こともなし

曇。
このところずっと自分の敢てやっていること、めっちゃしんどくて、遠心力で心がバラバラに吹っ飛びそうなんだけれど、あんまり需要がないっぽくて残念っす。まあ、しゃあないね。
 
スーパー。客少なし。

またムラサキツユクサでごめん。いい色で、庭にいっぱい咲いているとハッとするんだよね。
 
モーリス・ブランショ『終わりなき対話 I複数性の言葉(エクリチュールの言葉)』(邦訳2016)を読み始める。わからないところも多々あるが、ブランショおもしろいじゃん。これは徹頭徹尾、詩として、比喩の言葉として読むべきだ(というか、そうでないと読めないと思う)。それから、ここでの翻訳の言葉はちょっと硬いというか、大袈裟すぎるようにも思える。ブランショのイメージからしてこうなっているのだろうが、原文は知らないけれど、もう少し軽く、おしゃれな(?)文体で訳してもよかったのではないか。エクリチュール(書き言葉)は引っ掻き傷であり、不透明だというのはデリダを思わせるが、まさにそのとおり。本書の「彷徨」というのも、それだろう。先の見える線型的なエクリチュールはつまらない、というのはじつにポストモダン的であり、いまのファクトフルネス的な発想の対極にあるが、ほんと、現在に典型的なエクリチュールは端的につまらないとつくづく思う。

デリダエクリチュールに対してパロール話し言葉)の明晰性、透明性を強調していたが(西洋におけるフォノサントリスムの批判)、禅などはパロールを不透明化するところがあるといえるだろう。
 
 
夜。
『86―エイティシックス―』(2021)第5話まで観る。ミリタリーアニメというのかな。おもしろい。平和を享受して何も知らされていない共和国市民と、現実に「レギオン」と戦っている、決定的に差別された「エイティシックス」の子供たちとの対比が絶望的。そこに優秀でマジメだがよくわかっていない共和国軍人のお嬢様少佐が関わってくることで、事態が動き始める。特に第5話で、大きく話が動き、共和国の思っているように、そのうち戦争が終わるどころか、戦況は逆だということがわかり始める。これで、先がどうなるか。
 共和国のミリーゼ少佐の役回りは「ハンドラー」といって、安全な場所で見かけ上の指揮を執っているだけだが、これは別にフィクションだからそうというわけではないな。第二次世界大戦のときの日本軍の大本営も、安全な場所で机上の空論を弄んでいただけだった。彼らにとって、戦争は作戦地図上のコマにすぎなかった。それは、現在の戦争でも同じことであるし、我々がお茶の間で戦場の動画まで見ている現在の現実の方が、アニメ以上によっぽどアニメ的であるようにも思える。