轟孝夫『ハイデガーの哲学』

薄曇り。
 
NML で音楽を聴く。■武満徹の「閉じた眼」「閉じた眼II」「雨の樹 素描」「雨の樹 素描II〜オリヴィエ・メシアンの追憶に」「子供のためのピアノ小品」「リタニ〜マイケル・ヴァイナーの追憶に」で、ピアノは福間洸太朗(NMLCD)。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NML)。

 
モズがずっと元気に高鳴きしている。いろんな声で鳴いているのであり、モズはたくさんの鳥の鳴き声を真似できるのだという。だから漢字で「百舌」と書くのだそうだ。
 
 
昼寝。
 
珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒー(飲み物一般)が50円値上がりして、一杯550円になった。これは高いのかどうか。ミスドのコーヒーならちょうどこの半額、275円だ(わたしはミスドのコーヒーを悪くないと思う、超安上がりな人間だ)。でも、ここのコーヒーはわざわざお金を払う価値があると思うし、近所にこういう店があるのは豊かだと思うから、これからも行くだろう。
 『コレクション瀧口修造10』を読み始める。第一部はデザイン論。わたしはデザインの展覧会というものに行ったことがほとんどないような気がする。美術偏重というべきか。田舎者、ということもちょっと関係があると思う。デザインについてあまり考えたこともなくて、瀧口の文章を追っていると、デザインについてもなかなか考えることはあるな、と、素朴な感想を抱いたりする。
 

 
轟孝夫『ハイデガーの哲学』(2023)読了。これは「危険な哲学者」ハイデガーの全体像をざっくりと掴もうとしたよい本(入門書)で、新書版で500ページを超える大部のものであるが、わたしには明快で一貫した記述で、かなり読みやすかった。著者が徹底してハイデガーを考え抜いているからである。ハイデガーナチスの関係についても通り一遍でなく、勇気を出して踏み込んで書いている。わたしはハイデガーをそれほど読んでいるといえないのだが、本書の描き出している「哲学」自体が、価値があるものと感じる。
 本書を読んでいてなんとなく思ったのだが、ハイデガーの哲学は、「ダサい田舎者」のそれであると、きわめて乱暴にであるがいえるのではないかと。それゆえに、現代の我々にとってハイデガー哲学はアクチュアリティがあるように思える。ただ、ハイデガーが現代の「存在忘却」をいくらいっても、実際にそこに陥っている我々が、それに気づかないんだから、その「存在忘却」をいってもほとんど無意味かも知れない。たぶん、ハイデガー哲学は、例えば「自然とふれあうことがだいじなんだ」「大事なのは自然の中での素朴な生き方」というような、よくあるナイーブな「哲学」として、分類・整理されてしまうだけかも知れないのである。現代の田舎者は、そう捉えられてしまってはおしまいである。我々は、都会にあっても、同じように「自然(=人工物)」とふれあって生きねばならない。そこが、きわめてむずかしいところだ。
 ただ、ハイデガーには、本書を読んでも、言語批判はないようなのだな。「存在忘却」は、言語によって生じる。それをハイデガーのように言葉で批判しても、なかなかのところむずかしい。やらないよりは、マシかも知れないが。
 本書は哲学初心者だけでなく、哲学に詳しい人にも意味がある、よい本だと思う。ただ、初心者には「存在」だの何だの、わけがわからないかも知れない、頑張って読んでみて欲しい。ハイデガーの「存在」は、例えば「リアル」だと思ってもいい。「存在を知る」とは、「リアルを感知する」といいかえられるかも知れない。

 
夜。
村上春樹1Q84 BOOK1』読了。『1Q84』は 2022.10.25 に読み始め、前回読んだのは 12.6 だから、もう半年以上放りっぱなしだったことになる。しかし、話は充分覚えていた。本書を読み始めて、これは自分が変化したせいだと思うが、村上春樹の小説のイメージが随分と変わった。村上春樹は、現代に生きる我々の途轍もない「(精神の)貧しさ」を、これ以上ない深さで抉(えぐ)っているように思える。以前にも強調したが、これは我々が「貧しい」のであって、村上春樹がではない。大江健三郎とベクトルが反対方向であり、しかしその到達点の遠さは大江レヴェルといってもいいかも知れない。その意味で、ある時代までの日本文学のチャンピオンが大江健三郎であったとすれば、日本文学史において、村上春樹は(逆方向の)その後継者とすら、いえるだろう。そう、同時代的な「反知性」としての、村上春樹。だから我々は誰でも村上春樹を論じることができるし、勝手に褒めることも貶めることも容易だ。でも、村上春樹に到達することは容易ではない、というか、ほとんど誰にも不可能だろう。大江の想像力の根源にアクセスするのがむずかしいように、村上春樹のそれも、とてもむずかしいのだ。例えば村上春樹の長篇に濃厚に漂う、死の匂い。それは、我々が死を隠蔽していることと、関係があるように思える。考えてみれば、村上春樹がアニメ化されないのは、不思議なことだ。テイストとしては、よく似ているようでもあるから。でも、それは当たり前のようにも思える、やはり、文章に固有の世界だということだろう。それに、村上春樹の世界はイノセントではなく、アニメには「危険」すぎる。村上春樹は幸福を描かない。