最相葉月『中井久夫 人と仕事』

曇。
 
図書館から借りてきた、『吉本隆明全集27(1992-1994)』を読み終える。吉本さんの全集は通読ではなく、拾い読みしているだけであるが、本書はたぶん隅々まで読んだ。本書の執筆年代はちょうどわたしが学生のときに当たっていて、ここまで来ると同時代を生きたという感覚が強く、感慨におそわれる。吉本さんのファンというのは、その書いたもののファンと、吉本さんの人柄のファンと、両方いると思うが、わたしは書き物から滲み出る人格のファンなのかも知れない。
 吉本さんをあまり読んだことのない人には、大理論書もいいけれど、吉本さんの片々たる文章をお勧めしたい。吉本さんの世界はすべてがつながっており、どこを読んでも吉本さんである。例えば下らないテレビの下らない感想を読んで、大思想家って下らないんだなって軽蔑するのもいいだろう。わたしは逆で、そんな吉本さんも好きであるし、得るところが多い。大理論の方は、ここでは書かない。

 
 
新幹線の切符をネットで事前予約・購入してみようと調べたのだけれど、「スマートEX」というのでは、結局駅の券売機で切符を手に入れないといけないのだな。交通系ICカードがあればそれに電子的に紐付けて、そのまま自動改札を通れるみたいだけれど、交通系カードは残念ながらもっていないのだよ。
 
 
パガニーニ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 |HIMARI - ケリ-リン・ウィルソン - NHK交響楽団 | YouTube
ネットで「小学生の天才少女」として話題になっていた HIMARI (吉村妃鞠、2011-)さんを初めて聴いてみた。わたしはパガニーニをほとんど聴かないので、よく判断できないとは思うのだが、何となく五嶋みどりさんみたいなのを想像していたところ、どこまでものびやかで素直なヴァイオリンが聴こえてきたので、ちょっと意外な感じがした。結構、地味というか。射程は充分広く、技術もわたしにわかる限りでは、見事である。ただ、音楽が心にくい込んでくる、というようなところが弱いのは、年齢からして仕方がないのか。正直いって、音楽としては伴奏のケリー=リン・ウィルソン(初めて聴く。「ケリ-リン」という表記はあまりないようだ)の方が、何というか、大人で、手応えがある感じがした。この曲はわたしにはあまりおもしろくないのだが、それを強い個性で聴かせてみせる、みたいなところはなかった。
 でも、そうだな、こういう素直なのびやかさっていうのは、努力では決して得られないものなんだよね。気持ちがいいというか、そういう魅力はある。これを、いまは小さい音楽家が、ずっともっていられるものか、わからないけれども。アンコールのバッハ(BWV1001 のアダージョ)でも、同じことを感じた。素直でのびやかなバッハ。悲しみもないことはない、バッハの音楽はすばらしい、ということは、伝わってくる。
 なお、N響はいいオーケストラだなって。ヨーロッパやアメリカのオケとはまたちがい、なんかN響にしかないフレッシュな魅力があると思う、ついでながら。2023.3.11 のライブ録音。
 
昼。
HIMARI | Beethoven Violin Sonata No,7 Op.30-2 / Curtis Recital 12years old | YouTube
HIMARI さんのベートーヴェンを冒頭数分、ちょっとだけ聴いてみる。技術的には何の問題もなさそう、しかしベートーヴェンとしては凡庸。上に書いたよさもだいたい同じ。あとでその気になったら全曲聴いてみます。
 

 
窓口で新幹線の予約をしようと JR岐阜駅を訪れるも、定期券関連か、窓口が大混雑。なので券売機でやってみると、指定席の確保、乗車券の同時購入など、必要な入力を済ませて確認までし、あとは発券というところで、なんか「お取り扱いできません/窓口でお訊ね下さい」とかいうような文字が。でも、窓口は大混雑だし、あきらめてがっくりする。
 
県図書館。最相(さいしょう)葉月『中井久夫 人と仕事』(2023)、ガストン・バシュラール『水と夢』(邦訳2008)、岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)、丸山善宏『万物の理論としての圏論』(2023)、『吉本隆明全集28』(2022)などを借りる。
 ついでに県美術館を訪ねようと思っていたのだが、なんだかがっくりした気持ちを引きずっていて止める。
 
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。ポンデ宇治抹茶 和三盆わらびもち+ブレンドコーヒー528円。
 いま借りたばかりの『中井久夫 人と仕事』を読み始める。目頭を熱くしながら読む。我々はなんでこんなに空疎になってしまったのか。それにしても、「才能」「天才」とやらはいくらでも豊富に存在するのに、心底から実力のある真摯な人材がまったくいない(というのは、いいすぎなんだろうが)この現代日本というのはどうなっているのか、などとつい思ってしまう。例外は、(無知なわたしの知る限り)中沢さんや玄侑さん、細野さんくらいか。そもそも、(精神の)貧しい自分が、かつての日本人に対して恥ずかしい。
 

 
結局、新幹線の予約は「スマートEX」に会員登録して、それでクレジットカード支払いでやった。あとは後日再び JR岐阜駅へ行って、発券してくる。わたしはスマホをもっていないからね。やー、めんどうだった。
 
夜。
図書館から借りてきた、最相葉月中井久夫 人と仕事』読了。わたしのよく知らなかった晩年の中井久夫さんの話が興味深かった。先生はコミットして、世界をやさしさへ変えていく人だな。わたしの孤独であり、誰とも関わらず、何もしないところが、先生といちばんちがう点であろうか。って、比較自体が不遜であるが。
 先生の若き日の「風景構成法」が、河合隼雄先生との沸き立つような会話にヒントを得たというのは、まことにおもしろいな。河合隼雄と、中井久夫
 県図書館に『中井久夫集』があるから、読まないといけないな。「いまは人のために尽くしたい、人を喜ばせたいという人が理解されない時代ですね。」(中井久夫の言葉、p.137)

原塁『武満徹のピアノ音楽』

晴。空青けれど薄雲多し。
 
洗濯。
桜が二分咲きくらいだ。天にヒバリが鳴き、モンシロチョウたちが絡み合う。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスのピアノ協奏曲第二番 op.83 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はクラウディオ・アバドウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。先日藤田真央のピアノでこの曲を聴いたせいか、昔 CD で繰り返し聴いた録音をひさしぶりに聴きたくなった。
 今回気づいたのは、ホール(ムジークフェラインザール)の残響が強いということ。もちろん曲に合わせた意図的な選択だろう、しかし、終楽章など、それで細かい部分が聴き取りにくくなっているのはある。それから、若きポリーニの爆発ぶりはここでもそうだが、アバドウィーン・フィルから飛んでもない厳しい音を引き出しているということ。これはかつてはっきりと聴けていなかったな。第二楽章なんか、ポリーニアバドの迫力に圧倒される。
 なんにもわかっていなかったひよっ子の頃、アバドはあんまり好きじゃないとか思ってたんだよね。いや、いま、好きというよりかは、敬意を抱いている、抱かざるを得ないって感じかも。特に晩年の録音は、何を聴いてもすばらしいと思っている。
 しかし、あらためて凄い演奏だね。若い頃から聴いてきたけれど、いまだに消化し切れていないわたしはほんと凡人。1970年代の可能性は、まだ尽きていないな。
 ポリーニはのちに、この曲を(また)アバドティーレマンと再録音している。これは1976年の録音。
 ちなみにこの曲はリヒテル、ギレリス、バックハウスなど、超一流のピアニストの超一流の演奏が録音で残っていて、わたしは他の演奏をあんまり覚えていないようだ。

 

 
昼。曇。
高山ラーメンを作る。もやし入りチャーシュー麺+生卵。チャーシューは肉屋の焼豚。ひとりで作ると結構あれこれ忙しい。
 
桜、半日で五分咲きくらいになった。きれい。
 
図書館から借りてきた、原塁『武満徹のピアノ音楽』(2022)読了。京都大学の大学院生の博士論文(に加筆修正したもの)で、わたしのような平凡な音楽好きを置き去りにした専門的著作であるが、わかる範囲ではそれなりにおもしろくて、興味深く読み終えた。僕は武満さんが好きなんだが、ほんと無手勝流の無知で聴いているなって、呆れる。ま、しかし、それでいいんだと思っている。瀧口修造は既に読み続けているけれど、本書を読んで、大江健三郎の未読小説は、きちんと読まないとなって思った。あと、バシュラールも以前から読まないとって思っていたので、図書館で探して読もう。生きるとは基本的に偶然的であり、よく生きるとはよく偶然に対処するということであるが、本書のように人の生涯を一望してしまうと、それがすべて必然になってしまう。まあ、仕方のないことではあるが、書き手がそれをきちんと意識しているかは重要だ。武満さんの生涯も、よく偶然に対処したそれだったに、きまっている。
 
金柑を食う。さすがに少しみずみずしさが失われてきたかな。でも甘い。
 
夜。
老母、だいぶ回復する。夕飯にトマト煮込みハンバーグとブロッコリーのチーズ焼きを作って食う。
 
『お隣の天使様…』二日間ですべて観返してしまった。何周目?いやもう、自分の幼稚さが恥ずかしいわ笑。特に前半が好きなんだけど。
 2期制作決定してるけれど、これ以上ハマるとはちょっと思えないな。よく作画崩壊しているっていわれるけれど、確かにそれは否めない、低予算アニメだよね。だからといっておもしろくないわけではないのが、おもしろいのだー。後半は真昼ちゃんがもう肉食獣で、周(あまね)君タジタジなのがホラーである。
 観終えてリコメンドに出てきたのが、『式守さん』だった笑。こういう系好きな奇特な人には、『トニカクカワイイ』をおすすめしておくよ。たぶん凡人には、砂糖成分が多すぎて、耐えられないと思う。我々のような突き抜けた超人しか観られません。
 
早寝。

こともなし

強い雨
 
中沢さんを読んでごろごろぼーっとする。
スーパー。雨のためか客少なし。
 
老母が毎年恒例の(?)原因不明の高熱を出す。二三日は続くやつだ。
昼食は半田めんを茹でて老父と食う。テレビは台湾の大地震のニュースばかりだ。
オムロンの電子体温計の挙動が不審、で、電池を外して初期化するのが、とってもめんどうだった。苦労して初期化したら、やはり高熱だとわかる。
 
 
内ゲバで若者が殺し合った時代と、SNSで集団リンチが繰り返される時代(雨宮処凛)
『私はこの事件(連合赤軍事件)を思い出すたびに、「正義」という言葉の持つ危険性に身震いする。それが暴走した時、人はなんでもできてしまうからだ。自分は命を懸けて「革命」をしているのだから、「正しいこと」をしているのだから、「正しくない」相手を殺すことさえ正当化されていくという転倒。』
『街頭ではない。大学内でもない。スマホやパソコンの中のSNSで日々、集団リンチが繰り返されているではないか。そしてそれが、実際に人の命を奪っているではないか。』
『特にX(旧Twitter)の危険度はダントツに高い。私の友人は以前、Twitterを「核兵器原発と同じで人類には扱えないもの」と評していたが、まったくもってその通りだ。私たちは、自分では到底手に負えない殺人兵器を手にしているのである。』
 
中沢さんを読んでごろごろぼーっとする。外で雨音がする。
鮭の切り身に塩を振っておく。
 
原塁『武満徹のピアノ音楽』(2022)を読み始める。第二章(p.146)まで読んだ。
 
夜。
夕飯は明太子マヨソースをつけての焼き鮭、じゃがいもで粉吹き芋、分葱(ワケギ)のぬた等を拵え、老父と食う。粉吹き芋があんまり粉を吹かず、ちょっとイメージとちがった。
 
 
人道支援の車列攻撃、ガザでの活動は命の危険と隣り合わせ イスラエルは通信機器を持たせず(BBC) - YouTube
たんなる食糧支援団体の車が、それもロゴに向けて攻撃されている。イギリス人を含む民間人スタッフが死んだ。素人考えでは、確信犯的な意図的攻撃にしか思えない。(パレスチナ人を除く)イスラエル国民の大部分が、ジェノサイドを肯定していることをあらためて思い知らされ、戦慄に慣れることがない。
ガザ人道危機 国連幹部はイスラエルの責任指摘、イスラエル閣僚は対ハマス戦争の遂行強調(BBC) - YouTube
いったい戦時国際法、国際人道法とは、何なのだろうな。
映画「オッペンハイマー」が日本で公開、広島の人々はどう思っているのか(BBC) - YouTube
 
 
『お隣の天使様…』を観返してた、って恥ずかしいけれど笑。オレ、この作品好きやな。
中沢さんを読んで寝る。

エコクリティシズム批判 / 「徒然チルドレン」(2017)を観る

薄曇り。
 
昼。
自動車保険の保険屋が来る。
 
読書しようと「ひぐち」へ行ったら定休日だった、ボケていたな。
ドラッグストアで牛乳と歯磨き粉とかっぱえびせんを買う。
 
庭の花たち。

ネモフィラと芝桜。

桃。

クズ球根のチューリップだが、小さいのが却ってかわいらしい。


椿(ツバキ)二種。
 
 
図書館から借りてきた、結城正美『文学は地球を想像する――エコクリティシズムの挑戦』(2023)をテキトーに速読した。テキトーにしか読めなかったのでもしかしたらいい加減なことをいうかも知れないが――まあ、頑張っているところもあるけれど、根本的にダメ本であると思う。著者はいろいろむずかしい理屈を頑張ってこねているが、言語というものがそもそも「自然(=現実)からの疎外」であるという基本的事実に気づいていない。おそらく、本書でいうエコクリティシズム自体が、それに気づいていないのだと思う。どれだけ言葉を費やそうが、象徴構造は現実(=自然)より貧しい、ということが押えられていない。言葉は、「自然」の代わりにはならないのである。
 ただ、別の観点から見ると、優れた「文学」の如きが「自然を感受する感性」を涵養する、ということはあるかも知れない。(本書でも言及されている)石牟礼道子、あるいは大江健三郎の小説など、まるで自然のように複雑に絡み合った「豊かな」テクストが、こちらにセンサーを作り上げる可能性は、読み手によってはあり得る。しかし、それらの作家は例外的存在であり、実際、象徴構造に還元されない「豊かな」テクストはいまやめったに書かれることがないし、また我々の貧しさゆえ、そのようなテクストから富が得られることもめったにない。そして、本書は例えばいくら石牟礼道子を喋々しようが、そのような豊かなテクストでない。
 エラソーでマジごめん。

もちろん、わたしのこのブログだって、その意味で貧しいんだぜ。それはわかっている。
 
 
夜。
徒然チルドレン』(2017)第12話(最終話)まで観る。一話12分半のショートアニメ。いやこれ、笑った笑った、大爆笑。でもってキュンキュンする神ラブコメ。ラスト、マジで泣いたわ。最初は、絵柄が合わねーなーとか思ってたんだが、観ていくうちにこれはこれでストーリーにぴったりと感じるようになった。たくさんのラブストーリーが同時進行するというもの、皆んなはどの二人が好き? いやー、我ながらキモすぎるおっさんだが、じつによかったよ。騙されたと思って観てみ。
 原作は四コママンガなんだな、その雰囲気はよく出ている。

「葬送のフリーレン」(2023)を観る

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ベルクのピアノ・ソナタ op.1 で、ピアノはイヴォンヌ・ロリオNMLCD)。■シェーンベルク弦楽四重奏曲第三番 op.30 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット (NML)。

Schoenberg: Chamber Music

Schoenberg: Chamber Music

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モーツァルトピアノ三重奏曲第三番 K.502 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。さっぱりして気持ちがよい。
 
二度寝。晴。
 
シェーンベルクの管楽五重奏曲 op.26 で、演奏はウィーン管楽合奏団(NML)。ウィーン・フィルのメンバーによる驚くべき名演。この聴きにくい曲を優雅に、鋭くもやわらかく、古典的にして前衛的に、完璧な技術でもって演奏している。現代の奏者たちでも技術的に完璧に演奏するだろうが、ここまでの典雅さを醸し出しながらは不可能だろう。1976年の録音。 
Debussy: La mer | Bernard Haitink and the Royal Concertgebouw Orchestra | YouTube
ハイティンク+コンセルトヘボウ管によるドビュッシーの「海」。定番的演奏。
 

 
昼食に桜エビと(自家製)ショウガの炊き込みご飯。
 
県営プール。いい天気(外気20℃)、そこそこ人が来ていた。
帰りに肉屋。外へ出るのに上着を着ない季節になったな。
 
 
録画しておいた BS日テレの「読響プレミア」にて、藤田真央(1998-)のピアノでブラームスのピアノ協奏曲第二番 op.83 を聴く。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ、読売日本交響楽団。2024.1.10 のライブ録音。
 藤田は全体的にまあまあというところ。国内の若手ピアニスト(そんなに知っているわけではない)では、頭ひとつ抜けた才能をもっていると思う(ただ、わたしの独断では、福間洸太朗に及ばない)。この曲はたいへんな難曲だが(素人なりにしか知らない)、それなりに聴かせる。ただ、第二楽章の冒頭を聴いても、藤田はもしかしたらパワー不足ではないか(それもあって、この楽章は途中から飛ばした)。第三楽章のようなじっくり聴かせる音楽はぴったりで、これがこの演奏のベストだと思う。終楽章はブラームスがユーモアや軽みを見せているめずらしい例だが、藤田はそこまで表現し切れていなかった。
 ヴァイグレ+読響は初めて聴いたが、凡庸で、特に語ることを見い出せなかった。
 繰り返すが、藤田は国内レヴェルではいいと思う。この演奏も、(第二楽章以外は)ちゃんと聴けた。しかし、才能はあるが、パワー不足というのはどうなんだろうか。これからの練習でカバーできるのか。
 エラソーでごめんね。
 
MyBooks.jp でブログ(2024.1.1~2024.3.31)を書籍化する。PDFを確認後、注文確定。
 
 
夜。
『葬送のフリーレン』(2023)第28話(最終話)まで観る。すばらしいアニメだった。原作に忠実だったが、そうすれば傑作になるとも限らないんだよね。魔法戦闘のおもしろさだけでも一級品だが、人間ドラマとしてもよくできていた。坦々としたたわいもない話だけなのに、惹きつけられてあっという間に一話が終わったり。
 もちろん、作画、音楽も最高レヴェル、特に OP1曲の YOASOBI 「勇者」はアニメに合わせてチューニングされていて、じつに YOASOBI はまさに覇権フラグみたいになってるな。いやー、うまく形容する言葉がないが笑。2期はいつになるのかな、しかし、原作ストックはあるのか? ちょうどわたしの知っているところまでで、アニメが終わったんだが。

パウル・シェーアバルト『小遊星物語』 / 四方田犬彦『詩の約束』

日曜日。晴。黄砂か。
 
ドラッグストア。スーパー、野菜が高い。なんでこんなにというくらい。老父の畑の野菜は、端境期なんだよねー、それで買わざるを得ない。
まわりの低山に山桜のピンクが点在する。一気にだな。
庭が花で埋め尽くされている。モンシロチョウだけでなく、アゲハチョウが飛び始める。
 
昼。曇。
長時間、ごろごろぼーっとする。空疎。この空疎さこそがわたしでないと、誰にいえよう。何の価値もない、意識の空白であり、たんなる怠惰である。こんなことをいくら繰り返したところで、精神の高みに至ることなどまちがってもあり得ない。意味のあることばかりしておられる忙しい現代人である皆さんに、何やら申し訳ない気持ちでいっぱいではないか。
 
パウル・シェーアバルト『小遊星物語』(平凡社ライブラリー版1995)読了。種村季弘訳、附「宇宙の輝き」。承前。前にも記したが、イナガキタルホ的無用の書。こういう本は精神の健康にいい。じつに種村さんらしい翻訳だ。

 
四方田犬彦『詩の約束』の続きを読む。おもしろい。
こういう言い方はよくないかも知れないが、四方田犬彦という人は死後に正当に評価されるかも知れないな。生きているうちは、リアクションに困る人、っていう扱いを受けているような気がする。死後、四方田犬彦全集は出るのか。著作集ならまだ現実的だが、それだけ彼の文章に愛着をもつ編集者、出版社があるのだろうか。でも、将来、読みたい人は単行本を苦労して探す(ま、いまはネット古書で、金さえ出せばすぐに集まってしまうだろうが)、というのがふさわしい文筆家かも知れない。
 
夜。
四方田犬彦の続きを読む。しかし、わたし程度が四方田の詩論を読むとは、何ごとであるか。いったい、そんなことが許されるのか。猫に小判とは、このことだろう。
 
図書館から借りてきた、四方田犬彦『詩の約束』(2018)読了。著者はこの貧困な時代に、豊かさを体現するという時代錯誤的行為をなしている。人文学の仮想的な統一アーカイブを参照しながら詩を語るとは、何という贅沢だろう! 我々という貧困な時代に読書する者たちは、そのような「統一アーカイブ」の存在が煩わしくて仕方がない。もはやそれは重荷であり、そんなものを背負って歩くのは、耐えられないのである。それが現代における(敢ていうが)資本主義的な(精神の)貧困そのものだ(そのような貧しさは、資本主義の否応なくもたらす害悪の中でもトップクラスのそれである)。何も知らない、無知の中に生きる我々に、言葉は重層的でなく、軽さの極みである。いってみれば、我々の言葉には様々な風味をもつ、歴史的コノテーションそのものが貧しいのだ。

わたしにとって詩とはとりあえず何か / 「旦那が何を言っているかわからない件」(2014)を観る

晴。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。エビグラタンパイ+ブレンドコーヒー446円。少し年配の男性が、めずらしいことにひとりでずっと読書していた。単行本で、誰の本かはわからなかったが。岐阜という田舎で、読書する人を見かけるのはめったにないことである。
 四方田犬彦『詩の約束』(2018)を読み始める。わたしは四方田さんのよい読者でないが、これはとっても惹かれる。人文学の全領域にわたる博識、ペダンティックな博覧強記を見せつける、圧倒的に「豊かな」本だ。いま読んだだけでも、中世イランの世界的詩人ハーフィズから始まり、日本では萩原朔太郎をかすめて西脇順三郎寺山修司を経、谷川俊太郎に至る、錚々たる詩人たちが取り上げられている。そこに、パゾリーニ(わたしはパゾリーニがまず詩人であり、映画監督としてはのちの姿であることを初めて知った)や西條八十、平岡公威(三島由紀夫)のほとんど知られていない詩を挟み、また、T・S・エリオットエズラ・パウンド吉田健一について言及する。たった90ページ読んだだけで、すでにこれだ。「豊か」、と言わざるを得ないではないか。
 さて、わたしは「詩」をどう考えるか。暫定的にではあるが、記し留めておこう。わたしにとって詩とはまず、世界から立ち上がってきた「存在」(ポエジー)を名付ける行為である。その際、「存在」が我々の身体性を通過し、集合的無意識ユングから言葉を借りたが、ユング心理学の意味ではない)の「函数」として迸り出るのが「韻律」である。
 吉本さんは、古代人が海を見て「う」といった、それが「うみ」という言葉の原初である、というようなことをかつていって、柄谷行人らの嘲笑をかった。しかし、わたしには、柄谷行人(ら)の(近代的言語理解に基づくであろう)嘲笑は、底が浅いように思える。この問題に関しては、吉本さんが「正しい」と、わたしは思う。
 ま、そんなことはいい。本書の四方田さんは、たぶんこの柄谷行人を支持するように思える。ここで「詩」は、国語の全歴史における表現活動の末として、つまり「文学」として理解される。ところで、現代日本において詩は既にほとんど無意味になっている。それは、我々にもはや「存在」が立ち上がってこないこと(存在忘却)と、「集合的無意識」の貧困化の二つの側面から理解できるとわたしからは理解される。
 とでもいってみる、あくまでも暫定的にだが。
 
まあ、わたしに文学はわからないし、だから「詩」もわからないんだけれどね。我々の心は既製品の「言葉」で埋め尽くされている。我々はコンテンツの残骸によっていわば擦り切れていて、もう何も感じない。それが「知的である」ということである。
 

 
昼。曇、あるいは黄砂か。
老母がドラッグストアへ歩いて大量買い出しにいってふらふらになって帰ってきたので、昼食にパスタを作る。
 
ごろごろぼーっとする。
 
旦那が何を言っているかわからない件』(2014)第13話(最終話)まで観る。一話3分半のショートアニメ。わはは、クッソワロタ。ひさしぶりに超下らんアニメ、観たな。これ、オタクの旦那じゃなくて、妻のカオルちゃんの方が主人公かな。オタクの旦那が何をいってるか、よくわからんカオルちゃんだけど、夫婦仲円満でとにかくイチャコラしている。最後、おめでたでよかったね。2期もあるから観よう。

 
寝ころがりながら iPad miniシューマンのピアノ協奏曲を聴く(NML)、テキトーに聴いていたのだが、アラウのピアノはさすがで、思わず耳を欹てた。モーツァルトクラリネット五重奏曲を聴く(NML)。
 
夜。
だらだらしながら iPad miniモーツァルトの「グラン・パルティータ」を聴く(NML)。Decca のウィーン管楽八重奏団の録音がまとめて NML に入ったな。どれもハイレヴェル(だろう、たぶん)。
 
『葬送のフリーレン』第21話まで観る。フォル爺の回は泣いた。ザインなんて僧侶、いたんだな、忘れてたが、いいキャラだ。第18話から一級魔法使い選抜試験で、初めて対人戦闘が出てきてもう震えちゃう。どうやら、原作の既読のところまでくらいでアニメも終わりそうだが…。