出発点ということ

曇。

いまは変な時代だな、もし例えばベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタツンデレルイズを同一のパースペクティブに無理なく素直に収めることが必要な時代だとすれば。わたしは、ようやくそれがどういうことか、わかってきた気がするけれど。これが出発点ということであろうか。しかし、そんなことに何の意味があるかと問われたら、まったくわかりませんという他ない。

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中沢さんが若い頃に確かバタフライとスーパーストリングということをいっておられた筈だけれど、ある意味ではまだそちらの方がラクなイメージがある。つっても、僕は超弦理論を理解するにはとても頭のよさが足りないわけだが笑。まあ、バタフライと一般相対性理論くらいなら。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第七番 op.92 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック(NMLCD)。ベートーヴェンはちょっと突き抜けているな。ガーディナー、生命力感がすばらし。■武満徹の「ロマンス」「二つのレント」「遮られない休息」「ピアノ・ディスタンス」「フォー・アウェイ」「閉じた眼」「閉じた眼II」で、ピアノは福間洸太朗(NML)。いい演奏だな。いろいろと発見があった。武満さんの若い頃の作品の魅力とか。それぞれの作品の個性もよくわかる。

 
県図書館。
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー429円。オーウェル評論集の四冊目を読み始める。オーウェルのエッセイを読んでいると、まともということに目が見開かれる思いがするわけだが、このことについては前にも繰り返し書いてきた。オーウェルはその時代においてまともであり、それはわたしに感銘をもたらすのであるが、ならば現代にあってまともであるとはどういうことかと自問しないわけにはいかない。例えば、民衆でありながら、「知的」=バカであるということ。それは、知識人として民衆を教え導き、啓蒙してやろうという態度の対極にある。現在にあって「知識人」は、ツイッターYou Tube で(あるいはその他ネットメディアで)民衆を高みから啓蒙したがって仕方がないし(よくも「自分で考えることが大切なんです」とか、エラソーにいえるもんだ)、その背後に、それを模倣しつつも「知識人」にすら至らないクズたちもたくさんいて、またさらにそのこと自体を批判してみせる「意識の高い」人たちもそれなりにいる。つまり、何もかも既に揃っていて、それで結構誰もが自己満足しているのだ。このような時代、まともな民衆的「知性」=バカというのは、必然的に沈黙を選ぶしかなくなってしまうのだけれど。仮にそれもダメだとすると、どうなるのか。わたしにはよくわからなくてどうしようもない。ま、いずれにせよわたしは無視されているので、沈黙しているも同然であり、そういう意味では問題は少ないともいえるが。わたしはどうでもいい人だからね。それにしても、考えさせられているだけなのに、自分で考えていると思い込んでいる人間は、始末に負えないな。こういう人はたくさんいるし、かかる手合こそが「自分で考えることが大切なんです」とかのたまうのである。


山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』の続き。近頃こんな爽快な本は読んだことがない。いまの時代というか俺というか、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃしていやなもんだ。本書を読んでいると鉄舟、真っ直ぐで(いまの感覚だと)むちゃくちゃだから、ところどころで笑ってしまうし、赤心泣けてくる。一代の快男児とか、そんな言葉にはちょっと大きすぎる人物ではあるが、それにしても爽快なること極まりなし。

また、本書を語っている、鉄舟の弟子の小倉鉄樹というのも、読んでいればわかるが只者でない。まったく、どうなってるんだか。
 しかし、江戸城無血開城というのは、西郷と鉄舟でほとんどやったのだな。勝というのは、鉄舟から功を取り上げただけのことで、鉄舟がそんなことはどうとも思っていなかったから、こういう評価になっているわけだ。勝ってのはえらいことはえらかったが、ちょっと功名心が強かったということらしい。

まだまだ未熟。