨あがる。
昼から県営プール。少し涼しい。
新緑が美しくなってきた。
 
お八つに餅信の柏餅を食う。素朴な柏餅、おいしい。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十四番 K.338 で、指揮はマティアス・マナージ、ジリナ・スロヴァキア・シンフォニエッタNMLMP3 DL)。あまり聴いたことがない曲だけれど、いきいきとした演奏だな。これを聴くと、ハイドンをやってもよさそう。■ジャック・イベールの交響組曲「パリ」、「モーツァルトへのオマージュ」「バッカナール」で、指揮はシャルル・デュトワモントリオール交響楽団NMLCD)。デュトワは(恥ずかしながら)聴いたことのない曲をとってもおもしろく聴かせてくれて、感心しちゃう。ほんと実力者だな。■ブラームスクラリネット五重奏曲 op.115 で、クラリネットパスカル・モラゲス、プラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。音量を絞って聴いていたのだが、感銘を受けた。特に第二楽章には泣いた。わたしは度し難いロマン派だ。■ジェラルド・レシュ(1975-)の「シュリーレン」で、ヴァイオリンはパトリツィア・コパチンスカヤ、指揮はヨハネス・カリツケ、ウィーン放送交響楽団NML)。

こともなし

曇。
 
ウクライナ戦争で見えてきたのは、ウクライナとロシアの双方がどこかで妥協しなければ、この戦争はたぶん終わらないということだ。しかし、ウクライナもロシアも、妥協することは考えられないし、また(アメリカを筆頭とする)ウクライナを支持する「民主国家」の連合体(?)も、ウクライナを「正義」とするために、そのような妥協を言い出すことは不可能になっている。さらには、「民主主義」を奉じる知識人たちも、同様だ。ゆえに、ウクライナ戦争は、まだまだ終わる兆候を見出せない。もちろん、ウクライナの計画する反転攻勢が仮に成功したとし、ロシアが軍事的・経済的にさらに苦しくなっても、それでもプーチン政権が「崩壊」しない限り、ロシアが屈服することはないであろう(逆に、あればわたしには驚きだ)。そして、戦争は続き、ほとんど無意味にさらにたくさんの人たちが死んでいくことになる。
 いま、プーチンは相談する相手もなく、非常に孤独な中で生きているとされる。わたしには、それが恐ろしい感じがする。
 本当に、戦争というのは始めるのは簡単で、終わらせるのはむずかしい。このウクライナ戦争の終わりは、意外な形でやってくるような気もする。さて、東アジアにおいて「台湾有事」があるとして、それはどんな結末を迎えるのか? いずれにせよ、我々民衆には、戦争は悲惨以外の何物でもない、というのは何度でも確認したい。
 
 
昼から、ATM に寄って、雨の降り出す前に図書館。何かを借りようという気があまり起きないが、脳死状態でテキトーに借りる。書架に西村賢太の小説がたくさんあるので、『棺に跨がる』というのを抜く。これと、カート・ヴォネガットの『国のない男』は読むかも知れない。読む気もほとんどなく借りてきたのは、テッド・チャンの『息吹』と、阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』。カート・ヴォネガットは『猫のゆりかご』があれば借りてもよかったが、(あったけど)閉架にだったので、わざわざ取りに行ってもらうのもと思って止めた。
 それにしても、図書館というのは気の滅入る場所だ。本というのは墓標である。精神の墓場であり、ふつうの人(?)なら本など読まない。
 
帰りに餅信で白桃大福Premium と柏餅を買ってくる。帰宅して日本茶で白桃大福Premium を食ったが、めっちゃうまかった。
 
 
カート・ヴォネガットの『国のない男』を読み始めたのだが、この人、「未開人」やネイティブ・アメリカンに対し、明らかに偏見があるよね。それに、ジョークの効能を説くが、ヴォネガットの冗談はまるでおもしろくなく、寒い。何だか読み続ける気力を失う。

 
夕方、雨。ごろごろする。死亡。
夕飯にウチの蕗を炊いたもの。
 
早寝。灯りを点けたまま寝てしまう。