クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』再読 / 玄侑宗久『桃太郎のユーウツ』

曇。
五時半に目覚める。外はまだ暗い。そのまましばらくふとんの中でぼーっとする。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NML)。終楽章がクソカッコいい。

バルトーク弦楽四重奏曲第六番で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NMLCD)。これでベルチャQ のバルトークをすべて聴いた。一聴の価値があると思う。■ショルティブラームス交響曲第三番がいいと聞いたのでちょっと聴いてみたが、ふつうの好演(?)、オーソドックス、くらいのものではなかろうか(NML)。冒頭しか聴いていないが、退屈でもういいかなって。まあ、気合は入っていそう。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはニコラ・アンゲリッシュ(NML)。実力者・カピュソン最高だな。また、アンゲリッシュのピアノがエモい。重心の低い佳演。2005年の録音。 
裏の木蓮の大量の落ち葉が道路に広がっているのを、掃いて袋に詰める。
白いお茶の花が咲いて、いくつか道路に落ちている。かつて、わたしの子供の頃はお茶も家で作ったものだった。クドで葉を蒸したり、外で筵の上に干したりしたのをかすかに覚えている。いまはお茶の木も、半分くらいに減ってしまった。
 
スーパー。客少なし。
 
昼。
あるサイトで「東京の富が地方に行き届くことが長らく日本の発展を支えてきた」という文章を読んだんだが、そうかね? わたしは逆、つまり、(人材も含む)地方の富が東京に流れ込み(あるいは東京に収奪され)、日本を支えてきた、っていう風に感じないでもないのだが。もちろん、わたしが田舎者だからそう思うのだろうけれど、ね。いまは、「地方の富」が枯渇しつつあるように見える(参考)。その象徴が、日本じゅう判で押したようにどこへいっても同じ、あののっぺりゴチャゴチャした郊外ロードサイドの風景だ。「薄められた東京」が日本の地方を覆い尽くす。まあ、多かれ少なかれ、地方ってのはそういうものなのかも知れないが。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。
クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(原著1962、邦訳1976)再読了。大橋保夫訳。古典を読み返してみたが、このところ読んだ中ではもっともむずかしい本だった。とにかく、わたしごときでは知識も能力もまったく足りない、困ったものである。どうするか、とりあえず大著『神話論理』を図書館で借りて、そのあとにもう一度読み返すかなあ。『神話論理』も、歯が立たないかも知れない。レヴィ=ストロースはどうしても避けるわけにいかないのだが、頭があまりよくないというのは、しようのないことである。
 なお、訳者あとがきはじつによいもので、レヴィ=ストロースをざっくり捉えて正確だと思う。邦訳刊行時にこれだけの理解があったというのは、並大抵のことではあるまい。レヴィ=ストロースは、レヴィ=ストロースすなわち「構造主義」てなもんで(まあ、それはまちがいではないけれどね)、実際いまでも正確に理解されているとは限らないのだ。って、わたしごときのいうことではないかも知れないけれど。 
帰りに肉屋。
 
 
玄侑宗久『桃太郎のユーウツ』(2023)読了。短篇集。「繭の家」「桃太郎のユーウツ」を読んだ。本書の短篇の中では、SF近未来作的な「繭の家」がいちばんおもしろかったかな。COVID-19 よりも強力なパンデミックと、富士山の噴火、東京大震災を経ての、個人の孤立化が極限に達し、多くを AI が管理する近未来世界を描く。国民のほとんどは「繭の家」と呼ばれる無菌状態の個人住居(?)に住み、家族ですら一緒に暮らすことはない。生まれてからマスクの着用が当たり前であり、家族でもほとんど「裸顔」を見せることのない社会、そこで、男女の関係は、どうなるのか。SF であるが、それゆえの現実味が強く感じられた。
 著者自身のいうとおり、すべての短篇が何らかの意味でユーウツだ。それが、作家の感じる現在のリアルなのである。希望が、まったくないわけではないというが、わたしの読みが浅いのであり、わたしは希望よりも閉塞を感じてしまった。それがわたしのリアル、というわけなのだろうか。いまは、ある人たちにいわせると、科学や医学は発達し、物質的に満たされ、学問は高度になり、生活は安全安心、コミュニケーションは改善され、こんなすばらしい時代はないそうである。なかなかむずかしいもんだな。 
 
夜、雨。