『大江健三郎 柄谷行人 全対話』

早朝雨、のち晴。
 
NML で音楽を聴く。■バッハのピアノ協奏曲ヘ短調 BWV1056、ト短調 BWV1058 で、ピアノと指揮はダヴィド・フレイブレーメン・ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。■バッハのパルティータ第二番 BWV826 で、ピアノはダヴィド・フレイNML)。

 
いい天気。空が青い。
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー429円。『コレクション瀧口修造5』を読み始める。
 
 
図書館から借りてきた、『大江健三郎 柄谷行人 全対話』読了。おもしろかったし、いろいろ考えさせられた。わたしはまさに本書のような本を長年読んできたのだが、いま読んでみるとほとんど何の共感も覚えないのである。こういう論じ方、こういう語たちの意味が、ホワイトノイズ化してしまって、シニフィエが消滅してしまっているというか。対談の時期はどれもバブルの崩壊期、平成の初めだ。ここで文学や哲学は滅びたといわれているが、そういう意味での文学や哲学は、確かに完膚なきまでに滅びた。「夢も希望もない」と、いわれているが、それもそのとおりになった。そして日本は、マンガとアニメの国になったのである。全面的なエンタメ化…。
 それにしても、大江健三郎柄谷行人も、まだ存命であるが、日本でその存在感はほぼゼロになっている。とにかく、濁流のような言葉の洪水に、何もかも一緒くたにして押し流されてしまった。何せ、文系の学問の基礎が認知科学になろうという時代である。思想なんて、とてもとても…。何か既視感があると思ったら、本書は 2018.9.20 に既に読んでいるのだな。ほぼ同じ感想を書いている笑。
 
わたしがやろうとしているのは、すべてを解体して生き残るものを探るということだ。でも、そういうことができるのか、そしてそれが意味あることなのかはまったくわからない。
 
夜。
岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』を読み始める。