こともなし

晴だが薄雲がかかっている。
 
NML で音楽を聴く。 ■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第二十二番 K.305、第二十三番 K.306 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、キット・アームストロング(NMLCD)。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタはひさしぶりだが、とってもチャーミングな曲ばかりだな。惹かれる。
 
ドビュッシーの「前奏曲」、ラモーのクラヴサン曲集 組曲 ホ短調〜No.5, 6, 7, 8, 9, 3, 4、ドビュッシーの「雨の庭」「人形のセレナード」「雪は踊っている」、ラモーのクラヴサン曲集 組曲 ニ短調-長調 No.1, 7, 9, 4, 8、ドビュッシーの「雪の上の足あと」、オラフソンの「芸術と時間」、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」「オンディーヌ」、ラモーのコンセール形式によるクラヴサン曲集 コンセール第五番〜No.2、コンセール第四番〜No.2, 3、新しいクラヴサン曲集 イ短調-長調 No.7, 8, 19, 9、ドビュッシーの「ラモーを讃えて」で、ピアノはヴィキングル・オラフソン(NML)。
 ヴィキングル・オラフソンのラモーとドビュッシーをまぜこぜにしたアルバム全体を聴いた。わたしにはラモーとドビュッシーは随分ちがうように思えるのだが、それがなめらかに連続していくところがすごい。どちらかというと重点はラモーに置かれているようで、恥ずかしながらわたしはラモーをあまり知らないのだが、ラモーがこんなにも魅力的だったとは! スカルラッティソナタに似ているところがあるな。ドビュッシーも、その曲のもっとも魅力的な演奏を引き出していると、いってもいいと思う。ヴィキングルはそんなことをしないかも知れないが、前奏曲集第一巻や第二巻でも、まとめて録音してくれたらいいのに。
 先日発見したヴィキングル・オラフソンだが、ほんと、新しい時代を作っていく演奏家がついにあらわれたことを、実感して已まない。才能ってのは、ちゃんと出てくるものなんだなあ。

ドビュッシー&ラモー

ドビュッシー&ラモー

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昼。
酷暑。珈琲工房ひぐち北一色店。レヴィ=ストロースの『われらみな食人種(カニバル)』を読み始める。レヴィ=ストロースほど、有名なわりに誤解されている人もいないだろう。日本ではいまだに(レヴィ=ストロース)=構造主義主知主義者のようなイメージなのではないか。柄谷行人の理解からさほど進んでいないように思える(ぜひ、中沢さんを読んで下さい)。まあしかし、わたしが「誤解」を解こうという気もあまりないし、そもそもレヴィ=ストロースは非常に頭のよい人なので、わたしにはあまりに手剛わい。でも、レヴィ=ストロースはできるだけ読みたいし、主要著作は文庫化されるべきであるのに、そうはなっていないのを出版社の怠慢だと思っている。っていっても、わたしだって図書館から借りて読んだ本が多くて、レヴィ=ストロースくらい買うべきなんだろうけれどな。帰りに肉屋へ寄ったのだが、臨時休業でした。
 
 
数日前、古書で落掌した、種村季弘『ヴォルプスヴェーデふたたび』(1980)を読み始める。何というか、とても惹かれる。十九世紀末から二十世紀の始めにかけて、ドイツの小さな田舎村ヴォルプスヴェーデで繰り広げられる、芸術家コロニーの様子。日本で一般に知られているとはいえない、それを、論文でも小説でもない、中間的な、どこか懐古的な手法で描いている。何か、夢のようだ。こんな著作を、種村さんは書いていたのだな。わたしはこういうの、とても好きだ。人文学がある意味で死んだいま、かつてのその最上の成果のひとつを懐かしんでいるような気さえする。
 登場人物のひとりに、ライナー・マリア・リルケがいる。あとは、わたしの知らない画家たち。
 なお、ヴォルプスヴェーデについては日本語の Wikipedia に詳しい記述があるが、驚くことに、種村さんの本書は参考文献に名すら挙がっていない。