伊藤比呂美『ウマし』

雨。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスのヴァイオリン協奏曲 op.77 で、ヴァイオリンはナタン・ミルシテイン、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンルツェルン祝祭管弦楽団NML)。1957.9.14 のライブ録音。おそらくミルシテインカラヤンも全力は出していないと思うが、それでも軽く水準を超えている。別に必聴の録音でもないが、名手たちの余裕をもった演奏というのは、安心して聴いていられるものだ。

 
昼から県営プール。
フランス組曲第三番、第五番 昔から第五番のジーグが好きだ。 新井伴典のギター
 
ラフマニノフの練習曲集「音の絵」 op.33-2, 3, 4、スクリャービンのピアノ・ソナタ第二番「幻想ソナタ」 で、ピアノはスタニスラフ・ネイガウスNML)。ラフマニノフもよいが、何といってもスクリャービンソナタ。盛り上がるところの爆発的な音圧もすごいが、ロマンティックな部分が、胸が痛くなってくるくらい幻想的で、ロマンティックだ。ソナタ第三番の録音がないものか知らん。いやー、こんなピアニストがいたとは。なお、スタニスラフ・ネイガウスの父親は有名なピアニストで教師でもあるゲンリフ、義父は小説家のパステルナーク、息子はショパン・コンクール優勝者で、特に日本で人気が出たスタニスラフ・ブーニンだそう。ショパンのピアノ・ソナタ第三番 op.58 で、ピアノはスタニスラフ・ネイガウスNML)。第三楽章が特に印象的。終楽章は、ちょっと気持ちが空回りしているかも。しかし、これほどのレヴェルのピアニストを知らなかったとは、何というわたしの無知だろう。まあ、ネイガウスというともっぱら父ゲンリフの方で、知らないのはわたしだけではあるまいが。■尹伊桑の「歌楽」で、フルートはロスヴィータ・シュテーゲ、ピアノはランドルフ・シュテック(NML)。ジョン・ケージの「讃歌と変奏曲」で、指揮はシグヴァルズ・クラーヴァ、ラトヴィア放送合唱団(NML)。
 

 
夜。
伊藤比呂美『ウマし』読了。しまった、こんなおもしろい本を一気読みしてしまった。もったいない。食エッセイなのだが、いつもの伊藤比呂美さんだ、ここでも全力で生きているのは同じ。ある食べ物にハマると徹底的に追求するというか、猛烈にというか獰猛にというか、そればかり食べているのは、はっきりいってちょっと病気ですね。日米の食文化のちがいに生きておられて、アメリカ流の、日本人には粗雑にも見える食文化にも、やはりそこに住んでいればそれなりの正当性があるんだなと思わされる。
 本書はイヤミな「グルメ本」ではないし、そもそも笑えるし。食べることは、そのまま生きることなのだなあと、当たり前のことを思う。食について積極的に書いたというと開高健を思い出すが、本書を読むと開高が高級的・インテリ的に感じられてくる。開高は、菓子パンやポテトチップスや魚肉ソーセージやヤマザキ製パンの「ランチパック」についてウマいとは書かんでしょう。何よりも開高は、自分で料理を作ることができなかったが、伊藤比呂美さんは長年主婦をやったからなあ。石牟礼さんも、主婦だったし。石牟礼さんの料理はすばらしくおいしかったそうだが。「主婦」ってのは、フェミニズム的にいまはいけないんだよね。けれども、いまの日本の若い夫婦でも、毎日の料理を作るのは基本的に女性になっているのではないか。アメリカとかヨーロッパでは、そのあたりも「男女平等」になっているのかな、わたしは全然知らないのだが。
 
なお、ウチでは畑で野菜が採れるから、基本的な献立はそれを活かすことが中心となる。だから、茄子が採れ出せば毎日茄子、ピーマンが採れ出せば毎日ピーマンだ。それが田舎者の食というものであるが、まあそんなのも、一部の農家(ウチは農家ではないが)だけのことになっているのかな。スーパーで旬でない時期の野菜を買うというのは、何か罪悪感のようなものを覚えてなかなか買えない。トマトなど年中売っているから、旬の時期がいつなのか、知らない人が結構いるのではないか。

こともなし

日曜日。曇。
 
老父がビワの実を大量に採ったので、またコンポートを作る。
 
昨日ウチで撮った写真。昔はそれほど虫は好きでなかったのだけれど、随分と好きになった。身近にいるので、特にチョウが好きだ。家の中のクモや、またゴキブリでさえも、積極的に殺そうとは思わない(まあ、ホウ酸ダンゴを置いたりするので、ゴキブリはほとんどいないのだけれど。偽善ですなあ)。ただ、ムカデは噛まれるとひどいので、ちょっと敬遠したいというところが徹底できませんな。蚊も刺されるとかゆいので、退治するかも。
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澁澤龍彦が虫や動物が好きだというのに、まことに共感するわたしなのだ。そういや「こころ旅」の火野さんもそうで、いつも感心しながら見ている。
 
 
昨日柳ケ瀬を散歩した写真が自分でおもしろくて、何度も見返している。そもそも、2022.4.6 に名古屋の白川公園付近をたった30分くらい歩いてみて、それがわりとよいなと思って岐阜の街も歩こうと発意したのだった。自分では意識していないが、きっと田舎者の目であり、それが岐阜という、誰も気に留めない、消滅しても気づかないであろう極めて凡庸な町を散歩するという、何かそういうおもしろさが自分個人にだけ感じられるのだと思う。散歩なんだから、同じエリアを、ちがう日にもっと歩いてみたい気がするし、まだ歩いていない路地もたくさんあるしな。岐阜駅周辺も歩きたいものだ。そのうち、犬山や大垣も散歩したい。
 
昼寝。
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。

岐阜・柳ケ瀬散歩

晴。
 
英文学者の川端康雄さんが、『オーウェル「一九八四年」 ディストピアを生き抜くために』という本を出されたことが、新聞の読書欄に載っていた。図書館には入っていないようである。
 
スーパー。
 

 
さわやかな天気なので、昼から岐阜市中心部の柳ケ瀬あたりを散歩しに行く。柳ケ瀬はかつては全国的にも知られた繁華街だったが、郊外化の波に呑まれて衰退していた。さて、どうなっているかという興味もある。
コインパーキングに車を置いて歩く。
以下、美殿町商店街


老舗漬物屋。

家具屋はリニューアルしたのだな。

古書「徒然舎」。いま、岐阜の町中の古本屋といえばここだろう。ネットなどでそれなりに知られた古本屋だと思う。岐阜の古書店というと、わたしはかつて、いまはない「我楽多書房」をよく利用していた。「徒然舎」には入ったことがないので、帰りに入ることにする。
 
柳ケ瀬中心部。

土曜日のせいか、フリーマーケットのようなことをやっている。意外に人が出ているな。



本通りから右へ折れる。
弥生町は飲み屋街なので、昼はひと気がない。

旧長崎屋前でもフリーマーケット

見るも無惨だったレンガ通りは古いビルが壊され、アーケードも取り払われてアッケラカンとした。何もなくなったが、この方がずっといい。


岐阜高島屋前。高島屋九階の自由書房は、大手チェーンの大垣書店に替わった。ここもそのうちつぶれるのではないか。さすがに文庫本・新書本は充実していて、蓮實重彦の『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、2014)をなんとなく買ってみる。
 
西柳ケ瀬。歓楽街であるが、さびれているなあ。







 
西柳ケ瀬から引き返す。
岐阜高島屋、奥は建設中のタワーマンション

再び柳ケ瀬本通り。引退したゆるキャラやななのフラッグが垂れている。
旧自由書房本店は、マンションに替わっていた。
 

再び美殿町の古書「徒然舎」へ。初めて入ってみたが、結構ハイブラウな、なかなかよい古本屋だ。美術系、幻想文学も目立つ。きれいでおしゃれな古本屋という感じ。100円均一棚で、中村雄二郎上野千鶴子の往復書簡集『<人間>を超えて』(1989)の文庫本(1994)を拾う。お、ヤスケンの『へそまがり読書王』(2002)なんてのが安い。もうひとつ、物理学者フリーマン・ダイソンの『反逆としての科学』(みすず書房、2008)なんかは、古書店で出会わなければ買わなかったような本。ちなみにフリーマン・ダイソンは量子電磁気学の建設者のひとりで、ノーベル賞の三人の枠に漏れたのだが、ジャンル横断的な、特異な物理学者だった。じつは昔、わたしはフリーマン・ダイソンを訳そうとしたことがあって、個人的に至極なつかしいのである。〆て三冊購入。
 

街角ガイドツアーみたいなのをやっていて、二十人くらいの人たちが美殿町の歴史を説明されながら歩いていた。へー、岐阜でもこんなことをやっているのだな。今日は土曜日のせいか、思ったより元気な岐阜の街を見ておもしろかった。
 
 
夜。
『暗き世に爆ぜ』の続き。「賛々語々」を読む。せっかちに読む本ではないので、のんびりいっている。いやあ、よい句がたくさん引いてあるな。荷風の句は、なかなかいいんだな、無知である。成瀬櫻桃子の、先に亡くなったダウン症の娘を詠んだ句とか、ベタだけどこういうのにほんとに弱い。西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来(きた)る」は、老母に教えられた句ではなかったか。いまの季節にぴったりで、わたしは胸をガン見するほど大胆不敵ではないのだが、白い夏服になったまぶしい女学生(死語)たちがやはり思われる。こういうのが、若さとか、命だとかいうもんではなかろうか知らん。若い頃に戻りたいとは全然思わないのだけれど。

反緊縮政策とお金のムダ使い

晴。
修学旅行か何かで、皆んな先へ行ってしまって、どうやって追いつこうとか何とかいう夢を見る。長い夢で、他にも細部がいろいろあったのだが、詳しく覚えていないのが残念。独自の方向へ行こうとしたような気もする。
 
 
今朝の朝日新聞に、政府の経済の「骨太の方針」で、近来の経済政策でも日本は経済成長せず、賃金も上がらなかったと分析して、それに安倍元首相が噛み付いたという記事が載っていた。「日本は経済成長せず、賃金も上がらなかった」というのは正しいが、さて、それはアベノミクス(雇用を改善した)ですら充分でなかったということで、朝日新聞がいう、アベノミクス路線(=積極財政)は止めて、財政規律路線(=緊縮財政)を採らなければ、日本経済はおしまいという書きぶりは、まったくめちゃくちゃである。緊縮財政で経済がよくなるわけ、ないだろ。岸田首相は緊縮財政っぽい感じで、さらに日本経済、没落すんのかよってところ。もう、知らんがな。
 いっておくが、わたしは安倍元首相が全然好きでない。アベノミクスなんてクソといえる政策を、きちんと野党(でもなんでもいいが)が採ってくれるべきだったと思う。ヨーロッパの左派ははっきりと積極財政、反緊縮を主張しているのに、何で日本はこうなのか。
 ちなみにアベノミクスのまちがいは、景気回復期に増税して、回復に水をぶっかけ、反緊縮策を台無しにしたところ、というのが正解ではないか。
 って、こんな紋切り型、あんまり書きたくないんですけど。これくらいさっさと国民の常識になって欲しい。
 
さて、反緊縮策が正しいというのは、つまりは我々がお金を節約せず、ムダ使いをすればするほど、経済は廻り、皆んなハッピーという事実と同根である。お金をムダ使いするというのはいいのか?という疑問は別にあっていい、というのはわたしも思うところで、現在の資本主義がそうなっているから仕方がないのだけれども。それはつまり資源もムダ使いするということになるので、資源をムダ使いせずに、IT化によって情報に対してムダ使いしていくようになれば、その点ではマシにはなる。しかしそうなればなるで、別の問題もきっと出てくるが。
 我々バブル世代は、欲望を際限なく膨らませ、お金をどんどんムダ使いするという時代(高度消費社会)を生きた。そして皆んなバカになり、経済は絶好調で、ハッピーだった。いまの日本の若い人たちは、もっぱら自分の好きなものにお金を使い、欲望の亢進ということに疲れているようにも見える(学問的にきちんと検証すべきことだが)。それでは、お金のムダ使いはしないだろう。でも、それはいけないことなのか? ちょっとわたしにはわからないのである。
 
これから年100万人単位で日本の人口は減っていく。その経済との関係は、わたしはまだよくわかっていない。あと、短期的にいちばん重要であるのは、気候変動対策への経済的対応であろう。日本人は一般に気候変動対策をバカにする傾向が強いが、これは決定的な誤りである。
 

 
昼から県営プール。暑い。
 
バックグラウンドで勝手に Windows Update するの、やめてもらえないかな。フリーズして何もできなくなる。
 
家計簿整理。
 
夜。iPad mini でだらだらネット視聴。

こともなし

晴。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第二番 BWV1008 で、バロック・チェロはダーヴィト・シュトロンベルク(NML)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十七番 K.453 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。まさかこの曲の終楽章で感動するとは。胸がいっぱいになってしまった。もっと軽い曲だと思っていたのだけれど。しかし、ゲザ・アンダだけれども、こういう一見地味な実力者の CD BOX をさらりと出してくるとか、かかる西洋には打ちのめされる感じがする。
 
■ケージの「Five」、「Four2」で、指揮はシグヴァルズ・クラーヴァ、ラトヴィア放送合唱団(NML)。

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第五番 op.24 で、ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、ピアノはピエール・バルビゼ(NML)。伸びやかで優しいヴァイオリンが印象的であり、強いアタックは避けられている。まさに、「スプリング・ソナタ」としてのひとつの理想的演奏かも知れない。フェラスは決して優しいだけのヴァイオリニストではないと思うが、ここではバルビゼの好サポートもあってこうなっているのだろう。フェラスは晩年にアルコールに溺れるようになるが、これほどのナイーブさをもった魂なら、仕方のないことだったのかもという気もする。この曲はあまり聴かないのでよく知らないのだが、こういうタイプの演奏はわたしは初めて聴いた。

 
いい天気。日差しが強い。
珈琲工房ひぐち北一色店。『コレクション瀧口修造2』「16の横顔」の続き。もっと読もうと思っていたのだが、文章の強度ゆえにあまり読めず。大戦中のピカソ。ヘンリー・ムーア(1898-1986)という彫刻家はよく知らないが、荒いモノクロ写真でもその魅力はわかる。日本では、箱根彫刻の森美術館というところに結構あるようだ。いろいろ知らないことが多い。
 
帰りに肉屋。今日は牛薄切りが特別安く、飛騨牛 100g で 600円くらいだった。
 
 
ビワの実をまとめて老父が採ってくれる。このビワの木は、鳥が落とした種から勝手に生えたもの。なので、実は売っているものよりも小さいし、傷がいっぱいあります。
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たくさんあるので、コンポートにする。
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黄金頭さん、このところ二言目には自分に呪いを掛けることに異様に執着しておられて、ブログを読むのがつらい。仏教がお好きで盤珪禅師を好まれるとのことだが、仏教ではまずはこのような執着を解体しようとするものなのではあるまいか。自分に呪いをかけるのもよいが、敢てするのなら、そこを突き抜けて欲しいと思うのだ。もちろん、とてもむずかしいことだが。盤珪禅師なら、そのような執着も、生まれ持ったものではなし、といわれることでもあろうか。
 
アカデミー賞という田舎者たちの年中行事につき合うことは、いい加減にやめようではないか|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくま
タイトルの意味はわかるし、中身もおもしろかったけれど、しかし田舎者で悪かったなという感じ、いや、冗談ですが。まあ、田舎者として軽蔑されても、別にいいんだけれども。事実だからね。仕方がないと思っている。今となっては、蓮實重彦柄谷行人や浅田さんよりはまだいいな。たぶん、下らぬ映画でも平気で観られるんだろう、そこだな。
 
 
夜。
老母より廻してもらった、小沢信男『暗き世に爆ぜ』を読み始める。題名からしてそうだが、俳句と関連づけながら政治や世相を語っているのがちょっと意外というか、しかしそんなことをいうのは、著者のことをわたしがよく知らないからであろう。著者もまた戦争、東京大空襲を原風景とした世代なのだなと思う。で、その後に来る高度成長には、あまり言及しないように見える(いま読んだところまでは)。そして、「暗き世」というのは、平成時代のことを指すように、いまでは見えてしまう。わたしは、戦争中といまと、どちらが希望がないのかとふと思う。え、いまのような豊かで安全な時代と、比較になんかなるもんかと、そういうことになるのだろうか。
 わたしに俳句がわからないのが残念だが、まあ、むずかしい句は少ないようだ。わたしはどちらかというと自然を題材にした句を好むのだが、著者の興味は人間にあるようである。付けた文章はちょっと都会風にくだけた感じ。東京風といっても、江戸にそのまま接続したようなところがあって、現在の人工都市・東京とは一線を画している。

こともなし

曇。
 
今朝の新聞に、各務原の岐阜飛行場の話が出ていた。かつては米軍が進駐し、米軍相手の街娼(パンパンといった)がいたことを老母から聞いたことがある。各務原には現在航空自衛隊岐阜基地があり、いまでも基地の街だ。新聞にもあったが、沖縄と似たようなところがないとはいえない。
 
スーパー。
 
昼からずっと RubyAtCoder。30問解いて止める。つかれたー、とか、バカだな。
アルゴリズムと数学 演習問題集 - AtCoder
コンプガチャ、つまりガチャガチャで n種類のアイテム(すべて等確率で出る)を全種類集めるのに必要な(ガチャの)回数の期待値を求める必要があったのだが、これ、高校数学の範囲だけれど、結構むずかしくて自力で解けなかった。オレの数学力、大したことないね。下の有名なサイトを参考にして、納得しました。
コンプガチャに必要な回数の期待値の計算 | 高校数学の美しい物語
 
Eve、結構好きやな。
www.youtube.com
 
夜。
NML で音楽を聴く。■シューマンのピアノ四重奏曲 op.47 で、ヴァイオリンはダニエル・ホープヴィオラはポール・ノイバウアー、チェロはデイヴィッド・フィンケル、ピアノはウー・ハン(NML)。ブラームスのピアノ四重奏曲第一番の録音もよかったが、これもいい。こういう演奏で聴くと、ピアノ五重奏曲 op.44 に勝るとも劣らない曲だとわかるな。■ベートーヴェンの創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO80 で、ピアノはエリック・ハイドシェックNML)。

■譚盾の「水彩による八つの思い出」で、ピアノはラルフ・ファン・ラート(NML)。ドビュッシーっぽい。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、バロック・チェロはダーヴィト・シュトロンベルク(NML)。

宇野重規『民主主義のつくり方』

曇。
 
午前中、何をしたっけ。何かぼーっとしてた。
 
昼食後、新しい冷蔵庫がやって来た。前より小さいので、ビン類など、収納するのに少し考えねばならなかった。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー429円。宇野重規『民主主義のつくり方』を読み始める。第三章まで読了。とてもいい本だ。よく整理されていて、わたしのような社会科学に不案内な人間にもじつにわかりやすい。のに、中身は根底的で高度だ。ルソー的な民主主義に耐用期限がきていて、さあ、どうしたらよいのでしょうという問題を扱っている。本書はそれを、プラグマティズムを根底にした民主主義を考えてみてはどうだろう、としているわけだ。プラグマティズムアメリカ的な哲学だから、ヨーロッパ由来ではなく、アメリカ流の民主主義ということになるのかも知れない。そして本書には、功利主義を、あまり根底として使いたくない、という傾向が見られる。「経済学化する政治」については、ロールズが検討されているが、著者はあんまり好きではないようで、でも仕方がない、というところか。さらに進んで、最近の傾向である「工学化あるいは経済学化する政治」「技術論としての政治」まで踏み込むとよかったのかも知れないが、そこは自制(?)してある。
 第三章「習慣の力」で、まさに「習慣」と政治について論じられていて、これは独創的な感じがする。ふつう、「習慣」という個人的なものと政治というのは、結び付きにくいよね。さて、この章を読んでいて、わたしは「習慣」というのはあまり好きではないなと思った。「習慣」=生の自動化*1で、わたしはむしろ「反復」について最近よく考える。わたしにとって、「反復」とは自動化されてはならないものであり、人生はまさに「反復」そのものだと思うのだ。「反復」は毎日同じことをやっていても、その都度新しい一日なのである、理想的には。「習慣」は、生の希薄化だ。例えば、ご飯を食べるのは、「習慣」であってはならないとわたしは考える。

大学生だったら是非読んでもらいたいし、意欲的な高校生なら読める好著だ。
 ところで、わたしは、「個人の幸福を最大化する」という工学乃至経済学的発想にまったくなじめない、古くさい人間、あるいは変人だなあと思う。人間は、それよりもう少し複雑であるべきだと思っている。
 
ウチのクチナシの花。
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図書館から借りてきた、宇野重規『民主主義のつくり方』(2013)読了。本書は希望のための書であり、第四章と「おわりに」は強くそれを感じさせる。例えばオバマ大統領がその象徴的な存在として描かれているが、いまの我々はそのオバマ大統領の失敗と、その後のトランプ政権(2017-2021)を知っていたりする。そして、日本という国の国際的地位は、本書後、経済的・学術的にはっきりと転落したことが明らかとなった。まあ、それは措くとしても、少なくともわたし個人は、現在のどこに個人の希望があるのか、よくわからない。著者が、いまの(集団的)希望をどこに見出しているのか、知りたいところである。民主主義こそが、現在の希望でもあるというのだろうか。第四章の田舎の「町おこし」? わたしは、民主主義にもかかわらず、云々といいたいところであるが、悲観的なことを書くのはよくないよね、それは。
 いずれにせよ、本書はとてもおもしろかった。わたしと同世代の著者には、敬意を表したい。
 

 
夜。
狼と香辛料II』第6話まで観る。いや、これ、むちゃむちゃいいわ。好きだなあ、こういうの。商売の話と、勝手にやってろ話が一緒になってるとは、独創的ですね。ホロのデレに悶えるおっさん笑。

*1:著者は、それ以上のものを「習慣」という語に見ている。メンタル・トレーニングなど、行動・思考の準備といったものも含み、未来へ向けた、変更可能なものであると。しかし、いずれにせよ生の自動化という側面を無視できるものではないと思う。確かに予めの準備は大事だ。しかし予めの準備は、結局、想定外の状況には役に立たない。世界の偶然性は、どこまで準備をしてもすべて予め対応することはできないのである。そして、敢ていえば、それこそが人生なのだ。
 さらにいえば、世界の偶然性(可能性)をできるだけ減らそうというのが、現在進行する、リスク管理社会である。著者のいう「習慣」は、まさにリスク管理社会にふさわしい。無限の世界を、有限化しようとする絶望。