こともなし

曇。
 
ウクライナ戦争で見えてきたのは、ウクライナとロシアの双方がどこかで妥協しなければ、この戦争はたぶん終わらないということだ。しかし、ウクライナもロシアも、妥協することは考えられないし、また(アメリカを筆頭とする)ウクライナを支持する「民主国家」の連合体(?)も、ウクライナを「正義」とするために、そのような妥協を言い出すことは不可能になっている。さらには、「民主主義」を奉じる知識人たちも、同様だ。ゆえに、ウクライナ戦争は、まだまだ終わる兆候を見出せない。もちろん、ウクライナの計画する反転攻勢が仮に成功したとし、ロシアが軍事的・経済的にさらに苦しくなっても、それでもプーチン政権が「崩壊」しない限り、ロシアが屈服することはないであろう(逆に、あればわたしには驚きだ)。そして、戦争は続き、ほとんど無意味にさらにたくさんの人たちが死んでいくことになる。
 いま、プーチンは相談する相手もなく、非常に孤独な中で生きているとされる。わたしには、それが恐ろしい感じがする。
 本当に、戦争というのは始めるのは簡単で、終わらせるのはむずかしい。このウクライナ戦争の終わりは、意外な形でやってくるような気もする。さて、東アジアにおいて「台湾有事」があるとして、それはどんな結末を迎えるのか? いずれにせよ、我々民衆には、戦争は悲惨以外の何物でもない、というのは何度でも確認したい。
 
 
昼から、ATM に寄って、雨の降り出す前に図書館。何かを借りようという気があまり起きないが、脳死状態でテキトーに借りる。書架に西村賢太の小説がたくさんあるので、『棺に跨がる』というのを抜く。これと、カート・ヴォネガットの『国のない男』は読むかも知れない。読む気もほとんどなく借りてきたのは、テッド・チャンの『息吹』と、阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』。カート・ヴォネガットは『猫のゆりかご』があれば借りてもよかったが、(あったけど)閉架にだったので、わざわざ取りに行ってもらうのもと思って止めた。
 それにしても、図書館というのは気の滅入る場所だ。本というのは墓標である。精神の墓場であり、ふつうの人(?)なら本など読まない。
 
帰りに餅信で白桃大福Premium と柏餅を買ってくる。帰宅して日本茶で白桃大福Premium を食ったが、めっちゃうまかった。
 
 
カート・ヴォネガットの『国のない男』を読み始めたのだが、この人、「未開人」やネイティブ・アメリカンに対し、明らかに偏見があるよね。それに、ジョークの効能を説くが、ヴォネガットの冗談はまるでおもしろくなく、寒い。何だか読み続ける気力を失う。

 
夕方、雨。ごろごろする。死亡。
夕飯にウチの蕗を炊いたもの。
 
早寝。灯りを点けたまま寝てしまう。