斎藤美奈子『日本の同時代小説』 / ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』

晴。
よく寝た。

NML で音楽を聴く。■アルヴォ・ペルトの「何年も前のことだった」で、アルトはスーザン・ビックリー、ヴァイオリンはギドン・クレーメルヴィオラはウラディーミル・メンデルスゾーンNML)。

Musica Selecta

Musica Selecta

モーツァルトの弦楽五重奏曲第二番 K.406 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NMLCD)。これ、もちろん名曲なのだけれど、終楽章の最後が取ってつけたみたいなのは何なのだろうね。■ラヴェルの「スペイン狂詩曲」で、指揮はセミヨン・ビシュコフ、パリ管弦楽団NMLCD)。よく知らないけれど、ビシュコフというのは最後できばる人なのかな。最後ばかりそんなにきばらんでもええにとも思うけれど。
 
シェーンベルクの管楽五重奏曲 op.26 で、指揮はデイヴィッド・アサートン、ロンドン・シンフォニエッタNMLCD)。40分を超える長い曲。なかなかシェーンベルクの限界を超えるのは大変である。■石井眞木(1936-2003)の「日本太鼓とオーケストラのための『モノプリズム』」で、指揮は田中雅彦早稲田大学交響楽団NMLCD)。これはおもしろかった。石井眞木の洗練された音響と、林英哲らのわかりやすいド迫力の和太鼓のミスマッチがおもしろい。これを日本の学生オケが、ベルリン・コンサートで演奏するという、ほとんどオリエンタリズムに堕した俗っぽさも楽しい。こういうことは、時々やるとよいのではないか。なお、演奏のクオリティは高かったです。


イオンモール各務原へ。たまにはここの未来屋書店へ寄ってもいいだろうと思い、つらつら新書棚を見て斎藤美奈子の新刊『日本の同時代小説』を見つける。ははあ、斎藤美奈子は好きではないが、この人は小説が読めることも確かだったなと思い、購入。フードコートでマフィンを食いながら読む。なかなかおもしろい。一時間ほどで一気に読了。
 1960年代から2010年代まで、10年ごとのサーベイがなされている。読んでみて、斎藤美奈子は思ったほど小説が読めていないなという感覚。まあしかし、自分などはもっと読めておるまい。仕方がないことだが、斎藤美奈子はそれほど頭がよくないし、いわゆる(昔風の意味の)「教養」もあまりない。なので、斎藤美奈子のレヴェルでしか読めていないのだが、まあしかし、それでもいいよね。それに、よく読んでいるし。自分などはとてもここまで小説を読んでいない。女性作家に点がアマいところはあるが、それも別にそれでもよい。佐々木敦というどうしようもなく小説も思想も読めないうんこな「批評家」とやらがいるが、それよりははるかにマシである。斎藤はとても自分などが読む気の起きないつまらない小説家もそれなりにきちんと読んでいる。とにかく、これだけ読んでいるだけで感心してしまった。
 それから思ったこと。2000年代までは、本書で扱われている小説はまあまあ自分も読んでいるなと思ったが、2010年代になるとまったくわからない、知らない。2010年代になって、自分が現役の小説読みでなくなってしまったことがわかる。それはもうはっきりしていて、そこはほとんどわからなかった。そして驚いたのは、本書にネットへの言及がほとんどないということ。テキトーに読んでいたせいかもしれないが、ネットの単語は一箇所も覚えていない。自分は、現代の特徴はネットが「リアル」と同様の現実になった、いや、「リアル」以上の現実になったことだと思っているが、本書にはそのような視点はまったくない。これは恐らく意図的なものであり、本書の蛮勇としてあるいは評価してもよいだろう。わたしは、本書に記された、自分の読んでいない2010年代の小説たちを読もうという気がまったく起きない。それは、既に自分が同時代に対する感性を失った老害であるからであろう。斎藤美奈子さんにはこれからも頑張って頂きたいものである。いやあ、おもしろかったなあ。

しかし、エラそうに書いたけれど、自分はホントまだまだ読んでいないですよ。古くさい小説でもっと読んでみたいものはたくさんあるので、何とか読みたいなあ。


図書館から借りてきた、ジュリア・クリステヴァボーヴォワール』読了。「叢書・ウニベルシタス」ってまだあったのね。ひさしぶりに読んだ。

ボーヴォワール (叢書・ウニベルシタス)

ボーヴォワール (叢書・ウニベルシタス)

斎藤美奈子の新書新刊がとてもおもしろかったので、夕飯を食ったあとでアルコールの入った頭であちこちひっくり返しているが、「プロの読み手として頑張ったなー」という感じがつくづくする。もちろん自分などには到底書けない。結局、いま現在プロの読み手として、小説なんぞに何を読むのかという話なのだ。斎藤美奈子はある近代批評を創始しさらにはそれを自分で終わらせた批評家を「コバヒデ」と呼んでバカにしたが、さて斎藤自身は小説に何を読むのか。つまるところ、コバヒデの呪縛から逃れ出たわけではなかったのである。それは、「本格的シリアス純文学」(それはポストモダンなども含んでしまう)みたいな小説に対する斎藤の高い評価を見れば一目瞭然だ。その「矛盾」が自分などにはとってもおもしろいし、斎藤に一種の「ホンモノ」ぶりを(イヤイヤながら)認めたくなるところでもある。もちろん斎藤なんぞは歴史的に見ればまったく大したことはないのだが、それでも斎藤はプロだ。きちんと水準以上のものを出してきているし、そこがこんなところで下らぬことを書いている自分などとちがうところでもある。ひどい言い方かも知れないが、いまや斎藤並の仕事ですら、ほとんど見かけない気がする。しかし、関川夏央とかは何をしているのですかね。いまの編集者は関川とかをどうしているの?

しかし、斎藤はまた、作家を「殺す」ことのできるような批評家では、残念ながらなかったようだ。いまは何をしているか知らないが、文芸批評を書いていた頃の福田和也はそういう批評家だったと思う。僕は、村上龍高村薫を「殺した」のは、福田和也だったと思っている。ま、僕は教条主義的パヨクで、福田和也は右翼だけれどね。

そういやさっき『ボーヴォワール』とかいう本を読んだのだけれど、世紀の大作家ジャン・ジュネを『聖ジュネ』(読んだのだけれどよく覚えていないのはナイショ)で殺したのは、かのサルトルだった。サルトルって進歩的知識人みたいな顔をして、それにどうしようもない醜男だったが、退廃文学大好きの恐ろしい批評家でもあった。若い人は知っているのかどうか、『嘔吐』っていうとてつもない影響力をもった小説の書き手でもあったしな。っていま誰がサルトルなんて読んでいるのだよなあ。

ブログ「本はねころんで」の今日のエントリは鷲田清一氏のコラムから話題を拾って、三木清林達夫渡辺一夫の三人について言及してあるものであったが、あまりにも懐かしい名前でちょっとしばし凝固してしまった。三木清については、自分には三木清が好きだという奇特な友人がいたのであるが、あんなに仲の良かった友人であったけれど、彼が住所を変えたときにわたしに連絡はなく、そのまま既に20年以上が経っている。彼が何を思ったかは知らない。まあ彼については、そのうち書くこともあるかも知れないが、いや、またその日は永遠に来ないのかも知れない。
 「本はねころんで」さんが書かれている林達夫の文章は、自分には思い当たるところがなかったので、該当する文庫本の「宗教について」を読み返してみた。林のいう「原始民族」(中公文庫版『歴史の暮方』p.75)についての林の理解など、レヴィ=ストロース以前であることからして当然であるが、完全に時代遅れのものになっていて、林達夫でもそうなのだなと思うところもあったが、それにしても知的で、じつに見事な文章である。「宗教と戦った」(同 p.74)という一節などに、いかにも時代を感じるところはあるが、そういう細部はともかく、この文章全体で林が言いたいことは何なのか、名文ははなはだ屈折している。自分の読みでは、林は太平洋戦争直前の日本の異常な雰囲気を、「呪術の復活」というタームで書き留めているように思う。(ちなみに、この文章が発表されたのは1941年4月であり、真珠湾攻撃はもちろん同12月である。)仮にそれが「正解」であるとして、そのことを同時代でこの文章から読み取れた読者はおそらく非常に少なかったであろうという気がする。それくらい、屈折した文章だ。
 それから、本文の内容とは関係がないのだが、読んでいて文章中に「貶位的」(p.77)という単語を見つけて、オヤと思った。これは恐らく林の造語ではないかと思う。少なくとも、自分のもっている(電子辞書版)「広辞苑第六版」にはないし、Google 検索でも一件もヒットしない。意味は、「よくない意味で」というような感じなのだろうが、恐らくは何かの西洋語の直訳であり、そして残念なことにわたしにはその単語が推測できない。ただ、わたしにそれがピンときたのは、その意味の日本語がなくて、わたしも困っていたからである。じつは澁澤龍彦は同じ意味であろう、「貶下的」という単語を採用していて、じつはこれまで自分はこちらを何度か使ったことがある。この語、日本語に入れてもよいと思うのだが。ちなみに「貶下」は「広辞苑」にはないが、Google 検索では多少ヒットする。わりと使われているようだ。
 話が逸れた。講談社学術文庫渡辺一夫の『僕の手帳』は手近の本棚にあったので参照してみたが、「宛名のない手紙」という題の文章はない。元の新聞記事を見ればわかろうが、階下は既に両親が就寝中なので、いまは新聞が見られない。というわけで探索は終了してしまったが、多少文庫本を適当に読んでみる。昔の大先生たちは、よい文章を書かれたものだ。わたくしなどは忸怩たるものを感じずにはいない。同じ講談社学術文庫渡辺一夫としては、『人間模索』という本も本棚にある。どこの古書店で、いつ買ったものかわからないが、『僕の手帳』ともども、明らかに古書店で購入したものだ。このような「ダサい」題名の本は、いまではまず出ないであろうが、わたしは懐かしいものを感じてしまう。時代遅れの人間の繰り言である。

吉村均『チベット仏教入門』

晴。
早く起きたのだが、脳みそを休めるため午前中はずっとゴロゴロしていた。だいぶフレッシュになった感じ。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV609-613 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■ハイドン弦楽四重奏曲第三十八番 Hob.III:46 で、演奏はアマティ四重奏団(NMLCD)。■ヒンデミットヴィオラソナタ op.11-5 で、ヴィオラはルカ・ラニエーリ(NMLCD)。■リヒャルト・シュトラウス交響詩ツァラトゥストラはかく語りき」 op.30 で、指揮は田中雅彦早稲田大学交響楽団NMLCD)。■ラヴェルの「ボレロ」で、指揮はセミヨン・ビシュコフ、パリ管弦楽団NML)。やー、ひさしぶりに聴いたけれど、おもしろいな。よくできた曲だ。

ラヴェル:ボレロ、ラ・ヴァルス、スペイン狂詩曲、他

ラヴェル:ボレロ、ラ・ヴァルス、スペイン狂詩曲、他

 
心が柔軟なときにツイッターを見るの、ほんとダメージが大きいなあ。失敗だった。生きる気力がなくなってくる。風呂へ入っている間も悶々としていて、夕御飯を食べてようやく落ち着いた感じ。世代を問わず、ふつうの日本人がダメになったなあとつくづく思う。自分が碌なもんじゃないから、なるたけ人のことは考えないようにしているのだけれど。


吉村均『チベット仏教入門』読了。

これは仏教の本としては悪くない、というかそんなエラそうなことは自分にはいえないようなものであるが、一方で、チベット仏教ですら仏教プロパーでは現代はどうしようもないのだなということを教えてくれる本だった。本書は悪くない(とカスがいう)のであるが、恐らく本書ではなかなか現代の日本人を救うことはむずかしいように思える。たぶん、ダライ・ラマとかチベット仏教の高僧ですら、もはや現代には焼け石に水程度の力しかもっていないのかも知れない。いや、どうなのか、そんなことわたしにわかる筈がないのだけれど、そんな思いが強い。思えば、中沢さんが初めて吉本さんのところを訪れたとき、吉本さんは(吉本さんほど東洋的である人も少ないのに!)はっきりと修行というものを否定したが、なるほどとわかったような気がする。そして、本書の著者と中沢さんを比較すると、中沢さんはそのときの吉本さんの立場に明らかに近い。もちろん、本書は仏教の本としては勧められるのだが。そうしてわたし自身も、仏教プロパーにはさほど関心がないことに気づかされた。その意味で、本書を読んだ意義があると思える。

そして、自分はまだまだだということもまたよくわかったね。というか、一生凡夫であろうな。

ウンベルト・エーコ『ヌメノ・ゼロ』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV604-608 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 で、ヴァイオリンはジュリアーノ・カルミニョーラNMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十三番 op.138 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十三番 Hob.XVI:34 で、ピアノはニクラス・シーヴェレフ(NMLCD)。いい曲だな。この曲はブレンデルの演奏を思い出す。このシーヴェレフというピアニストには問題が多いが、なんとか聴けるのが不思議。

リヒャルト・シュトラウス交響詩ドン・ファン」 op.20 で、指揮は田中雅彦早稲田大学交響楽団NML)。2015年、ベルリンでのライブ録音。これマジ学生オケか。

ライヴ・イン・ベルリン2015

ライヴ・イン・ベルリン2015

 
今日は航空自衛隊岐阜基地の「航空祭」で、ブルーインパルスが飛んでいるようだ。でもウチからだとちょっと見えない。よく見える年もあるのだが。空がちょっと雲が多くて、青いキャンバスでないのが残念。

米屋。肉屋。

ウンベルト・エーコ『ヌメノ・ゼロ』読了。

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

 
あるブログを読んでいたらえらい評論家が「…というより本が多すぎて上手く探せない。岩波ブックセンターなきあと新刊本探しで頼りになるのは東京堂しかないのか」とか読書日記で書いているそうで、田舎者としては甘ったれたことを言っているなあと思う。まあ、そんなことを言っているから地方には文化がないのだと仰るのかも知れないが。どうでもいいのだけれどね。

『禅海一瀾講話』を読む。

■ベルクのピアノ・ソナタ op.1、ショパンポロネーズ第七番 op.61 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。園田高弘が自分にとって特別なピアニストになったことを思う。園田で自分がいちばん好きなのは、その音だ。やわらかく滋味があって、しかし核のようなものもある。同じではないのだが、園田を聴いているとバックハウスが思い出されてならない。ベルクもショパンもじっくり弾かれていて、心に染み透ってくるかのようだ。そして前も書いたが、園田は楷書を決して崩さない。どれも堂々たる正攻法だ。それがまたよい。このディスクは園田の七十歳を記念したコンサートの録音であるということだが、技巧もまったく達者である。よいピアニストだと思う。園田が聴かれないとすれば、それは何なのか。■ブラームスの三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはファビアン・ミュラーNML)。なかなかよい。

Brahms: Op.10/76/117

Brahms: Op.10/76/117

伊藤比呂美『たそがれてゆく子さん』

晴。

NML で音楽を聴く。■ハイドン弦楽四重奏曲第三十七番 Hob.III:45 で、演奏はアマティ四重奏団(NMLCD)。■バッハのオルガン小曲集 BWV599-603 で、オルガンは椎名雄一郎(NML)。

J. S. バッハ オルガン小曲集 〜スイス・ポラントリュイのアーレント・オルガン V〜

J. S. バッハ オルガン小曲集 〜スイス・ポラントリュイのアーレント・オルガン V〜

 
大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー310円。今日は何だかすごく混んでいた。駐車場も満杯。引き続き伊藤比呂美さんを読む。
行楽シーズンのためか、道路も混雑。家電量販店の前には車の行列だったり。


ハイドンのピアノ・ソナタ第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはニクラス・シーヴェレフ(NML)。

Haydn: Sonatas & Variations

Haydn: Sonatas & Variations

モーツァルトの弦楽五重奏曲第三番 K.515 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NMLCD)。

肉屋。


図書館から借りてきた、伊藤比呂美『たそがれてゆく子さん』読了。母から廻してもらった本。昨日も書いたとおり、わたしは伊藤比呂美さんが大好きである。最初の50ページくらいで旦那さんが死んだ。これまで我々は伊藤さんのお父さんも見送ってきたし、犬も見送ったが、ついに旦那さんも見送った。本書は全編が死と老いで満ちている。確かに、老いも死もさみしい。とってもさみしい。終わり近くで石牟礼さんも死んだ。老人ホームの炊飯器で石牟礼さんが編み出した料理の記述を読んでいたら、少し胸にきた。けれども、新しい世代だって出てくる。子育てに死ぬほど苦労した娘達は堂々たる大人になって、伊藤さんはつい感動する。最後は末娘のトメの結婚式だ。ホロリとしたのは伊藤さんだけではない。わたしもふたたび少し胸にきた。結婚して子育てして夫を見送って、わたしにはそういう人生はなくて、ふつうの皆さんがついうらやましくなった。いつもはあんまり思わないのだけれど、それはわたしの本音である。そして、あとがきの伊藤さんはもうさみしくないのである。

たそがれてゆく子さん (単行本)

たそがれてゆく子さん (単行本)

 
市の図書館から借りていた本がだいぶ延滞になっていることに気づいてびっくり。ああ、旅行とか何とかで、まったく忘れていた。明日返しにいって謝ってこよう。
――と思ったが、図書館は夜の七時まで開いているので、さっさと行ってきた。もう外は真っ暗だが。(PM06:18)

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはジュリアーノ・カルミニョーラNMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十二番 op.133 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。■ハンス・ヴィンターベルク(1901-1991)のフルート、オーボエクラリネットバスーンチェンバロのための組曲で、フルートはブライアン・ルース、他(NML)。初めて聴く作曲家である。ちょっとリゲティっぽい感じかな。何となく汚くて不愉快に感じるところがおもしろい。どこか変った感性だと思う。なお、日本語の検索ではまったく引っかかってこない。英語版 Wikipedia参照)には(さすがに)かなり詳しい記載がある。

Winterberg: Chamber Music, Vol. 1

Winterberg: Chamber Music, Vol. 1

■トーマス・ラルヒャーの弦楽四重奏曲第三番「マッドハレス」で、演奏はディオティマ弦楽四重奏団NMLCD)。ラルヒャー、なかなかよいな。気持ちよいまでのモダニズムだ。NML であと二枚聴けるので、聴いてみたい。


ピリピリに辛い大根おろしと抜き菜の味噌汁がうますぎるな。

ハイドン弦楽四重奏曲第三十六番 Hob.III:44 で、演奏はアマティ四重奏団(NML)。

Complete Stringquartets op. 50

Complete Stringquartets op. 50

■ケイト・ムーア(1979-)の「スピン・バード」、「海の貝殻の物語(ピアノ版)」で、ピアノはサスキア・ランクホールンNML)。クラシック音楽というよりは、ジャズとかイージー・リスニングという感じ。もちろん何でもよいのだけれど。
Kate Moore: Dances And Canons

Kate Moore: Dances And Canons

モーツァルトの弦楽五重奏曲第四番 K.516 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NML)。これはよい演奏。
Die Streichquintette

Die Streichquintette

 
昼過ぎ、曇る。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ホット・セイボリーパイ フランクフルト+ブレンドコーヒー486円。僕の大好きな野蛮人・伊藤比呂美さんを読む。父親を亡くしたのも読んだし、犬を亡くしたのも読んだが、今度は旦那さんを亡くす。伊藤比呂美さんは本当に生きているなあ。これこそ生きているという感じ。生きている限りは、死というものから逃れられないのだ。陳腐だが、それこそが生なのである。旦那さんが亡くなったあと、葬儀屋がベッドの上に置いていった赤いバラは、いかにもなのだけれど思わず胸にきた。しかし、老いと死に満ちた本なのに、思わず笑わされてしまうところがあるのが唯物論的なのではあるまいか。リアルには笑いが宿るのだ。

寝る前にも伊藤比呂美さんを読む。

ジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』

晴。

母が一度書いたブログエントリを誤って消してしまい、ブラウザのキャッシュから復元できないか試みる。自分の使っている Chrome は以前はできたようだが、よくわからないけれどキャッシュが暗号化されているのか、それとも Chrome のキャッシュのシステムを理解していないせいか、ちょっと無理だった。キャッシュのデータ自体は ~/.cache/google-chrome/Default/Cache にあるようだが。(なお、WindowsMac ならその目的のためのフリーソフトが存在するようだ。)あとは、母の Firefox で試みる。いろいろやって、ブラウザのアドレスバーに about:cache と入力していけそうだったのだが、データが膨大すぎて目当てのファイルが発見できず、まああきらめるかということに。なかなかむずかしいな。

NML で音楽を聴く。■バッハのトリオ・ソナタ第六番 BWV530 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■バッハのフルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031 で、フルートは福永吉宏、チェンバロ小林道夫NMLCD)。

ひさしぶりにカルコス。店内が多少リニューアルされた。いつもの文庫新刊(ちくま学芸、古典新訳、河出など)の他、ちくま新書を買ったり。話題になっているものも数冊手にとってみたが、買うに至らず。最近はチャレンジ精神がなくなってきて、中身が見えてしまうどうでもいい本がなかなか買えない。老化である。
 いつもの「群像」連載の中沢さんの論考立ち読み。今月のは本当にむずかしかった。しかし、老化して刺激を与えてくれる本が少なくなるなか、中沢さんを読んでいると二十代の感受性がヒリヒリしていた頃がよみがえってくるかのようだ。背伸びしてむずかしい本が読みたくなる。さても若い優秀な学者たちが一般人を見下している様子はまあわからないこともないが、バカに教えてやるという態度が透けて見える啓蒙書ばかりでなく、知能の限界を振り絞ったような本を書いて欲しいものだ。我々のようなバカにも、むずかしい本は必要なのである。


ジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』読了。國分功一郎氏が中心になってまとめられた、ドゥルーズの初期論考(あまり知られていない)の翻訳である。國分氏はわたしよりだいぶ若いが優秀な哲学研究者(あるいは哲学者)で、一時期は期待をもって見つめていた人であった。最近は何をされているのか知らないが、また刺激的な著書を期待している。本書の論考たちはあまりまとまっているとは言えず、表題作の若きドゥルーズの講義録(学生によるノート)などは、自分には能力不足で何を言っているのかとんとよくわからなかった。けれども後半のいくつかの論考などはとても読みやすく、また大胆に「女性」を語っていたりもして、ドゥルーズも若い頃はこんなものを書いていたのかと愉快だった。思えばドゥルーズはわたしの若い頃に流行っていたので、わからないなりに熱心に読んできたものである。正直言っていまでもたぶんよくわかっていないのだろうが、わたしはドゥルーズは好きだ。読み返したいのは山々なのだけれど、思い切ってしないと永遠に読み返さないような気がする。フーコーも読み直したいのだが。まあ、いまさら自分が読んでもどうなるというものではないのだが、よいではないか。ねえ。

 
ショスタコーヴィチヴィオラソナタ op.147 で、ヴィオラはアダ・マイニッヒ、ピアノはウラディーミル・アシュケナージNMLCD)。■ヒンデミットヴィオラソナタ(1937)で、ヴィオラはルカ・ラニエーリ(NMLCD)。(AM00:00)

富山家族旅行(第二日)

ふとんがよすぎて(?)暑い。枕もふわふわすぎるし熱がこもって寝にくい。老母などは三時間くらいしか眠れない。

七時起床。今日の予定を昨日先に済ませたせいで、行く予定だった富山県美術館が休館であることに気がつく。水曜休館だとは。予定変更ということになる。
 素泊まりなのでホテルのラウンジでコーヒーとトーストの朝食をとったが、笑止であった。650円という我々には高く思われるコーヒーが、ウチで飲むインスタントコーヒーに及ばない。格好をつけているホテルだが、こういうところで質がわかってしまう。450円のトーストもいうに及ばず。


今日はすばらしい好天。まずはホテルから歩いてゆける「富山市ガラス美術館」へ。なぜか街が新しくきれいで、市電もおしゃれ、何だか富山の我々のイメージとまったくちがう。富山市ガラス美術館は図書館と同居で、隈研吾による斬新な建築(上の写真を見られたい)。つい岐阜市の、伊東豊雄による「メディアコスモス」と比較してしまう。ガラス美術館は常設展示のみ見たが、ガラス工芸・美術というものはそれほどよく知らないけれども、とにかく素直に「きれいだなー」と思えるものの力はバカにできないと思った。ゲージュツもたくさんあったが、ゲージュツはまあそこそこという感じ。僕はルイス・トンプソンという人の「ジークムント・フロイトの夢のアーカイブ:NO.369~405/Bの場合」というのがいちばん気に入った。澁澤龍彦ならうなづいてくれそうに思う。富山市はガラスで勝負しているのだなと、ちょっと感心させられたのだった。





街を歩く。「グランドプラザ」というおしゃれな区域があったり、小さなアーケードも(まだ朝なので)人どおりこそ多くないが、新しくてきれいな店ばかりである。これは、どういうことなのだろう。岐阜の柳ケ瀬などもう寂れてどうしようもないのに。道もきれいで、生花が至るところにあしらってある。なにこれ?





何というか、富山市街、きれいすぎる! どうなっているの? 岐阜なんて目じゃないじゃん。






車で「富岩運河環水公園(カナルパーク)」へ。行く予定だった富山県美術館に隣接する、かつての運河を利用した公園である。天気がよかったせいもあって、じつに美しく気持ちがよかった。我々は乗らなかったけれど、一時間ほどの運河クルーズもある。写真を見てもらえば、その美しさは一目瞭然なのではないか。野鳥観察舎でカモ類を見たり。ああ、富山はなんてすばらしいところなのか。

お昼時になったので、食事をして帰ろうということに。で、調べておいた蕎麦屋に向かったのだが、途中で今日は定休日だということが判明する。予定を変えたせいで、いろいろハプニングが。ということで、いまどきの人なら慌てずスマホで代わりを探すわけだが、我々は誰もスマホなどという文明の利器を所有しておらないのだ。なので、途中ローソンを見つけたので駐車場に駐めさせてもらい、わたしの iPad mini からローソンの無料 Wi-Fi を使って、適当に店を探す。なんとか近くに候補を見つけ、蕎麦「司や」へ、運よく待たずに座ることができた。天ざるを頂いたのだが、申し分御座いませんでした。ごちそうさま。

あとは帰るのみ。砺波平野から岐阜富山県境の山々を望んで、山と雲と光の荘厳な光景が現出し、不思議な感じだった。午後四時自宅着。二日間で 465.1km の自動車旅でした。富山には驚かされました。おいしいものも食べられたし、家族で一泊旅行も出来て、これ以上何も望むところはないな。