昧爽起床。
曲目は、「ア・ウェイ・ア・ローンII」「海へII」「夢の時」。指揮は岩城宏之、札幌交響楽団。曇。
腹がへったので、六時前に朝食。いつもの、自家製マーマレードを載せたトーストと、ミルクたっぷりのコーヒー。
NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第三十三番 Hob.XVI:20 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル(NML)。1992年のライブ録音。よい。
■バッハの半音階的幻想曲とフーガ BWV903 で、チェンバロはスコット・ロス(NML、CD)。しばらく二度寝。
昼寝。
ヴィクター・W・ターナー『儀礼の過程』を読み始める。
第三章まで読む。ターナーがコムニタスと構造を対立するものと捉えているのがわからない。コムニタスはターナーにおける「共同体」の表現なのであろうと思われるが、何故それが「構造」と対立するのか? むしろ、ターナーの意味するところの「構造」がわかっていないのか? わたしはレヴィ=ストロース的な意味だと思っていたのだが。というか、全然わかっていない?
第四章を読み始めて、上記の疑問が解消した。ターナーはここで、前章までとは打って変わって抽象的な考察に耽っているが、抽象とはやさしいものである。ターナーのいう「構造」は、やはりレヴィ=ストロース的なものではない。その前にコムニタスだが、これはおおよそ原初的ユートピアとでもいうようなもので、多分に空想的なものである。だから、前章までの具体的分析の中で、概念が浮いていたのだ。そして、ターナーのいう「構造」は、そのコムニタスのいわば頽落形態あるいは必要悪であり、コムニタスを垂直に食い破って出てくる、一種の権力構造に近いものと考えるとわかりやすいだろう。その意味での対立概念なのである。むしろ単純な図式化であり、それほどの意味があるとも思えない。ターナーという人はわたしより頭はずっとずっとよいが、人間のことはあまりご存じない(おお、何たる上から目線)。なのでターナーは、自分よりも遥かに複雑な聖フランチェスコや、ウィリアム・ブレイクといった人を、コムニタスという単純な概念で「理解」してしまえるのである。
正直言ってがっかりしてしまったので、本書も残りあと100ページくらいになったが、マジメに読む気を失ってしまった。ざっと流し読みはするつもりである。