村上春樹『猫を棄てる』 / ヴィンケルマン『ギリシア芸術模倣論』

強い雨
雨音で目覚める。
 
「なぜ産まないのか」に対する個人的な回答 ~フリーランスの現場から | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
 
 
図書館から借りてきた、村上春樹『猫を棄てる』読了。副題「父親について語るとき」。副題どおり、自分と父親の関係について書かれた、小さな本だ。そしてそれは、我々はつまるところ誰もが平凡な存在であり、偶然的な、交換可能なそれであること、さらには死への意識に繋がっていく。
 あいかわらず見事な文体だ。わたしは村上春樹の文章というと、それが「田舎くさくて読むことができない」とかいった、浅田さんの言葉をよく思い出す。村上の文章が「田舎くさい」というのは、いかにも浅田さんらしい感想で、あまり一般的ではないだろう。むしろ、村上春樹の文章は、「都会的でおしゃれ」だとされることが多いのではないか。しかし、浅田さんの言葉も、(逆説的に)何か言い当てているところがある。
 長らく先へ進んでいないが、わたしはいまさら『1Q84』を読んでいる最中である(続きを読まないとな)。あれを読み始めて気づいたが、村上春樹の小説は、現在の我々の無意識がいかに下らないものになっているかの、見事な証明ではあるまいか(いっておくが、村上春樹が下らないのではない、我々が下らないのである)。それに関して思い出すのは、「村上春樹はインターネットだ」といった福田和也の言葉だ。これは、わたしにはかなり腑に落ちる表現である。

村上春樹のような大きな存在を、我々はどんどん失いつつある。全体的なパースペクティブから切り離された小さな「個性」たちが、お互いに取り付き合っているのがいまだろう。東さんのいう、「タコツボ化」である。
 
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はボロディン四重奏団(NML)。最高レヴェルのベートーヴェン。ジュリアード弦楽四重奏団とこのボロディン四重奏団が「わたしの弦楽四重奏団」なので、NML で聴けてうれしい。1976年の録音。 

 
昼。
ヴィンケルマン『ギリシア芸術模倣論』読了。田邉玲子訳。 
岩波新書『ベラスケス』第IV章まで読む。文章がひどくてこちらのダメージ大。
 
夜、早寝。