こともなし

晴。
風邪をひくなといわれているのだが、昨晩寝る前に何かへんで、起きたらどうも知らぬ間に治った感覚。きっとそうだ。何なんだ。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第三番 op.67 で、演奏はアマデウス四重奏団(NMLCD)。初期のアマデウスQ、よいな。■バーバーのバラードop.46、夜想曲ジョン・フィールドを讃えて) op.33 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。

ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。この曲はあんまり元気なそれなので聴くのをためらったのだが、聴いてみたらよかった。ロスバウトの古典的なアプローチのおかげもあるのだろう。でもまあ、終楽章はやはりブラームス、ちょっとやりすぎな気もするが。■シェーンベルクの「十七のピアノ断章」で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。これは非常におもしろい録音だ。どれもまさに「断章」で、完成を目指して書かれたものではない、おそらく試みに探求として書かれたものたちかとも思えるが、最初の方のほとんどブラームスと区別のつかないものから、はっきりとシェーンベルクらしいものまで、いろいろの時期の音楽が一緒になっている感じである。特に、後期ロマン派そのままの曲がおもしろかった。しかし、とてもカッコいいのである。なるほど、例えばグレン・グールドのようにある意味では保守的な耳がシェーンベルクを愛したことが、まったく当然であることが納得される。そしてまた、自分のようなさらに保守的な耳にも、シェーンベルクはきわめておもしろいことを付け加えておこう。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-2012)の「トッカータ・ミスティカ」で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NML)。おもしろい。

Musica da Camera

Musica da Camera

  • アーティスト:Hans Werner Henze
  • 出版社/メーカー: MODE RECORDS
  • 発売日: 2008/09/16
  • メディア: CD
■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「ア・リトル・ポプリ」で、指揮はクラウディオ・ルゴ、アンサンブル・ディソナンツェン(NML)。ヘンツェおもしろいな。


「ひぐち」まで歩く。片道 30分強。無意識(あるいは深層意識)の涵養。

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珈琲工房ひぐち北一色店。武満徹の評伝の続きを読む。書き手に武満の生命力が流れ込んでいるのを感じる。これは大部だがよい本で、読むのが楽しい。しかし細かい活字で二段組、それで 400ページ以上もある。自分は本を読むのはわりと速い方な気がするが、それでもまだ四分の一くらいしか読めていない。ようやく「弦楽のためのレクイエム」ですよ。武満は自分が思っていたよりもはるかに「前衛的」だ。同時代の音楽だけでなく、映画や美術、活字ものにも敏感。それに、あの時代というのは西洋の精神に対し、己が日本人、東洋人であることをいまとは比較にならないくらい真剣に考えていた。それを痛感する。我々はもはや、自分たちが「名誉白人」であるという無意識的な感覚に甘んじているのか、己の東洋人性についてほぼ何の自覚ももたない。せいぜい「日本スゴイ」くらいであろう。それは、もはや自分というものが空疎であるからである。中身に何もないから、当然「東洋」もクソもない。そして、例えば武満を「ハゲミツ」とかいっておすまししている。立派なものですな。どうでもいいが。

てくてく歩いて帰ってくる途中、いろいろ取り留めもなく考えた。結局どこにも出口がないのに対して、どうするのかということとか。自分に子供でもいれば、またちがうのだろうかとか。確かに自分には能力というものがないが、それで済ましておいてもしかたがない。この齢になっても、絶望が深まるばかりな気がする。まあ、つぶれないようぼちぼちやっていくくらいしかない。

山尾悠子を読む。

早寝。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの「聖霊はわれらの弱きを助けたもう」 BWV226、「主をたたえよ、すべての異教徒よ」 BWV230 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・トリオ第三十五番 Hob.XV:35 で、演奏はトリオ1790(NMLCD)。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第五番 op.102-2 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。■シューマンのピアノ四重奏曲 op.47 で、ピアノはエマニュエル・アックス、Royal Concertgebouw Orchestra Chamber Soloists (NML)。一流の演奏家たちによる演奏であるが、うーんという感じ。ちょっとお化粧しすぎではあるまいか。すごくきれいな音なのだけれど、ぶよぶよした感じで、もっと引き締めて演奏して欲しかった(特にピアノ)。終楽章とか、とてもこれではワクワクできない。第三楽章はロマンティックでよかった。この曲は姉妹曲であるピアノ五重奏曲(傑作である)に劣らない名曲なのだけれど、そちらほど演奏されないので、演奏してくれたのはよかったです。

 
晴。すごくいい天気。
肉屋。クロネコヤマト。スーパー。
図書館。新境川堤の早咲きの桜が満開できれい。コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。
イオンモール各務原の「Right-on」にてジーンズを買う。

庭がお花畑状態。モンシロチョウやモンキチョウが飛び回って天国か。ハナニラの甘い匂いがする。
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ドラッグストアまで散歩。
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遠くから見てレンゲかと思ったらちがった。撮影モードを替えたので、ちょっと色がきつすぎるかも知れない。

また AOJ をやっていた。
2分探索にバグを入れないこと、これがむずかしい。Ruby で Array#bsearch は知っていたが Range#bsearch を発見してとってもありがたい。

長谷川四郎『シベリヤ物語』 / アリストテレス『詩学』

深夜起床。

長谷川四郎の続きを読む。シベリアでの捕虜と労働体験から抽出された小説たちを読んでいるが、不思議な魅力がある。淡々としてリアリズムで、わたしの好きな類の小説だ。労働のつらさはもちろん大いにあった筈だが、そんな(当り前の)ことはしばしばオミットされているので、童話あるいは寓話でも読んでいるような、敢ていえば明るいような印象すらある。作中の「私」というのは作者自身と思えるように書かれているが、そう思って大過はないだろう。そういう風に読むと、長谷川四郎さんは(変な話だが)わたしよりもだいぶ人間の出来がよく、わたしには謎めいたところもある。なかなか、自分よりも魂の高級な人間の考えていることは、わかりにくい感じがする。この人は、強制労働に従事していても人生はすばらしいものだという考えを否定しなかったようで、驚かされる。わたしなどはいまのような安逸な生活に慣れていても、なかなか人生はすばらしいと断言するのはためらわれるようだ。まあしかし、そういうことは却って自分ではよくわからないことかも知れない。

図書館から借りてきた、長谷川四郎『シベリヤ物語』読了。おもしろかったが、あまりこちたい感想は書きたくないので、上に書いた蛇足でもうたくさんである。天沢退二郎氏による文庫解説もマヌケたもので、なかなかに長谷川四郎さんを語るのはむずかしい。この人は、我々読者に胸の内を悟られるような迂闊な真似はしていないのだ。他にももう少し読んでみたいのだが、図書館にどれくらいあるものかな。県図書館の書庫の全集に頼るのはちょっと大変だしな。

シベリヤ物語 講談社文芸文庫

シベリヤ物語 講談社文芸文庫

 
NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第一番 op.68 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。この曲は長い上に重苦しい印象であまり聴く気がしないのだが、それでも聴いてみればそんなこともない、(当り前であるが)名曲である。まあ、ロスバウトの演奏がよいせいもあるだろう。じつに古典的なブラームスになっている。■シェーンベルクの三つのピアノ曲 op.11 で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。「現代音楽します」という気負いが感じられない上に、各曲の性格があざやかに弾き分けられている。第一曲はブラームスの後に聴いてまったく違和感のない音楽であり、また第三曲は鮮烈だ。本当に、シェーンベルクは古典になったのだなあという感を深くする。■シェーンベルクピアノ曲 op.33a, op.33b で、ピアノは廣田洋子(NMLCD)。あざやかな演奏。よくわかる。■ヒンデミットの弦楽三重奏曲第二番で、演奏はドイツ弦楽三重奏団(NMLCD)。
 
朝飯にパンを食べたあと寝てしまう。

曇。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー。家族の分のドーナツも買う。さて、小野光子さんという方による武満徹の評伝を読み始める。大部なものなのでおもしろそうでなかったらそのまま図書館に返そうと思っていたのだが、読み始めたら一気に惹き込まれた。(しかし読み終えられるのだろうか。)詳細な研究でもあるのだが、平易でよい文章で、しかも叙述がいきいきとしているので、著者がたぶん意図していないような部分に感動したり。武満が本格的に作曲家として立つ、つまりいまに残っているような曲を作曲し始めたあたりまで読んだが、それにしても周囲の人々の錚錚たる顔ぶれなのは、いったい何なんだと思ってしまう。どうでもいいことだが、自分の若い頃を思い出してちょっと悲しくなってしまった。まあしかし、武満とわたしでは話にもならん。それはともかく、武満がずっと、音楽は悲しみに近い感覚だと思っていたこととか、決定的な時期にフランク(「前奏曲、コラールとフーガ」!)やメシアン(当時日本ではほとんど知られていなかった)に影響を受けたりとか、なるほどと共感するところが多い。若くしてすばらしい女性(のちに伴侶になる)と深い交流があったり、清瀬保ニや早坂文雄瀧口修造などに師事(というか既に盟友扱いだった)したり、これが才能というものなのだなあとつくづく思う。いや、よい本に出会った感じ。

本書でさらりと書いてあるが、武満はどうも独特のオーラのある人(という書き方はされていないが)だったらしい。演奏会の人混みのなかでも武満がいるとすぐわかるというような。


■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ 第一番 BWV846 - 第十二番 BWV857 で、ピアノは園田高弘NML)。何故自分にとって園田高弘は特別なピアニストなのか。自分が大したことないから、園田ごときに感動するのか。それともそうではないのか。どうでもいいといえばどうでもいい、ただ聴けばいいのかも知れないが、どうも腑に落ちないのだ。皆んな、園田をどんな風に聴いているのだろう。それがよくわからない。

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

シューベルトのピアノ・ソナタ第十九番 D958 で、ピアノはクラウディオ・アラウNML)。どうもアラウのシューベルトを完全に誤解していたような。こんなすごい射程の演奏だとはまったく予想していなかった。この演奏にたどり着くまで、探しに探しましたよ。ほぼ全体を記憶しているポリーニのそれを選んだら負け(?)だと思っていたが、アラウ盤があってよかった。
Schubert: Works for Piano

Schubert: Works for Piano

 

アリストテレス詩学』読了。三浦洋訳。訳者解説が 150ページ以上もある気合の入ったものだが、あまりにも詳細に渡りかつ専門的なので、面倒になって途中で読むのを止めてしまった。すみません。本文は曲がりなりにも読みました。

詩学 (光文社古典新訳文庫)

詩学 (光文社古典新訳文庫)

こともなし

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「来たれ、イエスよ、来たれ」 BWV229、「おおイエス・キリスト、わが命の光」 BWV118 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。あんまり美しいのでびっくりする。

Motets / Cantatas

Motets / Cantatas

モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十四番 op.27-2 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。カッコいい「月光」ソナタだな。■ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NML)。ロスバウトって聴いた覚えがないのだが、これは気合の入った演奏で圧倒された。この曲はまさにこう演奏して欲しいという典型のようなそれ。特に終楽章は、こんなのはカルロス・クライバーを聴いていて以来かな。もっと録音がよかったらなとすら思わせる。
Hans Rosbaud Conducts Brahms

Hans Rosbaud Conducts Brahms

ショパンマズルカ op.33 (全四曲)で、ピアノは Antonio Barbosa (NMLCD)。op.33-2 が好きだ。A-B-A-coda という形式なのだけれど、A の部分はほとんど同じフレーズがずっと反復されているだけで、それが好きなのである。踊りたくなる感じ。

モスバーガーのドライブスルーにて昼食。

夕方まで昼寝(?)。昨晩四時間くらいしか眠らなかったせいかよく寝た。

ショーソン交響曲変ロ長調 op.20 で、指揮はアレクサンドル・ブロック、リール国立管弦楽団NMLCD)。僕の好きなショーソン。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第一集で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NMLCD)。僕の好きなヤナーチェク


長谷川四郎を読む。

早寝。

若松英輔『苦海浄土 悲しみのなかの真実 石牟礼道子』

晴。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのパルティーヘ短調 Hob.XV:f1 で、演奏はトリオ1790(NMLCD)。■モーツァルト交響曲第二十八番 K.200 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNMLCD)。よいな。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十番 K.499 で、演奏はアレクサンダー弦楽四重奏団NML)。

Apotheosis V1

Apotheosis V1

シェーンベルクの五つのピアノ曲 op.23 で、ピアノは廣田洋子(NML)。シェーンベルクのピアノ作品集であるが、op.19 と op.25 がなく、代わりに「十七のピアノ断章」という知らない作品が入っている。さて、現代の演奏であるから既にシェーンベルクが完全に消化された上で弾かれているのは当然である。このような演奏で聴くと、シェーンベルクはもはや古拙な味わいすらもった、どちらかといえばシンプルな音楽に聴こえるのが今だなあと思った。特にロマンティックに演奏されているわけではないけれど、シェーンベルクが後期ロマン派の延長線上にあることがよくわかる。そしてその音楽的な魅力も。シェーンベルクは決して無味乾燥な音楽を書いたのではなかった、当り前のことだが。
Schoenberg: Piano Music

Schoenberg: Piano Music

 
日本の景気が確実に悪化してきている。様々な指標がそのことを示しているので、それはほぼ事実であるといってよいだろう。そこに中国経済の減速が加わり、ちょっとどうなるか予想がつきにくくなってきた。そこに消費増税が来るのか。
なお、これは他人の意見の受け売りである。それを自分で正しいと判断したにすぎない。そのことはお断りしておく。


昼から県営プール。風強し。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック ハニー+ブレンドコーヒー410円。図書館から借りてきた、若松英輔苦海浄土 悲しみのなかの真実 石牟礼道子』読了。なかなかよい本。石牟礼さんへのよき導入になるのではないか。水俣病患者であった方が「チッソというのはもう一人の自分だった」(p.125)と言われたことを書いたのもよかった。これはどういうことかというと、チッソを糾弾するのはやさしい。けれども、自分がチッソの社員であったらどうか。彼ら彼女らと同じことをしたのではないかという思想である。わたしはこれは、現代日本において重要な考え方だと思う。例えばわたしにしても、仮に東電の技術者であったらどうか。東電の技術者は、津波原発の電源が失われる可能性を肯定し、それを上司に告げるところまではした。しかしそれが取り上げられなかったとき、それ以上何もすることはなかった。以上はうろ覚えで書くので正確ではないかも知れないが、あくまでも例として提出するに、わたしが東電の技術者だったら、彼あるいは彼女と同じことをしなかったと考える方がむしろおかしい。その意味でわたしもまた、恥ずかしながらもう一人の東電であるといえる。まさに人間のクズであるが、この認識がいまの日本人に欠けている、大きな部分であると私は思う。決してなおざりにしてよい問題とは思えないが、これは子供の時からこういう考え方を叩き込んでいないと、もはやムリだ。ツイッターやブログなどでエラそうに正しいことばかり言っている人たち(わたしも含む)に欠けているのが、まさにこれだと思われる。そして余計なことを書けば、これが克服される日は、おそらく日本には来るまい。そんな風に、敗北主義的にわたしは思っている。

単純に問いたいが、水俣病はいまだに終っていないことを、あなたは知っているか? そんなことをいうのはパヨク(という言葉も使われなくなってきたが)だけだと思っていないか? 自分は何となく、絶望的な感じがしている。わたしの敗北主義は、そこに起因する。

帰りにカルコスに寄る。おもしろそうな新書本を探すのがじつにむずかしくなったな。そもそも、何でこんなに本が出ているのだろうと思う。まあ、わたしの精神が硬直化してきただけだろうが。

ちょっとマジくそ真面目すぎるので、いろいろ下らぬことをしております。

蜂飼耳『朝毎読』 / 『エリアーデ著作集第十一巻 ザルモクシスからジンギスカンへ1』

休日(春分の日)。雨。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第四番 op.102-1 で、チェロはヤーノシュ・シュタルケル、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。■モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはアンドレア・グリミネッリ、指揮はロジャー・ノリントン、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。何故か NML にはハーピストの名前の記載がない。この曲を聴くとどうしてもベーム盤を思い出してしまうのが常であるが、この演奏が悪いわけではない。終楽章などよかった。それにしても、存在するのが不思議なほど天上的に美しい曲。まさに神品という他ない。■ハイドンのピアノ・トリオ第三十四番 Hob.XV:34 で、演奏はトリオ1790(NML)。ハイドンはこんな片々たる曲でも巨大だな。

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第7集

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第7集

 
昼寝。ちょっとしんどかったけど楽になった。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十三番 op.27-1 で、ピアノは園田高弘NML)。

スクリャービンのピアノ・ソナタ第九番 op.68、詩曲「炎に向かって」 op.72、メシアンの「鳥のカタログ」 ~ 第五曲 モリフクロウで、ピアノはクララ・ミン(NMLCD)。以前にも書いたとおり、選曲の妙が光るアルバムである。コクのある音で、特にスクリャービンがすばらしい。メシアンはさすがに現代音楽を専門にするピアニストと比べると多少切れ味が劣るところもあるが、それでもスクリャービンと連続して違和感のない音楽に仕上げているところがユニーク。こうやって、現代音楽を専門にしないピアニストが「鳥のカタログ」を取り上げるというのは、おもしろいことだ。■松平頼則(1907-2001)の「主題と変奏の形式による六つの前奏曲」(1975)で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。聴いて度肝を抜かれた。アルバムの他の曲とはまったくちがう、超ハードエッジな曲である。なるほど、これなら野平さんが弾くわけだと思ったのだが、とにかくしんどかった。シェーンベルク・ライクな曲でここまでしんどいのは、日本人作曲家のそれに限らずじつに稀である。しかし自分はこの曲が完全な無調であることくらいはさすがにわかるが、十二音技法で作曲されたのかは聴いただけではわからないのが残念だ。検索してもあまりヒットせず、雅楽の旋律線と「トータル・クロマティック」(? トータル・セリエリズムのことか*1)を融合した傑作との記事を見つけたくらいである。いずれにせよ、興味深い作曲家だとわかった。

メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.13 Le Courlis cendre で、ピアノはチーロ・ロンゴバルディ(NMLCD)。一箇月以上かけて、ようやくロンゴバルディによる「鳥のカタログ」全曲を聴き終えた。これは大きな体験だった。これまで CD でウゴルスキによるこの曲集の録音を聴いてきたが、結局よくわかっていなかったのであり、この演奏で初めて「鳥のカタログ」の魅力を堪能した。ロンゴバルディは既にこの曲集を完全に手の内に収めており、もはや余裕をもってすら弾かれている。技術的にも見事であり、また美しい。自分個人の、この曲集のこれからの参照点になるだろう。これは完全にまちがった解釈であるが、自分にはこの鳥たちが、人類の死に絶えたあとの世界で神の臨在の下、さえずりを無限に鳴き交わしている光景が目に浮かぶ。それは何という美しい世界であることか!

Catalogue D'oiseaux

Catalogue D'oiseaux

ヒンデミットの弦楽三重奏曲第一番 op.34 で、演奏はドイツ弦楽三重奏団(NML)。
ヒンデミット:弦楽三重奏曲 第1番Op.34/同第2番

ヒンデミット:弦楽三重奏曲 第1番Op.34/同第2番


図書館から借りてきた、蜂飼耳『朝毎読』読了。書評集。ふしぎな題名の本である。なんとなくわかるが、というか、朝日、毎日、読売なんでしょうね。まずは見事な文章が印象的だ。どこか古風だが、例えば「走査型電子顕微鏡」という言葉を含んで何の気取りも違和感もない。完璧な本であると絶賛してもよいが、敢てそれに反してみよう。書評は批評ではないというのは当然なのだが、本書では時折それが残念に感じられた。あまりにも見事な紹介すぎるのだ。これほど知的な文章が書ける詩人なら、歯に衣着せぬ批評を読んでみたくなる。それから、本がどれもおもしろそうすぎるかも。もっと下らぬ本についても書いてほしい気がしたが、それはあるいは著者の芸にやられているのかも知れない。
 それから、これはあとで理由がわかったのだが、それぞれの書評には題が付けられているのだけれど、その題の日本語にとても本文の見事さと釣り合っていない、無神経なところをずっと感じていた。あとがきを読んで、これらはそのほとんどが著者の手によるものではないと知って、やはりと思った次第。著者は編集者の労をねぎらい感謝の言葉も書かれているが、一部はどうしても手を入れざるを得なかったことを隠していない。まあ、これらが本書の完璧さを損なっていて、よかったのかも知れない。完璧なものは不吉であるから。

朝毎読 ―蜂飼耳書評集―

朝毎読 ―蜂飼耳書評集―

 
図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集第十一巻 ザルモクシスからジンギスカンへ1』読了。訳者あとがきで訳者は慣例となっているみずからの浅学菲才の表明をおこなっているけれども、この訳文に関してはそれもまた宜なるかな、浅学菲才と申す他ない(いつもの何様である)。まあしかしこれはこの巻に限ったことではないので、このエリアーデ著作集はできれば現代の翻訳水準で訳し直してもらいたいものだと思う。が、まあそんなことはありえないだろう。そこまでいまエリアーデは読まれていない。残念なことである。とってもおもしろいのに。しかし、このエディションがあるだけでも、浅学菲才でどころではない、語学のできないわたしにはありがたいものである。拝み伏して何者かに感謝したい。

*1:聴いていてトータル・セリエリズムの感じはぷんぷんした。しかし、ブーレーズよりはシェーンベルクに近い感じもする。まあ自分のことだからテキトーですが。