伝説の「エンドレスエイト」を観て呆れ果てるのこと

雨。
 
「止」と「観」。
いや、全然ちがうな。外部に通じており求心的で、球形で、超薄(アンフラマンス)であり純粋である。こちらは基本的に静的で、土台だ。一方、遮断され、ループして妄想を生み出し、動的。この二種類が共存せねばならない。
 
雨あがる。肉屋。
庭にユリの甘い匂いが立ち罩めている。なぜかヒバリの囀りが聞こえる、近くに田んぼはないのにな。カラスが残ったビワの実を咥えて飛んでいった。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンノクターン第六番 op.15-3、マズルカ第四十三番 op.67-2、第三十番 op.50-1 で、ピアノはアンナ・ザッシモワ(NMLMP3 DL)。
 
 
昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー429円。
大江健三郎同時代ゲーム』の続き。ようやく半分くらいか。ほんとに異様な想像力で、わたしの限界を軽く超えている(ので、なかなか進まない)。若いときに読むべき小説だったが、もう遅いな。だって、誰も忠告してくれなかったんだもの、というか、(いちおうエリート大学にいっていたというのに)周りに本を読む人がほとんどいなかったし。交友関係が狭かったせいもあるが、そもそも時代が大したことなかったね、実際。女の子がディスコでノーパンで踊っているとか、DCブランドとかトレンディドラマとか、そういうのに象徴される時代だった。
 本書は1979年の刊行か。70年代は(精神的に)豊かな時代だったといっていい。戦後のいつからか、「大江健三郎の時代」というのは一般に認めていられないけれど、こういうものを設定してもよいのだと思う(山口昌男や武満さんも、巨大な存在だった)。それに続くのが、位相が大きくシフトして、「村上春樹の時代」ってことになるのかな。そしてそれは、いまに至っている、というわけだ。
 吉本さんは大江健三郎について、どんなことをいっていたかな。にわかに思い出せない。
 
 
同時代ゲーム』を読んでしんどいので、なんとなく山内志朗さんの『中世哲学入門』を読み始めたのだが(第三章まで読了)、これ、新書本レヴェルを遥かに超えて、めっちゃ難解で、おもしろいでやんの。ま、わたしのことだから自分勝手に読んでいるに決まっているのだけれどね。山内さんの『普遍論争』はかつて平凡社ライブラリー版で読んで、これも至極おもしろかった記憶があるが、中身は忘却の彼方である。
 本書に、先達の山田晶(1922-2008)という学者(わたしは知らなかった)の、中世哲学における「存在」に関する珠玉の説明というのが引かれているので、ここに孫引きしておこう。「『エンス』(存在者)は、『エッセ』と『エッセンチア』とから合成されている。エッセとは、それを分有することによってエンスが『エクシステレ』existere するものであり、エッセンチアはこのエクシステレするエンスの『何であるか』を規定するものである。」(p.106)わはは、引用だけでは意味不明であるが、これは「この命題の深さがわかるかどうかで中世哲学の高度を測ることができる」(p.107)とまでいわれる命題なのだそうだ。というように、本書は「存在」を語るそれであり、現在の哲学潮流(分析哲学など)からは離れていそうだが、それでもドゥルーズの『差異と反復』を(自分勝手に)読み返し始めたわたしにとっては、どうもうまい偶然すぎるかのようでもある。井筒哲学にも大いに関係があり、また「存在」から西田哲学の「場所」を思い出したり、って、いや、オレってほんとバカな哲学中二病患者そのものだよね笑。

 
 
夜。
涼宮ハルヒの憂鬱』第19話まで観る。伝説の「エンドレスエイト」を実見して満足というか、呆れ果てた。まさかここまで引っ張るとは、「ループもの」という以外の事前情報なしにぜんぶ丁寧に観たオレはアホだな。つかれたー。しかし、これよく許されたな、こんなクソアニメは、これまでに観たことがない。
 検索してみたら、「アニメ史上最大の愚行」という評があって、深く納得。