「凡庸の集積」としての村上春樹

薄曇り。
 
昨日、大江健三郎村上春樹を対比するようなことをしたが、大江健三郎は「先端の集積」、先端中の先端、非凡中の非凡ともいえる。対して村上春樹は「凡庸の集積」、ジャンク、貧しいものたちを大きなひとつのパースペクティブで語ったようなものだと感じる。だから、一般に大江は「難解」であるし、村上春樹は誰でも読めるだろう。大江の文体は真似ることができないが、村上春樹は現代にひとつの新しいプラットフォームを与えた、つまり文体として多くに真似られたといえるだろう。
 村上春樹においては、我々の日常生活における凡庸な「事」がバラバラにされ、文章の中で自由に融通無碍し合っている。典型的な「事々無碍法界」のあらわれのように思える。そして、そこに物語の駆動する力が加えられて、小説という形を採っている。これは縁起のあらわれだろうか?
 村上春樹の長篇は「いまある世界」も「あるべき世界」も描かない。むしろ、現実を組み替えた、パラレルワールド、「あり得たかもしれない世界」を描く。それはこのジャンクな現実に何も足さないし、そこから何も引かない。ただ現実ではなく、現実の裏側の世界が、現出している。村上春樹がかつて「新しい」ように見えたのは、そのジャンクな結構が新しかったからにすぎない。
 

 
スーパー。
多少蒸し暑いかな。例外的(笑)つくつく法師が鳴く。
 
半日ネットを見たりなどしながら、他に特に何もせずぐだぐだする。平凡で透明であること。何もしない、何もしなくとも生きている。
バッハのパルティータ集(アンジェラ・ヒューイットのピアノ、NML)を流しっぱなしにしながら、ただごろごろする。ただ無意味に時間が過ぎていく。
 
 
夜。
【鼎談】新全集が示す関孝和像(前編) 上野健爾/佐藤賢一/橋本麻里|『関孝和全集』刊行記念 | web岩波
【鼎談】新全集が示す関孝和像(後編) 上野健爾/佐藤賢一/橋本麻里|『関孝和全集』刊行記念 | web岩波
これ、めっちゃおもしろい! 江戸期日本の有名な数学者(和算家)関孝和の新全集が岩波書店から出るのか。それにしても、関の自筆本がひとつも残っていないとは。関の弟子のひとりである建部賢弘も天才だったことが、関の名前が残った鍵だったというのだ。関以前の日本の数学はせいぜい現在の高校数学レヴェルだったが、関はひとりでそれを研究者レヴェルにまで引き上げ、そしてその本質は続く世代に理解されなかった、と。いやー、すごいな。しかし新全集、275,000円ですよ! はたして、県図書館にすら、入るのかしら。関の数学を現代数学の知識をもって解説した本、あったら読みたくてたまらん。上野先生、お願いします!

 
 
『好きな子がめがねを忘れた』(2023)第4話まで観る。ここまでは全然大したことのない作品だけれど、オレって評価アマいな。これでも楽しんで観ちゃう。CG を多用して攻めた作画だけれど、ちょっとやり過ぎかも知れない。小村君ナイーブ過ぎだな、しかしこれも慣れた。