日常こそを生きる / モーリス・ブランショ『終わりなき対話II 限界-経験』

晴。
早起き。
 
昼食に、昨日道の駅で買ってきた、近江の甲津原(こうづはら)の味噌を使った味噌汁をいただいた。甲津原は姉川上流の山奥で、かつて冬は雪に閉ざされたそうである。そのときの保存食としての味噌らしい。白味噌の系統だと思うが、ふつうにおいしかった。
 
珈琲工房ひぐち北一色店。今日は客が少なかった。
スタニスワフ・レム『完全な真空』の続き。わたしには程度が高い小説(というか何というか。参照)だが、おもしろくないことはない。たまにはむずかしい小説を読むのもいいだろう。あまり読み進められないが。
 この店にはかすかに聞こえるか聞こえないかくらいの音量で音楽が流れているのだが、たまたま流れてきた曲が聴き覚えがあるのに、何か思い出せなくてちょっとモヤった。たぶん、モーツァルトのピアノの入った室内楽曲、恐らくはピアノ・トリオかピアノ四重奏曲だと思う。
 外へ出たら、工房の方から豆をローストするいい匂いが漂ってきた。たまにあるな。
 
帰りに肉屋。豚肉が広告の品で安かった。
 

 
ブランショ『終わりなき対話II』の続き。あと80ページくらいになった。わたしが頭悪すぎて、ますますわけがわからないな。しかし、さらさらさらさらと抵抗少なく読んでいく。もちろん、そんなのは読書ではない、本を読むという行為でないといわれればそのとおり。まったく意味のないことをしているといっていいだろう。でもまあ、そんなことはどうでもいいではないか。何もかもわかりすぎて反吐が出そうな文章(わたしのもこれである)ばかりが氾濫しているいま、わけがわからないまま読んでいける文章、というだけでもね。そもそも、たいていのわけがわからない文章は、バカバカしくて読んでられないだけである。
 
夜。
ブランショ『終わりなき対話II』第十一章「日常の言葉」を読む。
「日常は逃れ去る。日常は取るに足りないものの範疇に属している。」(p.305)
「認識によって日常を探求しようとしても、私たちは日常をとらえ損ねるばかりだ。なぜなら、日常はいまだ認識すべきものが何もない領域に属しているからだ。」(p.307)
「日常性はまず最初に、都市圏での大規模な密集による濃密な現前に属するのだ。日常の経験が私たちに影響を及ぼすためには、世界に名だたる都市という感嘆すべき砂漠が必要なのである。」(p.310)
「なぜ日常は逃れ去るのだろうか。それは日常が主体を欠いているからである。私が日常を生きるとき、これを生きているのは誰でもよい任意の人間である。」(p.312)
 ブランショがよくわかっていないのは明らかだ。日常こそは我々が生きるべき場所であり、日常こそが私そのものだ。我々は日常こそを認識し、毎日のルーチンと思われるものこそが常に新しく、いわば「重大事件の連続」なのだ。日常は都市だけでなく田舎にもあるし、我々は都市でも田舎でもまさに日常を生きねばならない。そして、「英雄的な」特別な瞬間もまた、日常と同型であり、何の変わりもないのである。
 ここから、ブランショは日常をよく生きていた人ではないことがわかる。ブランショは、非日常的特権的英雄的瞬間こそ、生きるに値すると思っていた(この点では)愚か者だった。
 
「私という主体」が一方にあって、「外界」がまた別の一方にあり、その主体が外界を「認識する」のではない。「私」は認識と行動の真っ直中にいるのであり、じつはそこにおいて「私」は消滅している。「私」はじつは世界そのものなのである。天上天下唯我独尊とは、そのことである。
 
図書館から借りてきた、モーリス・ブランショ『終わりなき対話II 限界-経験』読了。訳者あとがきを読んだが、これはブランショの文章を繋ぎ合わせただけの、ほとんど戯言(たわごと)ではあるまいか。ブランショの本文は確かにむずかしいが、これよりは100倍マシである。まあ、わたしの頭が悪いだけの可能性もあるがね、たとえ訳者がブランショをしっかり理解していたとしても、このあとがきはひとりよがりで、理解されようという配慮をまったく欠いている。いったい、何のつもりであとがきを書いてんだ?こいつは。そもそも編集者は、このクソ文章をどう思ったんだ?

 

 
真如のさわやかな空気を得ようとしていたところ、中心にやわらかいものがポツンと置かれる。